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『 旅は道づれ 恋せよ乙女 』ep.5 一緒にアメリカに行くという結婚


    『旅は道づれ  恋せよ乙女』
    ep.4 年齢と恋愛



    ep.5 一緒にアメリカに行くという結婚


    「眠れんかったん?」

    朝、隣で目覚めた夫の駿介に声をかけられる。

    「うん。恋をするということと、愛の違いについて考えていたら、夜が終わった」
    真顔で答える美沙に、なんだそれ、と駿介は笑いながら「それは絶対に夜やなくて、昼間に考えたほうがええ議題やな」と言った。

    「夜に考えた答えと、昼間導き出せる答えって、結果が違くない?」と食い下がってはみたものの「そういうのって大抵、昼間導き出した答えの方が正解なんよ。夜に考えることなんて、たいていしょうもないで」笑いながらそう言って先に布団から抜け出し、サンドイッチをつくる準備をはじめた。



     昨日の夜、穂乃果の話を聞いてからずっと、考えていた。穂乃果に「新婚旅行でアメリカに行ってくれる人を探そう」と提案したのは美沙だったからこそ、穂乃果があぁやって恋愛について思い悩んでしまっていたのが自分のお節介のせいではなかったかと、胸につかえるものがあった。穂乃果は一度決めた約束を果たそうとするたちであることを、美沙はよく理解していた。美沙が“30歳で結婚して新婚旅行”だなんて安易な目標を提案してしまったせいで、穂乃果は31歳の誕生日を迎えるまで、婚活市場のど真ん中で、これからも傷ついたり理不尽な思いをしたりすることになるかもしれない。『とりあえず30歳』と決めた目標を果たそうと努力し続けることが、果たして穂乃果の人生にとっての正解なのだろうかと、急に不安になった。 

     昨日は「結婚は日々」だなんて偉そうに言ってしまったが、新婚旅行に一緒に行ってくれる前提で結婚相手を探そうだなんて、そもそも一番『日々』から遠くて矛盾していた。美沙は、突拍子のない思いつきで善いと思ったほうへ猛進してしまう自身の性格を自覚している。だからこそ、引き返せないところまできてから、こうして反省することが度々あった。人の性格というものは、簡単には変えられない。難しい。

     穂乃果には、結婚してほしいと心から願ってきた。それは、美沙にとっては『結婚』が幸せだと疑いもなくそう思ってきたからにすぎない。結婚しない幸せもあるのだということを分かってはいながら、やはり“結婚することは幸せだ”と美沙の価値観の中ではそう思ってしまう。

     駿介と結婚して2年。自分で描いてきた道筋は、その正しさの中にあった。27歳で結婚し、20代のうちに子供を授かる。それが幸せだと、疑いもなく思ってきた。その通りになるように努力もした。その中で、ライフステージというものがこれまでの生活さえも変化させることを知った。例えば、家庭をもったことで夜遅くまで気軽には遊べなくなった。きっと子供が生まれたら、より『遊ぶ』だなんて、自分の時間だなんて、とれなくなってしまうのだろう。分かってはいたが、楽しかった20代に自ら打った終止符を、家族フェーズに切り替えていく隣で一緒にオールを漕いでくれる友達が、いてほしかったのではないか。そう自分に問うと、その感情を否定することは出来なかった。

     『ママ友』という言葉に、違和感があった。子のママであること前提の友情は、きっと穂乃果や久美子とのそれとは違うのだろう。
     美沙が美沙である前に、子の母として生きる時間が多くなった。まだ生まれてもいないのに、病院に行くと名前ではなく「お母さん」と呼ばれる。そうか、私は「お母さん」なのだと、毎回新鮮に驚く。そういうひとつひとつのちょっとした気付きは、これまで安易に穂乃果や久美子と共有することができた。会話のテンポなんて何も気にしなくても、深夜まで語り通すことができた。それでも、この先自分だけが経験する苦悩や喜びや葛藤や幸せが増えていくたび、2人とは共有できない感情が少しずつ生まれていくのだろう。それが原因で離れるくらいの弱い絆ではないと信じてはいるものの、同じライフステージで進んでいきたいという、勝手な欲望のようなものが、ないわけではないのが本心だった。
     久美子は、圭太と結婚するのだろう。だとしたら穂乃果も誰か良い人を見つけて結婚したら、この先も3人で同じ距離感のまま、同じ感情が共有できる。3人でママになれれば、この先もずっと同じ関係性のまま『友達』でいられる。穂乃果の幸せを願うのと同時に、そんな自分との関係性という意味で応援していた気持ちがなかったか。それは本当に、穂乃果の幸せなのかということを、ちゃんと考えてした発言だったのだろうか。そんなことを考え始めてしまったら、眠れないまま朝を迎えていた。


