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『氎の䞭を走るもの』第9章 兄の蚘憶、匟の蚘憶


 珟圚のヒロシは、よく笑う男だった。

 怜奈が䌚ったずき、圌は五十八歳になっおいた。垂内の工務店で長く働き、今は珟堎を若い者に任せるこずが増えたずいう。日焌けした顔に现い皺があり、声は倧きい。取材䟝頌をするず、最初に笑った。

 「あんな子どもの頃の話、蚘事になるんですか」

 「なるかどうかを確かめおいたす」

 「口裂け女でしょう。流行りたしたよ。ほんずに怖かった」

 怖かった、ず蚀うずきも、ヒロシは笑った。倧人になった人間が、子どもの頃の恐怖を話すずきの笑いだった。もう自分は怖がっおいない、ず確認するための笑い。あるいは、怖かった自分を少し遠くぞ眮くための笑い。

 取材は、ヒロシの自宅で行った。

 居間のテヌブルに、怜奈は叀い䜏宅地図のコピヌを広げた。氎代小孊校、県立氎代療逊病院、南原分譲地、久瀬川、スナック「みずどり」。ヒロシは地図を芋るなり、懐かしそうに身を乗り出した。

 「ここがうちでした。ただ家が少なくおね。前なんか造成途䞭で、土が盛っおあっお、そこでよく遊んだんです」

 圌の指が地図の䞊を動く。

 「こっちが川。子どもから芋たら倧きい川でね。駅の方を芋るず、向こうたでずっず田んが。山が䜎く芋えお、その麓に駅があった。今は家も店も増えたけど、圓時はほんずに暗かったですよ。街灯なんか、蟲道には䞀本もない」

 怜奈は頷きながら録音した。

 ヒロシの蚘憶は、地圢に関しおは驚くほど具䜓的だった。軜トラック䞀台分の蟲道。蜍以倖は草。病院の庭園。池。匓道堎。鉄栌子の窓。南原林の骚。カスミ網。こんちやぁ〜オゞさんの家。

 しかし、女の蚘憶に近づくず、圌の蚀葉は少し曖昧になった。

 「最初に芋たのは、病院の二階窓ですか」

 「そうだったず思いたす。匟が先に気づいたんです。癜いマスクの女が、窓に立っおた。こっちの歩く方向に合わせお、顔だけ動いた」

 「その時点で、口裂け女だず思いたしたか」

 「いや、どうですかね。噂は聞いおたしたけど、ただそこたではっきりじゃなかった。ただ、次の日に孊校で話したら、すぐそうなりたした。赀い服だったずか、はさみ持っおたずか。自分ではそこたで芋おないんですけどね」

 ヒロシは苊笑した。

 「でも、蚂正はしなかった」

 怜奈が蚀うず、圌は少し黙った。

 「しなかったですね。子どもですから。みんなが怖がるず、こっちも調子に乗る。でも、だんだん自分が芋たものず違っおいくのが、気持ち悪くなっお」

 「正門で芋た女は」

 「あれは、芚えおいたす。二階じゃなくお、正門のずころにいた。薄いコヌトで、マスクしおた。色は、正盎分からない。倕方だったから、赀にも芋えたし、ベヌゞュにも芋えた」

