
良かれと思って改善するほど、社員が遠くなる。AI時代に起きる「置き去り問題」
こんにちは。恵藤計器代表の瀬口です。
3か月ほど前にClaude Codeを導入してから、触らない日はありません。
あらゆる仕事にAIが介在していて、特に社内のシステム改修は完全にAIに依存しています。
ある日の深夜。家族が寝静まった家の自室で、AIと5時間ほどやり取りした末に、とある業務機能の改修が終わりました。
きっかけは、以前から気になっていた、事務担当の社員が何気なく漏らした一言でした。「ここ、毎回目視と手作業なんです。」
事務作業の内容はまったく難しくない。
その「毎回」という言葉が気にかかりました。
放っておくと、その人は今後も、その「毎回」を積み重ねていくことになる。
AIを使えばもっと楽にできる、というか、その作業自体なくせるはずだ。
そして、もっとその人が活きる、価値ある仕事に時間を使ってもらえるはずだ。
そう思って、業務フローを見直し、システムの画面を書き換え、AIに何度も作業をお願いしました。
ようやく納得できる形で実装できたとき、時計は午前3時を回っていました。
「これで、事務仕事の手数が少しは減らせる。」そう思いながら、翌朝に届くSlackのタイマー送信設定をして、眠りにつきました。
翌朝、社員の皆さんに、私からの「新機能を追加しました。トライアルお願いします。」というSlackが届きます。
しばらくして返ってきたのは、「ありがとうございます。触ってみます。」
一方で、
「なんでこう変わったんでしょうか…?」
「前のほうがわかりやすかったかもしれません。」
といった反応もあります。
最近、この瞬間に立ち止まることが増えました。
「そっか、なんでこう変えたのか、みんなわからないのか。」
私の頭の中には、その日トータルで10時間近くの試行錯誤があります。
なぜこの機能を変えたのか。何を自動化し、何をあえて残したのか。どういう作業動線を想定して、ここにこの形のボタンを置いたのか。
業務フロー全体との整合性。将来の拡張性。他システムとの連携。アナログが残る現場との接続。
そうしたトライアンドエラーの履歴は、AIとの対話の中には確かに存在していました。
でも、社員のみんなに届くのは、一枚の完成図だけです。
私が考えた時間は、共有できません。
文脈を省いて結果だけ見せられると、人は困惑することがあります。
ここ最近、私はその当たり前の事実を、以前よりずっと実感するようになりました。
AIが仕事を加速しているのは確かです。
ただそれによって、「私だけが一人でどこか先に走ってしまっているかもしれない」という感覚も生まれています。

なぜ、走り続けてしまうのか
ここ数か月、読書量が目に見えて減りました。
「積ん読」の山だけが少しずつ高くなっています。
できるだけ運動したいとは思っていますが、なにせ座ってPCに向かう時間が長すぎて、背中と腰のハリがすごい。
単に年齢かもしれないけど、老眼も一気に進んだ。スマホの画面で、ワールドカップのスコアが…見えない…
それでもAIを触り続けている理由は、はっきりしています。
AIを使えば、今の業務はもっと効率化できる。
品質も改善できるし、ミスも減らせる。社員の貴重な時間を、もっと価値の高い仕事に使ってもらえる。データを使って、今の商売をより深く・広くできる。
その「ちょっと先の未来」が、以前よりずっと鮮明に見えてしまうのです。
目の前で、社員が「本当は削減できる作業」に時間を使っている。
大切な、一回きりの人生の時間を。
そう考えると、どうしても走ることをやめられません。
去る5月、当社は営業管理システムを全面的に入れ替えました。
14,000件を超える商談データを移行し、多数のデータベースを連携させ、ポータルも一新しました。
システムの骨子や大規模データ移行はベンダーさんに委託しましたが、UIの作り込みや業務フローの再設計など、ローンチ前後の作業の大半は、私がAIを使って一人で進めました。
私とAIで考えた、これまでより大幅に効率化した新・業務フローを見て、とある社員がこう言いました。
「変わりすぎてついていけないかも…」
私にとって、その業務フローは2か月間の試行錯誤の結晶です。
でも、彼女にとっては違います。
突然、今までの事務仕事と画面も操作方法も違う内容で「やってみて」と言われる。「使いにくいところをフィードバックして。すぐ直すから。」とか言われる。
「なぜそうなったのか」という検討のプロセスがわからなければ、戸惑うのは当然です。
私は2か月間、AIと対話をして試行錯誤を続けてきた。
