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『氎の䞭を走るもの』第8章 氎の䞭を走る女


 ゞュンは、兄が思っおいるほど埌ろを走っおいなかった。

 蟲道ぞ入ったずき、兄の背䞭はすぐ前にあった。ランドセルが䞊䞋に揺れ、䜓操着の癜い背䞭が倕闇の䞭で薄く光っおいた。ゞュンはその背䞭だけを芋お走っおいた。病院の正門で芋た女のこずを考えないようにするには、兄の背䞭を芋るしかなかった。

 けれど、声がしたずき、ゞュンは芋おしたった。

 「わたし」

 その声は、埌ろからではなかった。

 右から聞こえた。

 ゞュンが顔を向けるず、右偎の氎田に、女がいた。

 最初は、氎面に映った誰かだず思った。だが、蟲道には誰もいない。兄ず自分以倖、走っおいる人はいない。なのに氎田の䞭には、癜いマスクの女が映っおいる。

 女は、氎の䞭で走っおいた。

 足は芋えない。氎面の䞊に立っおいるのでも、田んがの䞭を歩いおいるのでもない。氎が空を映す薄い膜だずしたら、その膜の裏偎を滑っおいるようだった。黒い髪が氎面の揺れでばらばらにほどけ、癜いマスクだけがはっきり残る。

 ゞュンは声を出せなかった。

 兄に蚀わなければず思った。暪にいる、ず蚀わなければならない。だが、蚀葉にするず、女がこちらを向く気がした。

 そのずき女が、こちらを向いた。

 氎面の䞭で、顔だけがゆっくり回る。珟実の空が波で歪み、その䞭に女の癜い顔が揺れる。目は芋えない。けれど、芋られおいる。病院の二階窓ず同じ芖線だった。

 「きれい」

 問いは、氎の䞭から浮いおきた。

 ゞュンは喉の奥を抌さえられたようになった。答えおはいけない。そう思った。孊校で聞いた逃げ方は党郚、蚀葉を返すものだった。きれい。普通。ポマヌド。风。どれも、女に返事をする。だが、目の前の女に返事をするこずは、自分の声を氎面ぞ枡すこずのように思えた。

 兄が蚀った。

 「䜕も蚀うな」

 ゞュンは頷いた。兄は芋おいない。芋おいないのに、正しいこずを蚀った。

 二人は走った。

 右の田んがが終わるず、女はいなくなった。

 ゞュンは䞀瞬だけ安心した。だが、次の氎田に差しかかった瞬間、今床は巊偎の氎面に珟れた。たるで氎田から氎田ぞ、反射を枡っおいるようだった。蟲道の䞊を走る必芁がない。氎がある堎所にだけ、女の道がある。

 「兄ちゃん、暪」

 ゞュンはずうずう蚀った。

 「芋るな」

 兄は怒鳎った。

 ゞュンは泣きそうになった。兄に信じおもらえない怖さず、兄が芋おしたう怖さが同時にあった。芋れば兄も止たる。止たれば終わる。だから、芋ないでほしかった。けれど、䞀人で芋続けるのはもっず怖かった。

 女の動きは、速いのに急いでいなかった。

 二人が党力で走っおいるのに、氎面の女は同じ速さで、滑るように぀いおくる。息を切らさない。肩も揺れない。顔だけがこちらを向き続ける。氎面が揺れるたび、マスクの䞋の圱が歪んだ。裂けおいるようにも、笑っおいるようにも芋えた。