 「手には䜕か」

 「䜕もなかったず思いたす」

 「では、蟲道の倜は」

 ヒロシの衚情が倉わった。

 笑いが少し匕いた。

 「あれは、嫌ですね」

 「話せたすか」

 「話せたす。ただ、匟ずは違うず思いたす」

 圌は地図の蟲道を指した。南原分譲地ぞ向かう、田んがの䞭の现い線。

 「遅くなっお、こっちを走ったんです。病院前じゃない。田んがの道。埌ろから声がした。『わたし、きれい』っお。足音はしなかった。だから、今考えるず、倉なんですけど」

 「圓時は」

 「圓時は、そんなこず考えたせん。ただ怖くお、匟の手を぀かんで走った。こんちやぁ〜オゞさんの家の䜜業灯が芋えお、そこたで行けば助かるず思った」

 「女を芋たしたか」

 ヒロシは銖を暪に振った。

 「芋おたせん。振り返ったのは、オゞさんが光を圓おおくれたあずです。道には誰もいなかった」

 道には。

 怜奈はその蚀い方に反応した。

 「氎田は芋たしたか」

 「匟は、田んがの氎の䞭にいたっお蚀いたした。でも、自分には芋えなかった。氎面が揺れおたのは芚えおたす。颚ず逆に、すうっず」

 ヒロシはそこで、右手を芋た。

 「手の感芚は」

 怜奈が尋ねるず、圌は眉を寄せた。

 「匟の手を握っおた感芚はありたす。小さくお、冷たかった。途䞭で離した芚えはない。でも匟は、途䞭から違う手だったっお蚀うんです」

 「違う手」

 「ええ。兄ちゃんの手じゃなかったっお」

 ヒロシは小さく笑ったが、その笑いには力がなかった。

 「あい぀、熱出しおたし、怖い倢も芋たんでしょう。でも、今でも蚀うんです。途䞭たでしか、兄ちゃんは握っおなかったっお」

 匟のゞュンには、別の日に䌚った。

 ヒロシが玹介を嫌がったわけではない。ただ、「あい぀はあの話をあたりしたがらない」ず蚀った。怜奈が盎接連絡を取るず、ゞュンは短い沈黙のあず、駅前の喫茶店を指定した。

 珟圚のゞュンは、兄より口数が少なかった。髪に癜いものが混じり、県鏡の奥の目は疲れおいた。䌚瀟勀めを早期退職し、今は自宅で小さな仕事をしおいるずいう。

 「兄から聞いたんですか」

 垭に着くなり、ゞュンは蚀った。

 「はい。ただ、ゞュンさんの蚘憶を別に聞きたいず思っおいたす」

 「兄は、芋おないですから」

 その蚀い方には責める響きがなかった。事実を眮いただけの声だった。

 怜奈は録音の蚱可を取り、同じ地図を広げた。

 ゞュンは病院の二階窓、正門、蟲道を順に指した。䜍眮はヒロシの蚌蚀ずほが䞀臎した。野䞊の家の堎所も同じ。䜜業灯の色も同じ。兄匟がどこで遊び、どの道を走ったかも、倧きくずれなかった。

 「では、蟲道で芋たものを教えおください」

 ゞュンはしばらく窓の倖を芋た。

 喫茶店の窓には、駅前のロヌタリヌが映っおいる。バスが䞀台通り、ガラスの䞭で人圱が歪んだ。

 「女は、道を走っおいたせんでした」

 ゞュンは蚀った。

 「氎の䞭です。田んがの氎面にだけ、映っおいた。映っおいたず蚀うず反射みたいですけど、反射する元がないんです。道には誰もいない。なのに氎面の䞭だけ、女が走っおいる」

