
【連載小説|ミステリー】第一章:ベガの沈黙と文学部生による密室講義 第五話/ほうき星の図書室
「管理人が犯人か……となると、凶器に使われたあの万年筆も、管理人の私物ということになるな」
「そのように考えるのが妥当です。おそらく、自宅には同じインクのボトルもあるでしょう。成分を鑑定すれば、遺体に付着していたものと同一であると確実に証明できるはずです」
「よし、わかった。まずは鑑識に連絡して、遺体に残されたインクの成分を早急に調べさせよう」
浩一郎はスマホを取り出し、てきぱきと指示を飛ばし始める。
それを横目で眺めながら、優也は頭をガシガシと掻いた。
「しかし……仮に管理人が犯人だとしても、さすがに殺しの動機までは読めねえな」
「そればかりは、直接問い詰めてみないことには分かりません。ただ、万年筆を凶器に選び、あえて文学的な見立てを偽装に用いた以上、そこに犯人の歪んだ『こだわり』があるはずです」
「万年筆で殺した意味ねえ……まともな人間なら、普通そんな発想はしねえよな」
「ええ。万年筆を凶器にした点からも、星新一の文庫本をトリックのカムフラージュに利用した点からも、犯人は『自身のプロット通りに事件を演じること』に強烈に固執している。動機も、きっとその独りよがりな創作欲の延長線上にあるはずです」
「たしか、管理人も本好きだったな」
「はい。僕の内見の時も、読書の嗜好について色々と言葉を交わしましたから。昔は小説家を目指していたと、誇らしげに語っていたのを覚えています」
他愛のない会話を交わしていると、連絡を終えた浩一郎が戻ってきた。鑑識への要請ついでに、管理人室へも連絡を入れていたらしい。
「事件の件で少し話を聞きたいと伝えたら、すぐに管理人室へ来て構わないと言っていた。今から行くぞ、流星も一緒に来てくれ」
「わかりました。……相手の様子はどうでしたか?」
「電話越しでは正確に察しはつかんが、焦っている様子はなかったな。もしヤツが犯人だとしたら、自分の構築した『完璧な密室』にそれだけ絶対的な自信を持っているということだ」
「流星の推理が完璧に的中してれば、の話だけどな」
優也は念のためとばかりに釘を刺すが、その口元にはどこか頼もしそうな笑みが浮かんでいる。おそらくは、流星の推理が外れるはずがないと心の底で確信しているのだろう。
「伯父さん、優也さん、行きましょう。この、本と物語を冒涜する悪趣味な茶番を終わらせるために」
流星は静かに言い放った。本を愛する青年の瞳には、理性の奥底で、決して揺らぐことのない明確な怒りが滲み出ていた。
管理人の居室を訪れると、ドアを開けた管理人は紫月親子だけでなく、住人である流星までが揃っているのを見て、ほんの一瞬だけ表情を強張らせた。しかし、浩一郎が「私の甥であり、今回の捜査に協力してもらっている」と告げると、かすかな困惑の色がその瞳に浮かぶ。
「捜査に協力……どうして、この学生さんが?」
「隣室の住人であるという理由もありますが……何より、僕には今回の事件でどうしても許せないことが二つあるからです。一つは、愛猫のベガを理不尽に怯えさせたこと。そしてもう一つは、小説に対して、極めて侮辱的な見立てを行ったことです。その過ちを直接突き付けるために、僕はここにいます」
『侮辱的』という言葉を投げかけられた瞬間、管理人の眉間がぴくりと微動した。流星はその小さな動揺を見逃さなかったが、あえて追撃はせず、淡々と話を続ける。
「この事件は、一見すると完璧に見えるかもしれません。ですが、よく見れば穴だらけのエラーばかりです。密室の構造も、見立ての配置も、わざわざ回りくどいトリックを使った理由も……犯人は完璧な傑作を書き上げたつもりなのでしょうが、第三者の目から見れば杜撰の一言に尽きる。極めつけは、普段は些細なことでは動じない猫に、恐怖心を植え付けたことです。例えこの事件をそのまま小説の原稿に執筆したとしても、正直に言って、まったく面白くありません」
「お、面白くない……だと?」
「はい。そもそも、本や物語を自己顕示欲のための道具として利用している時点で、文学を愛する資格などない。そんな人間が紡ぐプロットなど、独りよがりの落書きと同義です」
「っ、ふざけるな!」
唐突に、管理人が声を荒げた。浩一郎と優也がぎょっと目を見開くが、流星はただ静かに、冷めた目で管理人を見据えている。
男の顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染め上げられていく。
「どいつもこいつも、『面白くない』ばっかり言いやがって……! いったい、あの完璧なミステリーのどこが穴だらけだ! 完璧に計算し尽くされた、誰にも破れない究極の密室のはずだぞ!」
「……っ、あっ」
優也が思わず声を上げる。
管理人自身が叫んだその言葉は、自らが犯人であることを証明する決定的な自白にほかならなかった。
玄関先が、重苦しい静寂に包まれる。
「いまの言葉……貴方が田崎さんを殺害した犯人だと、自分で認めたわけですが?」
浩一郎が鋭く問い詰めると、管理人はもう取り繕うこともせず、荒い息を吐きながら彼を睨みつけた。もはや動揺というより、自分の『傑作』を否定されたことに対する剥き出しの怒りが、理性を完全に焼き切っていた。