    「駿介。私、間違えちゃったかも」 
     美沙は泣きべそをかきながら、駿介に胸の内を打ち明けた。

    「そうか?」
     そんな美沙の話を一通り聞いても、駿介は表情を変えなかった。

    「俺、美沙ちゃんに『一緒に中国来てよ』って言われたとき、嬉しかったけどなぁ。むしろ、あれがあったから、美沙ちゃんと人生を歩む自分を想像できたし、覚悟をもてた部分もあったんやけどなあ」
     そう言われて、美沙は久しぶりに、結婚前、自分のルーツである中国のことを、駿介に打ち明けた日について、思い出した。 


    ◇◇◇

     美沙の両親は2人とも中国人だった。美沙自身は日本生まれ日本育ちで、自分が中国の血であるという自覚はあまりなかったものの、日中関係について思うことは色々とあった。差別的な印象があることも知っていた。駿介の前に付き合っていた元カレからは「中国人だって親に紹介できないから結婚は無理」と言われたこともあった。友達だと思っていた人から「中国は何ひとつ信用できない」と罵られたこともあった。だから美沙は、強くなるしかなかった。自分で決めたことには自分が自信を持って、信じて突き進んでいくしかなかった。
     だけど、天地がひっくり返ったって、中国が自分のルーツであることに変わりはないことは確かだった。血を取り替えることなんて出来ない。だからいつか、自分の血が巡る祖国が本当はどんな国なのか、自分の目で見て、自分の足でその地を踏みしめて、確かめてみたいとも、そう思っていた。

     駿介のことは、心の底から愛していた。結婚したかった。これからも駿介と生きていきたかった。だからこそある日、意を決して、別れを切り出されることも覚悟の上で、思い切って打ち明けた。両親が中国人であるということ。自分は日本国籍ではあるが、ルーツは中国にあるということ。独身のうちに、一度中国に行ってみたいと思っていること。これからの人生は、駿介と歩んでいきたいと思っていること。そしていつか駿介とも一緒に、中国に行ってみたいということ。駿介と一緒ならば、根拠のない自身がわいてくるということ。美沙の思いを、全て駿介に話した。一生懸命に、覚悟をもって打ち明けたつもりだった。

     それなのに、駿介はというと、全く重苦しくない空気をまとったままで、いつもの調子で、こう言ったのだ。

    「ええで。行こうや。楽しそうやん」

     拍子抜けとはこのことだ。ただの旅行程度の提案に捉えられたのだろうか。でも、その軽やかさが、その時の美沙にとっては、涙がでるほどの幸せだった。
    「ほんなら結婚したらええんとちゃうん」
    関西生まれ関西育ちの駿介の言う“関西人のノリ“というものが、どこまで本気で、どこまでおちゃらけなのか、いまだによくわからない。だけどあの日、美沙の話を聞いてすぐに、駿介からそんなふうに言ってくれたプロポーズの言葉が、美沙を心から救ったのは確かだった。どんなロマンチックなシュチュエーションよりも、愛を感じた。この人を愛すると決めて正解だったと、心から確信することができた。