彼女は日々同じルーチンで作業をしてきた。
同じ画面を見ているけど、そこに映っている「意味づけ」はまったく違う。
こういう場面が、ここ最近ちょこちょこ発生しています。
経営者の目線からは、「改善することで、社員のムダな作業を減らしたい!」「もっと価値提供に直結する仕事をやってもらいたい!」などと思い、AIとのやり取りに昼夜問わず時間を使い続ける。
でも、抜本的な変化を急ぎすぎれば、社員は理解の外に置かれてしまう。
一方で、社員の充分な理解の醸成を待っていると、スピードがものすごく落ちる。ちょっと先の未来は見えているから、それがもどかしくてたまらない。
その構造の難しさを、以前よりも切実に感じるようになりました。
なぜ、こんなにも大きく差が開いてしまうのか。
レバレッジの構造が変わった
これまで経営者の能力は、主に資本(お金)によってレバレッジされてきました。
人を雇い、設備を入れ、仕組みをつくることで、一人の意思決定が組織全体へ波及して、価値を生む。それが経営でした。
AIは、その構造を更新してしまったように感じます。
レバレッジの主たる源泉が「資本」だけではなくなり、
資本。
思考の器。
時間。
になった。
ここで言う「思考の器」とは、AIに対して質の良い問いを立てられる力です。AIは問われたことには驚くほど正確に答えてくれます。
でも、「何を問うべきか」は教えてくれません。
その気づきだけは、自分の中からしか生まれないのです。
そして問いの質は、一朝一夕には育ちません。
「何が本当の問題なのか」を見つける洞察力。
「自分はどうしたいのか」を問い続ける姿勢。
簡単に答えを出さず、複雑な曖昧さに耐えられる思慮の深さ。
そういうものは、長い時間をかけた経験と、それに対する意味づけの蓄積の中で少しずつ磨かれるのだと感じています。
そしてもう一つ、「時間」。
当たり前ですが、経営者には労働時間の区切りがありません。深夜でも休日でも、思いついたらAIとの対話を始められる。
この三つは、AIを介して互いを加速させながら回り始めます。
思考の器が大きい人ほどAIをうまく使える。
AIを使うほどその器はさらに磨かれる。
時間を忘れて没頭できるほど、その循環は何度も回る。
回るたびに、次の一回転がさらに速くなる。
以前は直線的だったレバレッジが、複利のように効き始めている。

そして、この複利は、少なくとも今は経営者の側に強く効いていると感じます。
会社で働く従業員は、ある程度決められた労働時間しか投入しない(できない)。経営者と比較すると、価値創出の変化の勢いは緩やかになります。
経営者と従業員、金曜日の夕方には同じ場所にいたはずなのに、月曜日の朝には100メートルくらい離れてしまっている。
週末にひたすら高速回転したせいで、社員が出勤してきたとき、私はもう別の景色を見ている。
その距離の差は、別にスキルの優劣によるものではありません。
AIが生み出す複利による差です。
そしてこの差が、社員との間に「理解の速度差」となって広がっていきます。
良かれと思ってやっていることが、距離を生んでいるのかもしれない
最近、一つの逆説に気づきました。
社員の時間をより価値あるものにしたい。
だから改善しようと走る。
でも、走って変化の勢いが増すほど、社員との距離が広がる。
良かれと思って始めたことが、逆に理解の距離を生んでいる。
しかも厄介なのは、AIとの壁打ちで到達した意思決定が、社員には「結論」としてしか届かないことです。
仮説を立て、壊し、別の角度から組み直し、また壊す。
その数時間は、完成した資料のどこにも残りません。
社員から見れば、月曜日の朝にSlackで送られてくる私の判断は、「突然降ってきた決定」です。
蛇口から流れ込む水の量が、排水口から流れ出る量を上回って、水位が上がり続けているような感じ。
今、組織の中で起きているのは、それに近い現象なのではないかと思うようになりました。
まだ説明していない判断が、静かに溜まっていく。
社員が理解する前に、次の判断が流れ込んでしまう。
苛立ちとは少し違っていて、社員がわからないのは当然です。そうなる仕組みの中にいるのだから。
もどかしいのは、それがわかっているのに、なお「とにかくAIに触って慣れてほしい」くらいしか言えないこと。
「高速回転」の中身を伝える手段が、前に進む速度に追いついていない。そんな感覚があります。
届けられるものと、届けられないもの
もちろん、希望もあります。
経営判断の骨格──変更の理由、数字の根拠、新しい仕組みの使い方。
