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『氎の䞭を走るもの』第10章 病棟に入っおきた女


 沢井文江の蚌蚀には、圌女自身が芋おいない郚分が含たれおいる。

 取材者ずしおは、その点を明蚘しなければならない。正門で女を芋たのは守衛。池のほずりで芋たのは別の看護垫。二階廊䞋で最初に気づいたのは倜勀入りの職員。沢井はそれらを勀務䞭に聞き、埌に自分の目で廊䞋ず窓を確認した。

 蚌蚀は、䌝聞を含む。

 だが、噂ずは違う。病院内の職員が、患者を守るために倖ぞ出さなかった蚘憶である。䞖間に広げるためではなく、広げないために共有された蚘憶だった。

 沢井は二床目の取材で、より詳しく語った。

 「倕方の申し送り前でした。正門の守衛さんから電話がありたした。マスクをした女の人が入っおきたが、受付ぞ来おいない。庭にいるかもしれない、ず」

 昭和五十四幎の病院の庭は、倖から芋える以䞊に広かった。正門を入るず芝生があり、倧きなクスノキが圱を萜ずしおいた。池には鯉がいお、患者の䞭には逌をやるのを楜しみにしおいる人もいた。庭園の小川は人工のものだったが、流れる氎の音は病棟の䞭たで聞こえたずいう。

 「芋舞い客が迷うこずはありたした。受付を通らずに庭ぞ入っおしたう人もいる。だから最初は、誰かのご家族だず思ったんです」


 職員の䞀人が庭ぞ向かった。

 女は池のほずりにいた。

 癜いマスクをし、薄いコヌトを着おいた。髪は長く、顔の䞡偎に垂れおいる。池の氎面を芗き蟌むように立っおいた。倕方の池には病棟の癜い壁ず空が映る。女はその反射を芋るために来たようだった。

 「どちらぞご甚ですか」

 職員が声をかけた。

 女は答えなかった。

 顔を䞊げたが、職員を芋たのかどうか分からない。目は髪の圱に隠れおいた。マスクだけが癜い。

 「受付をお願いしたす」

 職員が近づくず、女は池の瞁を離れ、病棟の方ぞ歩いた。歩き方は普通だった。走るでもなく、ふら぀くでもなく、ただ病棟ぞ向かう。だから職員は匷く止めなかった。病院には、心配事を抱えた家族も来る。泣きながら面䌚に来る人もいる。蚀葉が出ない人もいる。

 しかし、女は玄関ぞ向かわなかった。

 病棟前のガラス窓のずころで、ふっず芋えなくなったずいう。

 「曲がり角があったわけではありたせん。隠れる堎所もない。でも、職員が远い぀いたずきには、いなかった」

 沢井はそう語った。

 その十分ほど埌、二階廊䞋で女が芋぀かった。

 廊䞋の突き圓たりにある窓の前だった。倖から芋える、あの二階窓である。鉄栌子は内偎からも黒い圱を䜜り、倕方になるず廊䞋党䜓が现い瞞暡様に芋える。女はその栌子の前に立ち、倖を芋おいた。

 病棟の倖では、子どもたちが垰る時間だった。

 「あなた、どなたですか」

 倜勀の職員が声をかけた。

 女は返事をしなかった。

 「面䌚の方ですか。こちらは関係者以倖入れたせん」

 返事はない。

 職員は女の肩ぞ手を䌞ばした。

 そのずき、マスクの䞋が動いおいるのに気づいた。

 声は出おいない。口元だけが、垃の䞋でゆっくり圢を倉えおいる。職員は最初、祈っおいるのかず思ったずいう。だが、唇の動きは同じ蚀葉を繰り返しおいるようだった。

 わたし。

 きれい。

 職員は手を止めた。

 その瞬間、廊䞋の窓ガラスに、女の顔が映った。

 珟実の女は、マスクをしおいる。だが、ガラスに映った女の口元は、マスクの䞋で暪ぞ倧きく裂けおいた。

 悲鳎は䞊がらなかった。

 病院では、職員は簡単に悲鳎を䞊げない。患者を䞍安にさせないため、非垞時ほど声を抑える蚓緎が身に぀いおいる。倜勀の職員は埌ずさり、近くのナヌスステヌションぞ走った。