 ゞュンは兄の手を぀かもうずした。

 だが、兄の手は前ぞ振られおいお届かなかった。走る速床が少しず぀ずれおいく。兄は前だけを芋おいる。ゞュンは暪を芋おいる。その違いだけで、二人の間に距離が生たれる。

 「兄ちゃん」

 声が小さくなる。

 兄は気づかない。

 次の瞬間、右足が蜍を倖れた。

 ゞュンの靎が蟲道の端の草に滑り、䜓が氎田偎ぞ傟いた。氎面が目の前に近づく。そこに、女の顔があった。

 癜いマスク。

 黒い髪。

 そしお、マスクの䞋で暪に広がる圱。

 氎面の䞭の女が、手を䌞ばした。

 それは氎から出おくる手ではなかった。映り蟌みの䞭だけで䌞びる手だった。だが、ゞュンは本圓に掎たれるず思った。声が出ない。兄の名前も呌べない。

 そのずき、珟実の手がゞュンの腕を぀かんだ。

 兄だった。

 「䜕しずる」

 ヒロシが叫んだ。

 ゞュンは蟲道ぞ匕き戻された。膝が土に圓たり、痛みが走る。痛みがあるこずで、ここが珟実だず分かった。氎の䞭ではない。ただ道の䞊にいる。

 「おる」

 ゞュンは泣きながら蚀った。

 「氎の䞭におる」

 兄は芋なかった。ただ、ゞュンの手を匷く握った。

 そこから先は、手の蚘憶だった。

 兄の手は熱かった。匷く、痛いほど握っおいた。その痛みだけが、ゞュンを蟲道に繋いでいた。氎面を芋るな。兄の手だけ芋ろ。そう思うのに、芖線は䜕床も田んがぞ匕っ匵られた。

 女は、右に出たり巊に出たりした。

 氎面が途切れるず消える。次の氎面で珟れる。甚氎路の现い氎にも䞀瞬だけ顔が映った。蜍に残った氎たたりにも、癜いマスクが浮いた。氎があれば、そこは女の窓になる。

 「ねえ」

 女が蚀った。

 「これでも」

 ただマスクは倖しおいない。

 それなのに、その蚀葉だけが先に聞こえた。

 ゞュンは、女の問いが順番を埅っおいないこずに気づいた。噂では、たず「私、きれい」ず聞き、マスクを倖しおから「これでも」ず聞く。だが、氎面の女は、順番を間違えおいるのではない。子どもたちが語った党郚の蚀葉を、同時に持っおいる。どれをい぀䜿えばいいか、ただ分かっおいないもののようだった。

 だからこそ、怖かった。

 完成した怪物ではない。䜜られおいる途䞭のものが、远っおくる。

 䜜業灯が芋えた。

 野䞊の家の光だった。

 「こんちやぁ〜オゞさん」

 ゞュンは叫んだ。

 叫んだ瞬間、女の顔が近づいた。氎面の䞭で、距離が瞮む。蟲道の距離ずは関係ない。光に向かっお走るほど、反射も増える。䜜業灯は救いの光であるず同時に、氎面の䞭の女を明るくする光でもあった。

 「兄ちゃん、手、痛い」

 痛い。けれど、離されたくない。

 兄の手は、途䞭から少し倉わった。

 ゞュンは倧人になっおからも、その感芚を忘れられなかった。最初は確かに兄の手だった。掌の圢、指の倪さ、走るずきの匕っ匵り方。それが、野䞊の家の光が近づく少し前から、冷たくなった。

 汗の冷たさではない。

 氎に浞した垃のような冷たさだった。

 ゞュンは兄の顔を芋ようずした。兄は前を向いおいる。癜い䜓操着の背䞭が芋える。では、この手は兄の手だ。そう思った。思おうずした。

 だが、握られおいる指の数が、おかしい気がした。

 䞀本倚い。

 そんなはずはない。そんなこずを考えおはいけない。

 「どしたぁ」

 野䞊の声が聞こえた。

 䜜業灯が匷くなり、蟲道が照らされた。

 その瞬間、ゞュンの手を握っおいた冷たさが消えた。

 ヒロシは数歩前で振り返った。

 「早く来い」

 兄の手は、ゞュンを握っおいなかった。

 ゞュンは、自分の右手を芋た。指の間から、氎が垂れおいた。田んがに萜ちたわけではない。膝に泥は぀いおいるが、手は濡れるほど氎に觊れおいない。

 「おる 田んがに」

 ゞュンは叫んだ。

 野䞊が懐䞭電灯を向ける。氎面には䜕もいない。兄は振り返り、蟲道に誰もいないこずを芋た。倧人も芋る。だから、それが珟実になった。

 女はいなかった。

 少なくずも、道の䞊には。

 兄匟は野䞊の家の前たで走り、そこから分譲地ぞ向かった。野䞊はしばらく蟲道を照らしおくれた。䜕もおらん、ず䜕床も蚀った。その声は䞍噚甚で、やさしかった。

 家に着く頃には、母が玄関の倖に立っおいた。

 「どこ行っおたの」

 怒る声だった。い぀もの怒りだった。ゞュンはその声を聞いお泣き出した。日垞の怒りは、怪異よりも確かなものだった。

 ヒロシは「ごめんなさい」ず䜕床も蚀った。ゞュンはうたく話せなかった。氎の䞭、女、手が冷たい。蚀葉がばらばらに出る。母は最初、転んで怖かったのだず思った。父は懐䞭電灯を持っお倖ぞ出たが、䜕も芋぀けられなかった。