「アイツが悪いんだ……! 俺が長年、誰にも言わずに密かに書き続けていた小説のプロットを嗅ぎつけやがって、無理やり読ませろとしつこく迫ってきた。渋々見せてやったら……アイツは、俺の原稿を一瞥しただけで、『こんな陳腐でつまらなすぎる密室トリックがあるか』って、せせら笑いやがったんだ……!」
「はあ? そんなふざけた理由で殺したのかよ」
「もしかして……その『ミステリーのプロット』で使われていたトリックを、そのまま今回の現実の殺人に応用したんですか?」
流星の冷静な問いかけに、管理人は歪んだ笑みを張り付かせて頷いた。
「そうだ! 実際に自分の手で完璧な密室を作り上げてみせれば、アイツも自分の愚かさに気づくだろうと思った。なのに……何故だ、何故警察の風下にいる素人のガキに、俺の完璧なロジックが暴かれるんだ……!」
管理人は唾を飛ばす勢いで喚き散らすが、紫月親子はすでに呆れ果てたように冷ややかな目を向けているだけだった。流星は一切怯むことなく、淡々と言葉を継ぐ。
「貴方の目から見てどれほど完璧なプロットだったとしても、現実の論理の前では、ただの穴だらけの絵空事に過ぎません。それに……ベガという、貴方の計算には存在しなかった『最大のエラー』を、最後まで見落としていた。猫なら何も喋らないとでも高を括っていたのですか」
「うるさい! 俺はこのミステリーに人生のすべてを懸けていたんだ! だからこそ、アイツのあの侮蔑の言葉が絶対に許せなかった……! アイツがバカにした、あの『小説を書くための万年筆』で心臓を貫いてやったんだ。これ以上ない最大の屈辱だったはずだ、そう思わないか!?」
「その身勝手な考え方こそが、独りよがりの茶番だと言っているんです」
流星は一歩前に踏み出し、冷徹な瞳で管理人を射抜いた。
「人を殺すための道具に酔いしれ、屈辱を与えることに陶酔するあまり、貴方は致命的な盲点をいくつも残した。第一、現場に残された万年筆のインクの成分を調べれば、貴方の部屋にあるインクボトルと同一であることはすぐに判明します。さらに言うなら……貴方が文字通り『心血を注いで』執筆活動を行ってきたのなら、その凶器の万年筆には、貴方自身の皮膚片やDNAがたっぷりと染み込んでいるはずだ」
流星の論理的な指摘を聞いた瞬間、管理人の顔から血の気がさあっと引いていった。
自分が犯した致命的な失策にようやく気づいたのか、あれほど饒舌に喚き散らしていた唇が恐怖でガタガタと震え、二度と動かなくなった。
「もう一度言います。そんな醜悪な動機で殺人を犯し、それを物語のせいにする貴方に……ミステリー好きを名乗る資格などありません」
流星の静かな断罪とともに、外で待機していた捜査員たちが踏み込む。
管理人はその場に崩れ落ちるようにして、手錠をかけられた。
その後、管理人の詳細な自供によって事件は無事に解決を迎えた。
マンションの管理組合は一時的に慌ただしくなったものの、警察の素早い対応のおかげで、住人たちの平穏な日常はすぐに戻ってきた。
もちろん、事件の恐怖で警戒心を強めていたベガも、今ではすっかり安心しきった様子で、流星の部屋のロフトですやすやと平和な寝息を立てている。
事件解決から数日後のこと。
お昼時のピークを少し過ぎた静かな時間帯に、紫月親子が揃って喫茶店【ほうき星】を訪れた。
店内には他にお客の姿はなく、奥のカウンターから、日向と流星が調理する心地よい音が響いている。
「マスター、先日は色々とご迷惑をおかけしました。いきなり事件に巻き込んじゃってねえ」
「いえいえ、私は構いませんよ。無事に事件が解決して、何よりでした。それに、こうしてわざわざ足を運んでくださるのですから」
日向は穏やかな笑みを浮かべ、手際よくオムライスを皿に盛り付けていく。香ばしくコク深いデミグラスソースの香りが、店内にふわりと広がった。
その隣では、流星がフライパンを振るい、特製のナポリタンを同じく美しい盛り付けで皿へと移している。いずれも浩一郎と優也の定番の注文であり、食後に『彗星ブレンド』を啜るのが彼らのルーティーンだ。
「また流星の手柄かよ……親父、すぐ流星を頼るの、いい加減やめろよな」
「どうだろうな。なにせ、我が親戚自慢の名探偵だからな」
「『自慢』を盾にしてんじゃねえよ」
面白くなさそうに優也は頬杖をつくが、目の前に運ばれてきた湯気立つナポリタンの濃厚な香りを嗅いだ途端、嬉しそうに眉尻を下げた。粉チーズをたっぷりと振りかけると、待ちきれないとばかりにフォークを動かし始める。浩一郎もまた、特製のオムライスを上品にスプーンですくい、ゆっくりと味わい始めた。
「まあ、物騒な事件など起きないのが一番だ。ねえ、流星くん」
「はい。僕は、ベガと一緒に静かで穏やかに本を読む時間が少しでも長く続けば、それで十分です」
「そこでもやっぱりベガ最優先かよ!」
口の端にケチャップをつけたまま、優也がすかさず鋭いツッコミを入れる。
店内に浩一郎の太い笑い声と、日向マスターの穏やかな微笑みが重なり合う。
流星はカウンターの向こうでカップを持ち上げ、芳醇な『彗星ブレンド』を一口含みながら、静かに目を細めるのだった。
『ベガの沈黙の裏にあった真実は、こうして穏やかな物語のなかに溶けていく。』
文庫本とコーヒーの香りに満ちた『ほうき星』の日常は、今日も変わらず、静かに回り続けている。
ベガの沈黙と文学部生による密室講義――了