 圌の右手が、テヌブルの䞋で握られた。

 「兄は前を芋おいた。僕は暪を芋おいた。だから、芋えたものが違うんです」

 「女は、䜕を」

 「最初は、『わたし、きれい』。でも、途䞭で『これでも』ずも蚀った。ただマスクを倖しおないのに」

 怜奈はペンを止めた。

 その食い違いは重芁だった。民話の型から倖れおいる。型を知っおいる子どもなら、順番を間違えない。だが、ゞュンの蚘憶では、怪異の方が順番を間違えおいる。

 「手のこずを、兄から聞きたした」

 怜奈が蚀うず、ゞュンは小さく頷いた。

 「あれは、兄の手じゃなかった」

 「なぜ分かるんですか」

 「冷たかったからです。氎の䞭の手でした。それに」

 圌は蚀い淀んだ。

 「指が䞀本倚い気がした」

 「芋たんですか」

 「芋おいたせん。芋たら終わるず思ったから」

 声が少し震えおいた。五十六歳の男が、四十幎以䞊前の蟲道ぞ戻っおいる。

 「野䞊さんの䜜業灯が点いた瞬間、その手は消えたした。兄は前にいた。僕の手を握っおいなかった」

 「ヒロシさんは、ずっず握っおいたず蚀っおいたす」

 「そうでしょうね。兄の䞭では、そうじゃないず困るんです。匟を離したこずになるから」

 怜奈は返事をしなかった。

 ゞュンの蚀葉は兄を責めおいない。むしろ、守っおいた。兄は匟を離したのではない。䜕かが兄の圹目を途䞭から奪った。そういう蚀い方だった。

 「その倜、自宅の窓にも芋たず」

 ゞュンの顔色が倉わった。

 「兄は、その話をしたしたか」

 「少しだけ」

 「なら、曞いおもいいです。ただし、あれは倢ではありたせん」

 ゞュンははっきり蚀った。

 「熱はありたした。でも、倢じゃない。窓ガラスに映っおいたした。兄の垃団の埌ろに。癜いマスクをしお、指を口元に圓おおいた」

 「䜕か蚀いたしたか」

 「声は出おいたせん。でも、口の動きで分かりたした」

 「䜕ず」

 ゞュンは、窓ガラスに映る自分の顔を芋た。

 「兄ちゃんには、ただ」

 怜奈のペン先が玙に圓たったたた止たった。

 「ただ、ずは」

 「分かりたせん。今でも」

 喫茶店の䞭で、カップの觊れる音がした。駅前の午埌は明るく、人も倚い。だが、ゞュンの蚀葉は、田んがの倜をそのたた連れおきおいた。

 怜奈は二人の蚌蚀を䞊べた。

 䞀臎する郚分。

 昭和五十四幎五月末から六月初め。南原分譲地。田んがの蟲道。女の声。足音がない。野䞊蟰倫の䜜業灯。蟲道には誰もいなかった。

 食い違う郚分。

 ヒロシは匟の手を握っおいた。

 ゞュンは途䞭から違う手だったず蚀う。

 ヒロシは女を芋おいない。

 ゞュンは氎面の䞭で芋た。

 この食い違いは、単なる蚘憶違いにも芋えた。幌い兄匟が恐怖の䞭で䜓隓した出来事だ。四十幎以䞊経おば、现郚は倉わる。

 しかし、怜奈には別の芋方もできた。

 二人は同じ堎所にいたのに、別の面を芋おいた。

 兄は道を芋おいた。

 匟は氎を芋おいた。

 だから、兄の蚘憶には足音のない声だけが残り、匟の蚘憶には氎面を走る女が残った。

 取材埌、怜奈は喫茶店を出た。駅前のロヌタリヌには倕方の光が萜ち始めおいた。ビルの窓に空が映る。停車䞭のバスの窓にも、人の顔が重なっお芋える。珟代の町には、昭和五十四幎よりずっず倚くの反射面がある。

 圌女はスマヌトフォンの録音デヌタを確認した。

 ゞュンの声が入っおいる。

 「兄ちゃんには、ただ」

 その盎埌、ほんの短い雑音があった。

 氎を指で撫でるような音。

 怜奈は再生を止めた。

 駅前のガラスに、自分の顔が映っおいた。

 その背埌には、誰もいなかった。

 少なくずも、ガラスの倖には。

兄匟を同じ垭に眮かない理由

 怜奈は、ヒロシずゞュンを䞀緒には取材しなかった。

 最初からそう決めおいた。兄匟を同じ垭に眮けば、どちらかがどちらかぞ合わせる。兄は匟の話を笑っお和らげるかもしれない。匟は兄を傷぀けないように黙るかもしれない。蚌蚀の食い違いは、関係性の䞭で䞞められる。

 別々に聞く必芁があった。

 だが、別々に聞いたあずで、怜奈は二人の関係の方が真盞に近いのではないかず思った。怪異が䜕だったかより、兄匟が䜕を話せずにきたか。その沈黙の圢こそ、あの倜の茪郭だった。

 ヒロシは、匟を守れなかった可胜性を恐れおいる。

 ゞュンは、兄がそれを知っおしたうこずを恐れおいる。

 二人は互いを責めないために、蚘憶を分け合った。兄は道を芚え、匟は氎を芚えた。兄は声を芚え、匟は姿を芚えた。兄は「握っおいた」ず蚀い、匟は「途䞭たでだった」ず蚀う。どちらも嘘ではないのかもしれない。

 怜奈は取材メモに、こう曞いた。

 「口裂け女は、裂けた口を芋せる怪異ではなく、蚘憶を裂く怪異ずしお機胜しおいる」

 曞いおから、圌女はその衚珟を蚘事に䜿うか迷った。うたく蚀いすぎおいる。うたく蚀いすぎた蚀葉は、読者の理解を早める代わりに、珟実の湿り気を也かしおしたうこずがある。

 ゞュンの右手の震え。

 ヒロシが地図の蟲道を避けるように指を動かした瞬間。

 そういう现郚を、蚀葉の敎いすぎた芋出しで朰したくなかった。

 取材の最埌に、ゞュンは怜奈ぞ䞀぀だけ頌んだ。

 「兄を悪く曞かないでください」

 怜奈は、すぐに頷けなかった。

 「悪く曞く぀もりはありたせん。ただ、食い違いは曞きたす」

 ゞュンは静かに頷いた。

 「それでいいです。食い違っおいるこず自䜓は、本圓ですから」

 その蚀葉を聞いお、怜奈はこの物語の䞭心が少し芋えた気がした。

 真盞ずは、䞀぀に揃った蚌蚀ではない。

 揃わないたた残った蚘憶の間に、䜕かが立っおいるこずもある。

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