 その倜、ゞュンは熱を出した。

 垃団の䞭で、圌は䜕床も右手を芋た。母が濡れタオルを替えるたび、手を垃団の䞭ぞ隠した。指の間がただ冷たい気がした。

 深倜、ゞュンは目を芚たした。

 喉が也いおいた。隣の垃団で兄が寝おいる。郚屋の倖は暗い。蛙の声が遠くで鳎っおいる。

 ゞュンは起き䞊がり、廊䞋ぞ出ようずした。

 そのずき、窓ガラスに䜕かが映った。

 カヌテンの隙間から、郚屋の䞭が黒いガラスに映っおいた。自分の小さな䜓。垃団で眠る兄。抌し入れ。壁の柱。

 そしお、兄の垃団のすぐ埌ろに、癜いマスクの女が立っおいた。

 ゞュンは声を出そうずした。

 女は、ガラスの䞭で人差し指を口元ぞ立おた。

 癜いマスクの䞋が、ゆっくり動いた。

 「ただ」

 そう蚀ったように芋えた。

 「兄ちゃんには、ただ」

 ゞュンはそこで気を倱った。

 翌朝、家族は窓の倖を調べた。足跡はなかった。窓の䞋に人が立った圢跡もない。父は「熱で倉な倢を芋たんだ」ず蚀った。母は黙っおゞュンの額を拭いた。

 ヒロシは、匟の話を信じなかった。

 信じなかったのではない。

 信じおしたうず、自分が握っおいたず思っおいた手が、途䞭で誰のものだったのか考えなければならなかった。

 だから、二人の蚘憶はそこで分かれた。

 兄は、声を聞いお匟を連れお逃げた倜ずしお芚えた。

 匟は、氎の䞭を走る女ず、途䞭で入れ替わった手を芚え続けた。

 そしお四十幎以䞊、二人はその違いを、きちんず話さなかった。

熱の倜

 ゞュンの熱は䞉日続いた。

 医者は颚邪だず蚀った。走っお汗をかき、冷えたのだろう。怖い思いをしたなら、うなされるこずもある。母はその説明に頷いた。父も、それ以䞊は聞かなかった。家族は、原因が分かったこずにした。

 だが、ゞュンは眠るたびに同じ堎所ぞ戻った。

 蟲道ではない。氎田でもない。家の窓ガラスの前だった。

 黒いガラスの䞭で、郚屋が反転しおいる。兄の垃団があり、自分の垃団があり、抌し入れがあり、柱時蚈がある。その奥に、癜いマスクの女が立぀。女は近づいおこない。䜕かを埅っおいる。ゞュンが叫ぶず、女は人差し指を口元ぞ立おる。

 兄ちゃんには、ただ。

 その蚀葉だけが、毎回同じだった。

 ゞュンは母に話した。母は「倢よ」ず蚀った。優しい声だったが、その優しさは壁のようでもあった。倢だず蚀われるず、それ以䞊話せない。倢なら怖がる方がおかしい。倢ではないず蚀えば、熱のせいだず蚀われる。

 ヒロシは、匟の話を聞くたびに怒った。

 「そんなもん、おらん」

 怒るず、ゞュンは黙った。兄が怖いからではない。兄が本圓に怖がっおいるず分かったからだ。ヒロシが怒るずき、目を合わせない。氎田の話をするず、すぐ別の話に倉える。兄は芋おいない。だから芋なかったこずにしようずしおいる。

 ゞュンは、兄を責めなかった。

 あの倜、兄は自分を眮いお逃げたわけではない。少なくずも、兄はそう思っおいない。なら、それでよかった。ゞュンは子どもながらに、蚀わない方が壊れないものがあるず知った。

 その沈黙は、兄匟の間に现い氎路のように残った。

 普段は芋えない。喧嘩もする。笑いもする。倧人になっお酒を飲むこずもある。だが、ある話題に近づくず、氎路の音が聞こえる。そこを越えれば、あの倜の手がどちらのものだったのかを話さなければならない。

 四十幎以䞊、二人は越えなかった。

 怜奈の取材は、その氎路ぞ初めお板を枡した。

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目次『氎の䞭を走るもの』


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