こうした「言葉にできる知識」は、AIを使えば以前よりずっと速く整理し、社内へ届けられるようになりました。
AIで前へ進んだぶんの「翻訳」を、同じAIに手伝ってもらうこともできます。
ここには、大きな可能性があります。
でも一方で、どうしても届きにくいものがあります。
なぜ、その判断に至ったのか。
どういう葛藤があって、その選択肢を捨てたのか。
最後に「うちの会社としては、こうあるべきだ!」と決定づける感覚、”善いことについての価値判断”は、言葉ではなかなか説明しきれません。(情報量が膨大になってしまう)
AIが速く届けてくれるのは、言葉にできる側の知識です。
でも、「なぜ、そのときそう感じたのか」という感覚は、一緒に悩み、一緒に迷う時間の中でしか共有できない。
”何が我々にとって善いことなのか”を伝えられるチャネルは人対人で「共に在る時間」であり、こればっかりは、身体を持たないAIに“代わりに一緒に悩んでおいて”とは頼めない領域です。
言葉にできるものはAIで加速して表現できる。でも、言葉にしにくいものは、人間同士の速度でしか届かない。
その非対称が、以前よりもずっと大きくなっている気がしています。
「全員経営」を、少し考え直している
私はこれまで、「全員経営」という言葉を繰り返し使ってきました。
一人ひとりが「当社としてこうした方が良い・こうすべきだ」と自分ごととして考え、主体的に動く組織。
それは理想だと思います。
でも最近、その意味を少し考え直しています。
以前の私は、「全員が同じくらいの深さで理解すること」が理想だと、どこかで思っていました。
しかし、そうではないのかもしれない。
以前の記事で、発達方程式の「P(器)」について書きました。
四十代後半になって、「器」の可塑性には限界があると認めたとき、何かが楽になった感覚がありました。
全員に同じ成長を求めるのではなく、その人の器に応じて役割や期待値を設計する。
「全員経営」への関わり方も、同じなのかもしれません。
AIがもたらすレバレッジを踏まえれば、全員が社長と同じ速度で考えることは不可能。同じ深さで理解する必要もない。
それぞれの立場で、それぞれの深さで、自分ごととして経営に関われればいい。
そして、より鍛えるべきは「組織としての理解速度」である。
そう考えると、これまで主に私が担ってきた「翻訳」──経営判断を社員の言葉に置き換える仕事──を、少しずつリーダー層に権限委譲していく必要があります。
ただ、翻訳を託せるかどうかは、託される側が「最終的には自分が引き受ける」という覚悟を持てるかにかかっています。
この"覚悟"については、以前べつの記事で書きました。
もちろん、最初はうまく伝わらないでしょう。
私が直接話せば一度で済むことが、何度も行き来するかもしれない。
でも、その回り道そのものが、組織の理解速度を育てる時間なのではないか。
以前書いたエフェクチュエーションの考え方を思い出します。
結果が見えなくても、許容できる範囲でまず一歩を踏み出す。
翻訳を任せることも、おそらくその類いの挑戦です。
具体的な答えは、まだありません。
でも、蛇口から流れ込む水の量を減らそうとしても、本質的な解決にはならない気がしています。
問いを持ち続けること
ここ数か月の自分を振り返ると、少し矛盾した姿が見えてきます。
社員のためを思って走るほど、距離は広がる。
広がるけど、やらなければならないことが見えるから、焦ってまた走る。
私は、これまで積み重ねてきた信頼を、少しずつ使いながら走っているだけなのかもしれません。
この構造に、今の私はまだ答えを持っていません。
ただ、一つだけ思うことがあります。
「自分は社員を置き去りにしていないだろうか。」
その問いだけは、持ち続けたいと思います。
同じような経験をされている方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
AIの恩恵を実感しながら、でも同時に、周囲との距離にどこかもどかしさを感じている方。
もしそうであれば、この記事が何かの参照点になれば嬉しく思います。
答えではなく、問いとして。
AIが、人を置き去りにするのではない。
「理解の速度差」を、目に見える形にしてしまうのだと思います。
私が今向き合うべきなのは、AIをもっと使いこなすことだけではなく、速く、大きくなった自分の思考を、限られた時間の中でどうすれば組織の中へ翻訳できるのか、という問いなのでしょう。
まだ答えは出ていません。
ただ最近、前へ進むことと同じくらい、振り返ることにも意志と時間がいるのだと思うようになりました。