    ◇◇◇

    「ほんなら穂乃果ちゃんにも言ったらええやん。良いと思った人に出会ったら、端から”ほな一緒にアメリカ行こうや”って言うてみーって。結婚せなあかん、子供もたなあかんって思えば思うほどなんかが欠落してるんちゃうかって悩まされてるような人いっぱいおるけど、美沙ちゃんは美沙ちゃんで、穂乃果ちゃんは穂乃果ちゃんであるだけで完全なんやで。」
     何が正解かは本当に分からない。ただ、美沙が心の底から穂乃果の幸せを祈っていることだけは確かだった。駿介のように、ずっと軽やかに生きられる人は少ない。穂乃果なんて余計にそんなふうには言えないたちなのも分かっている。だからせめて、穂乃果がどれだけ悩もうとも困難に直面しようとも、これから歩む人生の選択の一番の味方でいようと、そう、心に決めた。


    怒涛の11月が過ぎ去った。

    私たちの29歳の、半分が終わった。



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     そのカレー屋はいつも、今時珍しいブラウン管テレビにのど自慢が映されていた。キーンコーンカーンと鳴るベルの音を背に食べるカレーは、店の経営が心配になるくらいの大盛りで、おまけに頼んでもいないラッシーまでついてくる。  

     穂乃果がこの店に来るのはもう、5回目だろうか。1度目は、家から一番近い店というだけの理由で選んだ。その時に目にしたランチメニュー表のカレーナンセットのあまりの安さに釣られて、再度訪れたのが2度目だった。そのどちらも、カレーといえばラッシーだろうということで、条件反射的にラッシーを頼んだ。3度目は、テイクアウト。「寒いから中で待っててイイデスヨ」とカタコトの日本語で招き入れてくれたネパール出身の店員が、持ち帰りのカレーが出来上がるまでの間、店の中で待たせてくれた。その、たかが5分程度の待ち時間に、頼んでもいないのにラッシーを運んできてくれた。「コレ、サービスデスネ」 
     4度目の入店は、20:59に店に入ろうとして「キュウジマデデス」と止められた日のことだった。あ、午後9時までということかと理解するのに5秒くらいかかったが、ネパール人の店員はいつもの笑顔で「オモチカエリ、デキマスネ」と、テイクアウトならまだやっていることを教えてくれた。持ち帰って食べたラッシーがないカレーの味気のなさに、次にあの店に行ったときには絶対にラッシーを頼むと誓った。

     そして今日が5度目の再訪だ。
    「ドウジョ、ラッシャイマーセ!」  
    その声が心地よく響くのと同時に、今日もブラウン管テレビからキーンコーンカーンと鐘の音が聞こえる。
    「あらー、穂乃ちゃんじゃない」  
     扉を開けると、近所に住んでいる職場の上司の畔上さんが、家族連れでカレー屋にいた。
    「あ、こんにちはー」挨拶をし、通路を挟んだ隣の席に腰をおろす。 
    「よく来るの?」 
    「はい、割と。家、目の前なんで」  
     上司の家も、はす向かいのマンションであるということは、度々訪れたことがあるから知っていた。40代の夫婦と6歳の女の子がいる気の良い一家で、穂乃果に余りものの食材や作りすぎた鍋物などをおすそ分けしてくれることが度々あった。 
    「ほのちゃん、今日もうちで遊んで帰るー?」 
    6歳の千奈ちゃんが笑いかけてくる。口の周りには、ラッシーで白いひげが出来ていた。
     穂乃果は、子供が好きなほうだった。ましてやこうして積極的に関係を築こうとしてくれる子供の可愛さには、素直にほだされる。 
    「いいじゃない、寄っていきなよ」
    上司の夫も上機嫌で同意した。 

    「あー、でも今日、良太くるんだよね」
     畔上さんは、あからさまに眉間に皺を寄せる。確か8つほど年の離れた弟がいると、前に聞いたことがあった。 
    「あいつ、なんだか知らないけど免許の更新でこっちのほうに来るとかで。ずーっとふらっふらしてて実家にも年に1回顔出すか出さないかのくせに、なんか今日に限ってちょっと寄るって急に連絡来てさぁ。まぁ、あいつがいてもいなくても、穂乃ちゃんさえよければ寄ってってもらっていいんだけどね」  
    「えー!今日もほのちゃんと折り紙やるのー!」
    千奈ちゃんが駄々をこね始める。
    「じゃあ、行っちゃおうかな」 
     畔上さんの家は、いつも温かかった。世界中の家族がこういう家庭ならば戦争はなくなるんだろうなと安易に思ってしまうほど、温かい家だった。時に「冷たい」と言われる街東京で、近所にこうして自分というひとりの人間を、なんの見返りもなしにただ迎え入れてくれる家庭があるということが、今の穂乃果にとって、どれだけありがたいことかということを、切に感じていた。


