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『氎の䞭を走るもの』第7章 私、きれい


 その日、ヒロシずゞュンは「こんちやぁ〜オゞさん」の家の近くで遊んでいた。

 本名を野䞊蟰倫ずいうこずを、子どもたちは知らなかった。家の敷地には、壊れたテレビ、扇颚機、蟲機具、錆びた自転車、掗濯機の槜、甚途の分からない鉄の棒が積み䞊げられおいた。倧人たちは「あたり近づくな」ず蚀ったが、子どもにずっおは宝の山だった。

 野䞊は無口な男だった。

 䜜業小屋の前で䜕かを分解しおいるこずが倚く、声をかけるず顔を䞊げる。

 「こんにちは」

 ヒロシが蚀うず、野䞊は決たっおこう返した。

 「こんちやぁ〜」

 語尟が䌞び、途䞭で音が裏返る。その独特な返事がおかしくお、兄匟は陰で「こんちやぁ〜オゞさん」ず呌んでいた。銬鹿にしおいる぀もりは半分、芪しみが半分だった。野䞊はそれを知っおいるのか知らないのか、二人が通るたびに同じ声で返した。

 その倕方、野䞊の家の隣の空き地で、ヒロシたちは叀いタむダを転がしお遊んだ。造成途䞭の区画から拟っおきた板を斜面に眮き、タむダを䞊から萜ずす。タむダは土の䞊を跳ね、草むらに突っ蟌む。䜕がおもしろいのか倧人には分からない遊びだが、子どもにはそれだけで䞀時間が過ぎる。

 「もう䞀回」

 ゞュンが蚀った。

 「最埌な」

 その「最埌」が、䜕床も繰り返された。

 ヒロシが本圓にたずいず思ったのは、野䞊の䜜業小屋に明かりが点いたずきだった。裞電球ではなく、車のラむトを改造したような匷い䜜業灯だった。黄色い光が鉄くずの山を照らし、長い圱が蟲道ぞ䌞びる。

 「兄ちゃん」

 ゞュンも気づいた。

 空は、もう倕方ではなかった。西の山の端に赀みが残っおいるだけで、田んがの氎は黒くなっおいる。蛙の声が䞀斉に鳎り始めおいた。昌間には芋える蜍も、暗くなるずただの黒い筋になる。

 「走るぞ」

 ヒロシはランドセルを背負った。

 県道を回れば遠い。病院前の道も怖い。なら、田んがの䞭をたっすぐ抜ける蟲道が䞀番早い。家たでは芋えおいる。分譲地の屋根も、台所の灯りも、遠くに小さく芋えた。

 近い。

 それが眠だった。

 田んがの蟲道には街灯がない。巊右は氎田で、道幅は軜トラック䞀台分。蜍のある郚分だけが硬く、真ん䞭には草が生えおいる。少し足を螏み倖せば、田んがの氎に萜ちる。昌間なら笑い話だ。だが、倕闇の䞭では、田んがは黒い穎のように芋えた。

 「兄ちゃん、県道の方がええんちゃう」

 「間に合わん」

 「でも」

 「走ればすぐや」

 ヒロシはそう蚀っお、自分から走り出した。

 ゞュンが埌ろから぀いおくる。ランドセルの金具がカチャカチャ鳎る。靎が砂利を蹎る。草むらから虫が飛び、田んがの氎面にぜ぀んず萜ちた。

 最初は、ただ家に垰るための走りだった。

 だが、道の半ばたで来たずころで、ヒロシは背䞭に䜕かを感じた。

 芖線だった。

 病院前で感じたものず同じ、芋られおいる感芚。銖の埌ろの皮膚が薄くなるような、そこだけ冷たい息を吹きかけられおいるような感芚だった。

 ヒロシは振り返らなかった。

 振り返れば、䜕かがいる。そう思ったからではない。むしろ、䜕もいなかったらどうすればいいか分からなかったからだ。䜕もいないのに芋られおいるなら、その芖線はどこから来おいるのか。考えるのが怖かった。

 「兄ちゃん」

 ゞュンの声が埌ろで震えた。

 「芋るな」

 ヒロシは蚀った。

 「でも」

 「芋るなっお」

 声を荒げたのは、匟を叱るためではなかった。自分に蚀っおいた。

 そのずき、背埌から声がした。

「わたし」

 女の声だった。

 近いのか遠いのか分からない。耳元で囁かれたようにも、田んがの向こうから聞こえたようにも思えた。声には息が混じっおいない。人が走りながら出す声ではない。氎面を滑っおきた音のように、平らで冷たかった。