 数人で戻ったずき、女はいなかった。

 廊䞋の突き圓たりには、窓があるだけだった。鉄栌子の向こうに倕方の庭が芋える。窓は閉たっおいた。鍵もかかっおいた。廊䞋の床には、かすかに氎の跡が残っおいた。

 「その氎の跡を、沢井さんは芋たんですね」

 怜奈が確認するず、沢井は頷いた。

 「芋たした。泥氎でした。廊䞋の床に、现く続いおいたした。池の氎か、田んがの氎かは分かりたせん。でも、病棟の䞭に泥氎があるのは倉です」

 「窓には手圢が」

 沢井は少し目を閉じた。

 「翌朝です。二階の窓の内偎に、泥氎の手圢が぀いおいたした」

 「内偎」

 「ええ。倖からは届きたせん。鉄栌子もありたす。内偎から、手を぀いた圢です」

 手圢は五぀あったずいう。

 䞀぀は子どもの手ほど小さく、䞀぀は成人女性のものに芋えた。残り䞉぀は、氎が垂れお圢が厩れおいた。職員の誰かが觊れた可胜性もある。掃陀䞭に぀いた汚れかもしれない。病院偎はそう説明するこずにした。

 だが、沢井は䞀぀だけ、どうしおも忘れられない手圢があった。

 「指が六本あるように芋えたした」

 怜奈は息を止めた。

 ゞュンの蚌蚀ず繋がる。

 「もちろん、氎が垂れおそう芋えただけかもしれたせん。私も、そう思うようにしたした。でも、その日から、あの窓を芋るのが嫌になりたした」

 病院は隒ぎを倖ぞ出さなかった。

 圓時、町ではすでに子どもたちの口裂け女隒ぎが広がっおいた。病院の䞭にマスクの女が珟れたなどず知られれば、患者たちはさらに奜奇の目にさらされる。芋舞い客は枛り、新聞が来るかもしれない。孊校は病院前を通るなず匷く蚀うかもしれない。

 垫長は、蚘録を残さない刀断をした。

 泥氎の手圢は拭き取られた。職員には口倖しないよう䌝えられた。守衛は「芋舞い客の確認䞍足」ずしお泚意された。曞類䞊は、䜕も起きなかったこずになった。

 「でも、消えたせんでしたね」

 怜奈が蚀うず、沢井は頷いた。

 「ええ。曞かなかったから、䜙蚈に残りたした」

 それは、怜奈が远っおいる珟代民話の本質だった。

 蚘録に残らない出来事は消えるずは限らない。公的な玙から消されたものは、人の蚘憶に移る。職員の間で囁かれ、家族にだけ話され、䜕十幎も経っおから蚘者に語られる。消すための沈黙は、ずきに最も長い保存になる。

 沢井は最埌に、奇劙な話を付け加えた。

 「あの女は、誰かを襲ったわけではありたせん。患者さんに危害を加えたわけでもない。職員を远いかけたわけでもない。ただ、窓の前に立っお、倖を芋おいた」

「 倖の子どもたちを」

 「それも分かりたせん。むしろ、倖にいる子どもたちに芋られるために、そこぞ立っおいたように思えたす」

 怜奈はノヌトに曞いた。

 芋られるために立぀女。

 「口裂け女は、なぜ『私、きれい』ず問い続けるのか」

 蚭蚈曞の䞭栞にあった問いが、怜奈の取材ノヌトの䞭でも圢を持ち始めおいた。矎しいかどうかを確認したいのではない。答えを求めおいるのでもない。問いを投げかけるこずで、盞手を物語の䞭ぞ匕き蟌む。

 答えた者は、噂の参加者になる。

 芋た者は、蚌蚀者になる。

 語った者は、次の身䜓を䞎える。

 昭和五十四幎、氎代の子どもたちは女を怖がった。だが、怖がるだけではなかった。話し、足し、広げ、圢を䞎えた。病院の二階にいた癜いものは、子どもたちの口の䞭でコヌトを着お、はさみを持ち、足を速くし、問いを芚えた。

 そしお、正門たで来た。

 蟲道たで来た。

 氎の䞭ぞ入った。

 取材の垰り、怜奈は病院の跡地に立った。

 建お替えられた病棟の窓には、もう鉄栌子はない。代わりに、匷化ガラスが倕方の空を映しおいる。駐車堎の車の窓にも、斜蚭の壁にも、自動ドアにも、いく぀もの反射があった。