    「こんばんはー」 
     畔上家にお邪魔して、ほのかにりんごの香りがする紅茶を淹れてもらいながらゆっくりしているところへ、上司の弟である良太がやってきた。目鼻立ちがくっきりとしているところが、畔上さんにそっくりだ。
    「あんた何?どうしたの、急にくるなんて。珍しすぎてあんたのせいで雨降ってきたんじゃない?」 
     急に降り出した雨に、ベランダの洗濯物を取り込みながら畔上さんは畳みかける。職場でみている上司とは異なり、いかにも兄弟の会話というようでおかしかった。 
    「あの!初めまして。お邪魔させていただいています。部下の相田穂乃果です」
    穂乃果は立ち上がって、挨拶をする。 
    「こんばんは。弟の良太です。すみません、こんな姉で。お世話になってます」 
    とても、穏やかに笑う人だった。
     運転免許の更新で上司の家の近くまで来たついでに寄った、というのが名目らしかったが、話したいことはそれだけではないようだった。

    「親父、大丈夫かな?認知症」  
     畔上さんの父は、今年で80歳になるらしい。最近認知症の症状が出始めていると聞いていた。良太は、両親の二人暮らしをこのまま遠くから見守っていていいものかどうかということを、相談しにきたようだった。 
    「まぁ大丈夫か大丈夫じゃないかで言ったら大丈夫じゃないんだと思うけど・・・そうかと言って、あんただって仕事あるんだし、同居なんてできないでしょ?うちだってマンション買っちゃったし。いつまでもフラフラしてないで、あんたが良い人でもみつけて安心させてあげられれば違うんだろうけど。ほら、認知症って何か良い刺激があると脳にも良いって聞くじゃない」
     相変わらず、8つも年下の弟に対しては手厳しい。やはり職場で見ている温厚な畔上さんよりも圧が強くて笑えてくる。 
    「穂乃ちゃん聞いてよ。こいつ親のこと心配してるとか言いながら、1人でチベットの山になんか登りにいったかと思えば、今度はイタリアだかどっかの海に潜りに行って、ずーっとふらっふらしてんの。もう36だっけ?大丈夫なわけ?次はどこ行こうとしてんのよ」
     上司の問いかけに、良太はお茶を濁しながら答えた。
    「いやぁ、、ごめんね。30代のうちに、アメリカに行って、これでしばらく旅は最後かなと思ってるんだけどね」 
    「えー!!!」穂乃果は、思わず声をあげた。

     頭の中で、最近ずっと反芻していた『アメリカ』というワードが、こんなにも身近で登場すると、身体が条件反射的に反応してしまう。
    「アメリカって、アメリカのどこに行くんですか?」思わず前のめりになって聞いてしまう。
    「まぁ、あの、お若いから知らないかもしれないですけど・・・アメリカって、横断のための道があるんですよ。それが来年、開通100周年なんです。若気の至りにアメリカ横断でもして、少し落ち着こうかなって思って。まぁ若気の至りって言っても、もう若くないんですけどね。今日は、そのための国際免許をとりに免許センターに行った帰りだったんです。」 
     穂乃果は、しばらく口をパクパクさせながら、良太に何かしら言わねばと、次に続けるべき言葉を頭の中で逡巡した。こんな偶然が、あるだろうか。
     かと言って初対面の相手に「一緒に行かせてください」だなんて失礼だし、ましてや上司の弟に「自分も来年新婚旅行で行くつもりで」だなんて夢物語を吐露するわけにもいかず、何をどう説明すればよいのか分からなくなった。 
    「でも実際、大陸横断なんてできるのかなってまだ現実味はないんですよ。もう廃線になっているところもあるみたいだし、ガイドしてくれる知り合いもいないし。YouTubeとかであがっている動画を頼りに行き当たりばったりの旅をするか、それともコースをがっつり決めて10日くらいでただただ走り続けるか・・・って、知りませんよね、こんな話。」
     頭をかきながら良太は姉の顔色を窺っている。「いや、ごめんね、親父が大変なときに行くなよって言われそうなのは分かってて、だからどうしようかなってまだ決定してない段階で・・・」 
     穂乃果は、良太にずっと持ち歩いていた謙三の名刺を差し出した。 
    「あの、良太さん、この人なんですけど」
     穂乃果は、自分も偶然にも来年ROUTE66を走破する目標を掲げていたこと、友達と焼肉屋でその計画を練っていたときに、たまたま謙三に声をかけられたことなどを、結婚の話などには触れないよう細心の注意を払いながら一気に説明した。 