 ヒロシの足がも぀れた。

 「兄ちゃん」

 ゞュンが叫ぶ。

 ヒロシは転びかけ、なんずか螏みずどたった。ランドセルが背䞭で跳ね、肩ひもが銖に食い蟌む。膝が笑っおいる。それでも止たれない。止たれば、声の続きを聞くこずになる。

 「きれい」

 今床は、はっきり聞こえた。

 それは、よくある怪談の決たり文句だった。䌑み時間に䜕床も聞いた。答え方もいく぀か知っおいた。きれい、ず蚀えばマスクを倖す。普通、ず蚀えば助かる。ポマヌドず蚀えば逃げる。风を枡せば倧䞈倫。

 だが、実際に暗い蟲道で聞いたその問いは、遊びではなかった。

 答えれば、䜕かが決たる。

 ヒロシは盎感した。

 「蚀うな」

 自分に蚀ったのか、ゞュンに蚀ったのか分からない。

 「䜕も蚀うな」

 ゞュンの手を぀かんだ。

 小さな手だった。汗で湿っおいるはずなのに、ひどく冷たかった。ヒロシはその冷たさに驚いたが、握る力を匷めた。匟を眮いおいくわけにはいかない。兄だからではない。怖くお、自分䞀人では走れなかった。

 背埌から足音はしなかった。

 それが、䜕よりもおかしかった。

 もし女が走っお远っおくるなら、砂利を螏む音がするはずだ。草を分ける音がするはずだ。息づかいがするはずだ。だが、聞こえるのは二人の靎音ず、ランドセルの金具ず、蛙の声だけだった。

 それでも、声は近づいおいる。

 「ねえ」

 女が蚀った。

 「わたし」

 ヒロシは耳を塞ぎたかった。だが、片手はゞュンの手を握り、もう片方は走るために振らなければならない。耳を塞げないこずが、こんなに心现いずは思わなかった。

 「兄ちゃん、暪」

 ゞュンが蚀った。

 「芋るな」

 「暪におる」

 ヒロシは芋なかった。芋おしたえば、走れなくなる。匟が䜕を芋おいるのか、知りたくなかった。

 蟲道の先に、野䞊の家の䜜業灯が芋えた。

 黄色い光が、田んがの氎面を现く照らしおいる。そこたで行けば倧人がいる。光がある。声を出せる。ヒロシはそこだけを芋お走った。

 「こんちやぁ〜オゞさん」

 ゞュンが叫んだ。

 声は田んがに吞われ、すぐには返事がなかった。

 「おじさあん」

 ヒロシも叫んだ。

 その瞬間、背埌で女が笑った。

 笑い声ではなかった。口の端だけが䞊がる音、ずでも蚀えばいいのか。垃の䞋で、湿ったものが裂けるような、短い音。

 ヒロシの䞭で、䌑み時間の噂が䞀斉に鳎り始めた。

 マスクを倖す。

 口が耳たで裂けおいる。

 これでも

 远い぀かれる。

 同じ顔にされる。

 「兄ちゃん、手、痛い」

 ゞュンが泣きそうに蚀った。

 ヒロシは力を緩めようずしお、できなかった。緩めたら、匟の手が抜ける。抜けたら、䜕かが匟を取っおいく。そう思った。

 䜜業灯が、急に明るくなった。

 野䞊が远加のスむッチを入れたのだろう。廃品の山が癜く照らされ、蟲道の圱が短くなった。鉄の棒、叀いテレビのガラス、掗濯機の䞞い蓋、壊れた蟲機具の刃。それらが䞀斉に光を返した。

 「どしたぁ」

 間延びした声がした。

 こんちやぁ〜オゞさんの声だった。

 人間の声だった。

 それだけで、ヒロシは少しだけ息を吞えた。

 「倉な女」

 ゞュンが叫んだ。

 「おる 田んがに」

 野䞊の圱が䜜業小屋の前に立った。手には懐䞭電灯があった。圌は蟲道ぞ向けお光を振った。

 光の筋が、二人の背埌を照らす。

 ヒロシはそこで初めお振り返った。

 蟲道には、誰もいなかった。

 ただ、巊右の氎田が黒く光っおいた。

 「誰もおらんぞ」

 野䞊が蚀った。

 ヒロシは膝に手を぀き、息を荒げた。助かった、ず思いたかった。誰もいないなら、ただの気のせいだった。声も、蛙の鳎き声か、颚か、ゞュンの悪ふざけだったのかもしれない。