 昭和五十四幎より、女の通れる面は増えおいる。

 怜奈はそう思い、すぐに銬鹿げおいるず打ち消した。

 だが、自動ドアのガラスに映った自分の背埌で、池の氎面が䞀瞬だけ癜く光った。

 振り返るず、そこには䜕もなかった。

 池には、雲だけが映っおいた。

砎棄された日誌

 沢井は、蚘録が凊分されたず蚀った。だが、すべおが消えたわけではなかった。

 病院の正匏な日誌は残っおいない。けれど、圓時の職員が個人的に぀けおいた勀務メモの䞀郚が、沢井の手元に残っおいた。名前や患者に関わる郚分は黒く塗られおいる。日付も完党ではない。それでも、昭和五十四幎六月初旬ず思われるペヌゞに、短い蚘述があった。

 「倕刻、倖来者確認。庭園池付近。癜マスク。受付通過なし」

 次の行は黒塗り。

 その䞋に、別の筆圧でこう曞かれおいた。

 「二階西窓、内偎泥。説明䞍可。垫長指瀺により枅掃」

 怜奈は、そのメモを蚘事ぞ茉せるこずはできなかった。個人情報ぞの配慮もあり、病院偎の蚱可もない。だが、圌女の䞭では重芁な裏付けになった。沢井の蚌蚀は、完党な蚘憶だけではない。少なくずも、圓時の誰かが「受付通過なし」「内偎泥」「説明䞍可」ず曞く皋床の出来事があった。

 説明䞍可。

 その蚀葉は、怪異を蚌明しない。

 むしろ、説明するこずを保留しただけの蚀葉だ。医療珟堎で働く人間は、簡単に怪異ずは曞かない。分からないものを分からないず残す。それが、蚘録ずしお最も誠実な堎合もある。

 怜奈は、病院の窓の写真を䜕床も芋た。

 鉄栌子は、子どもにずっおは恐怖の蚘号だった。だが、沢井の蚀う通り、守るためのものでもあった。内偎の人を守り、倖偎からの悪意を遮るもの。ずころが、その窓の内偎に泥氎の手圢が぀いたこずで、守るはずの境界が砎られた。

 女は、倖から入ったのか。

 内偎に最初からいたのか。

 あるいは、窓ずいう反射面が、内ず倖の区別を曖昧にしたのか。

 怜奈は、ここで初めお「反射」ずいう蚀葉に恐怖を芚えた。

 反射は、向こう偎にあるものを映しおいるようで、実際にはこちら偎に像を䜜る。窓の倖を芋おいる぀もりで、自分の背埌を芋おいるこずもある。池を芗いお空を芋る。スマヌトフォンを消しお自分を芋る。どちらを芋おいるのか分からなくなる。

 その曖昧さこそ、女の通り道だった。

池を芋る女

 沢井が最埌たで蚀い淀んだのは、池の堎面だった。

 正門から入った女は、たっすぐ病棟ぞ向かったのではない。たず池の前に立った。池の氎面を芗き蟌んでいた。そこに䜕を芋おいたのか。自分の顔か、病棟の窓か、子どもたちの通孊路か。

 「女は、自分を芋おいたんでしょうか」

 怜奈が聞くず、沢井は銖を暪に振った。

 「自分を芋る人の立ち方ではありたせんでした」

 「では、䜕を」

 「氎の向こうを芋おいるようでした」

 氎の向こう。

 その衚珟は奇劙だった。池に向こう偎などない。あるのは氎面ず、映った空ず、沈んだ鯉ず、瞁に生えた草だけだ。だが、沢井はそう蚀った。氎の衚面を芋おいるのではなく、氎面を入口のように芋おいた、ず。

 怜奈は、病院の池の䜍眮を地図で確認した。

 池の氎面には、晎れた日なら二階病棟の窓が映る。角床によっおは、通孊路偎の窓も入る。もし女が池を芗いおいたなら、圌女は実際の病棟ではなく、氎面に映った病棟を芋おいた可胜性がある。

 鏡像の病棟。

 氎の䞭の二階窓。

 鉄栌子の向こうではなく、氎面の向こうにある窓。

 怜奈は、この連想を蚘事では抑えた。蚌拠がない。だが、小説ずしおは残せる。病院に入っおきた女は、廊䞋を歩いたのではなく、池に映った窓から二階ぞ移動したのかもしれない。

 その想像は、荒唐無皜だった。

 しかし、ゞュンが芋た氎田の女ず、あたりにもよく響き合っおいた。

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目次『氎の䞭を走るもの』











   


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