    「え!そうなの?そんな人がいるんですね!?いや、偶然というか、、、偶然すぎて、、」 
     良太もいきなりの展開に驚きを隠せずにいる。 

    「一緒に行って来たら?旅は道連れ、世は情けってね」
    話を聞いていた畔上さんの夫が、話に入ってきて言った。 
    「良太くんはねぇ、出版社の編集さんなんですよ。たしか東京の阿佐ヶ谷に住んでいるんだっけ?そんなに遠くはないよね。旅慣れてるから、連れて行ったら何かと便利かもしれないよ。素性も知らない人といきなり旅に出るのは穂乃ちゃんも心配だろうけど、こいつの弟と思えば少しは役にも立つでしょう?そんなに気は利かないかもしれないけど、いいやつですよ」 

     急な展開だが、アメリカ行きの計画においては願ってもいないチャンスに変わりはなかった。良太の顔を見ると、少し照れ臭そうにして頷いていた。 
    「俺、一人旅しかしたことないから安いモーテルとかに泊まることになるだろうけど、大丈夫?」 
    「そんなに貯金がないけど大丈夫?って素直に言いなさいよ」 姉の突っ込みをうけて「全くないわけじゃないよ!」と返している。 
    「あんた、穂乃ちゃんに手出すんじゃないよ?まだピチピチの20代なんだからね」 
    いや、もう29歳ですと訂正しようとするも、畔上家の夫婦の会話に入る隙間もない。
    「えー、いいじゃないか。俺はむしろ2人がうまくいけば、穂乃ちゃんが義理の妹になるぞー!やったー!なんて下心で今必死に気の利いたことを言っていたんだぞー!なぁ?良太くん。良太くんだって願ったり叶ったりだよなぁ」
    「バカいってんじゃないの!穂乃ちゃんの気持ちも考えなさいよ」 
     家族の会話に、パッと花が咲くような温かさを感じていた。より一層どぎまぎを隠せない穂乃果としては、その温かさに救われながら口角を必死にあげて笑顔をつくるしかなかったが、決して嫌な気持ちにはならないことだけは、確かだった。


    ◇◇◇


     帰り道、良太と一緒に畔上家を後にし、少し散歩しながら帰ることになった。穂乃果の家は畔上家のすぐ近くなので、送ってもらうほどの距離でもなかったが、夜風にあたってもう少しだけ2人で話していたいと、そんなふうに思えた。 
    「あの、なんかごめんなさい。うちの姉夫婦が勝手に盛り上がって。うるさかったでしょう」 
    「そんなことないんです。むしろ、いつもあの温かさに救われているのは私ですから」 
    「なら、いいんですけど。アメリカの旅がすごいいきなり現実味を帯びて、俺なんか嬉しくなっちゃって、高揚しちゃってました。ありがとうございます。俺も自分でもその人のこと調べてみますけど、アメリカに、日本人でそんな頼りになりそうな人がいるんですね」 
    「ちょっと話長いし胡散臭いところもあるし一見怪しげですけどね?悪い人ではなさそうなんです」 
    「今度、その謙三さんに、一緒に電話してみましょうか。ってか、俺だけ盛り上がってるかんじじゃないですよね?アメリカ行くっていうやつ・・・本当にいいんですか?」 
    「むしろ、私のほうこそ。嬉しいです、ありがとうございます」 
     穂乃果は、心の底からの、感謝の気持ちを伝えた。