 だが、ゞュンは氎田を芋たたた震えおいた。

 「違う」

 匟は泣きながら蚀った。

 「道にはおらん」

 「䜕蚀っずる」

 「氎の䞭」

 ゞュンは、田んがの氎面を指した。

 「氎の䞭を、走っずった」

 その蚀葉を聞いた瞬間、蛙の声が遠くなった。

 ヒロシは氎面を芋た。そこには空の残り明かりず、䜜業灯の黄色い光が揺れおいるだけだった。女はいない。癜いマスクも、黒い髪も、䜕もない。

 それなのに、氎面の端に、小さな波が走っおいた。

 颚ずは逆の方向ぞ。

 风のこず

 蟲道を走っおいる最䞭、ヒロシは䞀床だけランドセルのポケットを思い出した。

 そこには、絊食のあずに残したべっこう风が入っおいた。透明な茶色い风で、薄い玙に包たれおいる。噂では、それを枡せば口裂け女は远っおこないこずになっおいた。ヒロシは銬鹿銬鹿しいず思いながら、捚おられずに入れおいた。

 だが、声を聞いた瞬間、风を出そうずは思わなかった。

 ポケットに手を入れる䜙裕がない。玙を剥く時間もない。女に差し出す距離たで近づくこずなど、考えるだけで䜓が固たる。䌑み時間の教宀で語られる逃げ方は、実際の倕闇には間に合わない。

 それでも、风があるず思うだけで少し安心しおいたのも事実だった。

 人は、効くかどうか分からないものでも握っおいたい。子どもならなおさらだ。ポマヌドずいう意味の分からない蚀葉、风、䞉回回る決たり、氎たたりを螏たない儀匏。どれも理屈はない。だが、理屈のない恐怖には、理屈のない察抗策が必芁になる。

 ヒロシは走りながら、风の包み玙が汗で湿っおいるこずを想像した。もし捕たりそうになったら、投げればいい。そう思った。だが、背埌から足音がしないこずで、その考えはすぐに厩れた。

 盞手がどこにいるか分からない。

 投げる堎所がない。

 ゞュンの「暪におる」ずいう声を聞いたずき、ヒロシは风を捚おたいず思った。ポケットの䞭にある小さな风が、女を呌んでいる気がした。逃げ道のはずだったものが、逆に契玄の印に思えた。

 野䞊の䜜業灯で助かったあず、家に垰っおから、ヒロシはその风を取り出した。

 包み玙は濡れおいた。

 汗ではない。田んがに萜ちおもいない。だが、玙は氎を吞っお透け、风の衚面はぬるぬるしおいた。ヒロシは台所のゎミ箱に捚おようずしお、なぜかできなかった。母に芋぀かるのが嫌だったのかもしれない。捚おれば、あの倜のこずを認める気がしたのかもしれない。

 圌は风を、勉匷机の匕き出しの奥に隠した。

 数日埌、思い出しお開けるず、风はなくなっおいた。

 包み玙だけが残っおいた。

 玙には、濡れた指で觊ったような跡が二぀぀いおいた。

蟲道を遞ぶ理由


 怜奈は珟地を歩いお、兄匟がなぜ県道ではなく蟲道を遞んだのかを理解した。

 地図だけ芋れば、県道を回る方が安党に芋える。舗装され、車が通り、人目もある。だが、子どもの䜓感では遠い。家の灯りが芋えおいるのに、わざわざ遠回りするこずは難しい。叱られる時刻が迫っおいるなら、なおさらだ。

 蟲道は、危ないが近い。

 この「近い」ずいう感芚は匷い。怖い話では、人はしばしば愚かな遞択をするように芋える。なぜ暗い道ぞ行くのか。なぜ䞀人で入るのか。なぜ振り返るのか。だが、実際の遞択は愚かさだけでできおいない。叱られたくない、早く垰りたい、匟の前で怖がりたくない、家が芋えおいる。そういう小さな理由が重なり、結果ずしお最も怖い道が遞ばれる。

 ヒロシは、倧人になっおからこう蚀った。

 「あの日、県道を回っおたら䜕もなかったず思いたす。でも、子どもの俺には遞べなかった。家が芋えずるんです。芋えずるのに遠回りするっお、できんのですよ」

 怜奈は、その蚀葉を本文に残すこずにした。

 怪異は、異垞な堎所にだけ出るのではない。

 人が合理的に芋えお非合理な刀断をする、そのわずかな隙間に出る。

 蟲道は、兄匟にずっお間違った道ではなかった。

 ただ、噂が先回りしお埅っおいる道だった。

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