     すごい。今日カレー屋さんに行かなければなんにも始まっていなかった、本当に偶然の奇跡が起きた。どうなるかは分からないけれど、生きるってことはそもそもが、ほとんどがどうなるかは分からないことの連続だ。
     畔上家にも、あの時話しかけてくれた謙三にも、もちろん一番は美沙や久美子にも、周りの人たちに、急に、これまでの全てのことに、たくさんの感謝の気持ちがわいてきた。

     さまざまなことが、大切にしたい人の存在や、これまで出会ってくれた人へ、感謝することから始まっていく。友情も愛情も、きっとそうやって感謝の気持ちを持ち続けることで関係性が保たれる。ありがたいと思った気持ちのままを、お返ししたいと思う。ご縁を、大切にしたいと思う。人を、傷付けたくないと思う。正しくありたいと思う。これまでの日々の中で、そうあろうとするときに、その弊害となり得るものもたくさんあることも知った。正しさだけが正しくないということも知った。穂乃果の中の自信のなさやふがいなさで、尻込みしてしまってきたこれまでの全てを払底するかのように、今、感謝の気持ちを持って、いちから始めればいいのだとそう思った。
     なんでだろう。涙が出そうになる。
     安心、という二文字が、一番しっくりとくる、感情の答えだった。

     穂乃果は、自分が心底安心したのだと気付いた。結婚したいのかどうかは分からない。子供が授かるかどうかも分からない。先のことなど何も分からないけれど、勝手に適齢期と呼ばれる年齢にさしかかり、ぼやっとこのまま生きていたらすぐに高齢出産と呼ばれる年齢に到達する。人生という重荷を背負っているようで、答えのない迷路の中をずっとさまよっているようで、それがずっと、おそらく、のしかかる課題のように不安だった。 
     それが今、ただ良太とアメリカに行く約束をしたというそれだけで、自然とやりたいことをやれる幸せを感じられた。人生を大切に生きることができると思った。もう、結婚なんて、どうだってよく思えた。結婚なんてただの手段であって、こうして誰かの存在があってこそ、今の自分が生かされていることに気付けたことが全てのように思えた。


    ◇◇◇


    『旅は道連れ世は情け』
     良太と再会の約束をして別れ、家に着いてから、穂乃果は畔上さんの夫が言っていた言葉を思い出した。どういう意味だったっけ。調べてみると、こんなふうに書かれていた。
    【旅をするときは同行者があった方が楽しくて安全なように、この世に生きていくにも、互いに思いやりやいたわりの気持ちで助け合える相手があれば心丈夫である、という意味】

     あの時、謙三が叙々苑で言っていたことの意味が、ようやく分かった気がした。満員電車で老人に席を譲ったときの話だ。あの時はなんの話をしているのかさっぱり分からなかったが、今なら分かる気がする。今日一日無事に働くことができました。おいしく食事をいただくことができました。あたたかい布団の中でぐっすり寝ることができました。これらのことは、決して自分ひとりの力で成り立っているのではない。どんな人にも、出会ってくれてありがとうございますと、そう思いながら生きていれば、良いご縁も、結果的に良いと言い切れなかったご縁も、すべて、自分の生きた時間に居てくれたという事実になって、自分を創っていってくれる。

     「ありがとう!私、一緒にアメリカに行ってくれる人に、今日、出会えた!」

     美沙と久美子にメッセージを送るとすぐに、2人から一斉に電話がかかってくる。グループ通話のボタンに応じる。

    「え!?なに、どういうこと!?」
    「結婚とかは分からないけど、」今日のいきさつを話すと、なぜか電話口の向こうで美沙が鼻をすすり出した。
    「駿介ぇー!穂乃果が、アメリカ行く人見つけたってー!」隣にいるのであろう夫の駿介に、報告する声が聞こえてくる。
    「大袈裟だな」と言って笑いながら、穂乃果は久しぶりに人生年表を取り出した。
    「30歳」の欄に、黒いマジックペンで「アメリカ ROUTE66走破!」と書き込んだ。


    ep.6 重圧と安堵



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    | 1994 東京 |

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