見出し画像

昨日見た地獄《2》

第1話→https://note.com/ra_wa/n/n25700f8a7754

    7時28分発の準急に乗る。
    あの男がいないことが、落ち着かない。
    ニュースを読み終えていつもの音楽を聞こうとしたが、イヤホンが見当たらないことに気づいた。

    昨日の帰りに断線したことに気づいて、取り替えたまま机の上に忘れたことを思い出す。
   ああ、最悪だ。いつもと違うことをするのは、これだから嫌なんだ。

    電車の中の雑音が鬱陶しい。
    ここを喫茶店と勘違いしている若者たち。私には理解できないが、話したいのならば学校の中で済ませておけ。
    朝なのに、既に通勤帰りのように情けなくくたびれる人々。夜に睡眠を適切にとらないから、そのような痴態をさらす羽目になる。

    そういえば、あの男は普段電車の中でどうしていただろうか。
    いつも顔は見ていたはずなのに、思い出せない。

    あのときの人身事故は、彼にとってそれほどの地獄だったのだろうか。
    迷惑だ、と呆れるだけでは済まなかったのか。
    せいぜい、少し気分が悪いで終わる話ではなかったのか。

    あの男がいない席の、向こう側の景色を眺める。
    この電車に初めて乗ったのは、部活を引退した翌日だった。

    昔から、役割を遂行するのは得意だった。勉強なら決められた範囲を学習し、部活なら決められたメニューをこなす。
    しかし、多くの人間は私と同じようには動かない。サボりや愚痴を共有して笑い合う姿は、私には理解できなかった。

    中高の野球部で、必要なことを確実にこなす私は、ずっと名ばかりの部長を押し付けられていた。
「サイボーグ野郎」と陰口を叩かれていることにも、気づいていた。

    最後の一球、私はバットを振らなかった。
    今でも、あの球はボールだと思っている。
    それでも、あの時強引に振り抜いていれば、もしくは大げさに涙でも流せたら、ベンチの恨めしそうな視線は少しは変わっていたのだろうか。

    私が人に好かれないことは、承知している。
    ならせめて、安心くらいは望んでも良いだろう。

    ……無為な思考だ。
    音楽のない電車は、長すぎる。

    8時10分、職場の最寄り駅に着いた。
    電車を出るとき、見覚えのある影があった。
    あの、震えていた男だった。

「あの」
私は、その男に声をかけていた。自分でも信じられなかった。

「え?」
怯えたように、男は振り返った。
「……お、おれですか?なにか、しました?」

「聞きたいことがありまして。なんで、いつもの席にいなかったんですか?」

***

    男は、蜜蜂みつばちと名乗った。
    珍しい名字だ。芸名かなにかかもしれない。

「蜜蜂さん。貴重な朝の時間を奪ってしまい、申し訳ありません」
「いえ、まだ時間はありますので。……ええと」

「私は蔵野と申します。よく同じ車両に乗っておりましたので、顔はご存じかもしれませんが」
「そうですね。あの電車に乗る人は、みんなあなたのことを知っていると思いますよ」
ふむ。私は特段、目立つことをしてはいないつもりだが。

「それで。いつもの席に座らなくなったのは、あの忌々しい人身事故のせいでしょうか」
「まあ、そうですが……その、そんなに気になりますか?」

「はい。私はどうも、日常の風景が動かされるのが気になってしまう質でして」
「そ、そうですか」

    明らかに、今の私は不審人物だ。
    相手が若い娘なら、通報されてもおかしくない。

「うーん。おれって、変にひも付けて覚えちゃう人なんですよ」
「ほう」

「あの電車のあの席は、おれの中で『人身事故の席』になりました。ほかにも『痴漢の席』とか、『酔っぱらいの席』とか……おれの中で、いやな記憶と繋がる席には、あんまり座りたくないんです」

    ジンクスのようなものか。なんとなく、気持ちは理解できる。

「あそこは『蔵野さんのいる席』だったから、ほかのことを考えずに済んで気に入っていたんです。ですが、こうなってしまうと……」

「先ほどから気になっておりましたが、私はそんなに目立っているのですか」

「はい。とても。毎日、時刻表のようにしっかり同じ動きで、ひそかにすごいなって思ってました。おれは、真面目にコツコツやるのが苦手ですから。いちいち、余計なことが気になって」

    時刻表のように。
    サイボーグよりは、好ましい響きだ。

「蜜蜂さん。その紐付けは、同じ車両の別の席でも起こるんですか」
「いえ。見える風景が違えば良いので、向かい側の席に座ればなんとか」

「そうですか。なら、わざわざ降り口から遠い車両ではなく、同じ車両に居てくれませんか」
「は、はあ。しかし、なんでまた?」

「わかりませんか」
ふう、とため息をつく。

「あの車両が、私にとって『蜜蜂さんのいる車両』だからですよ」

第3話→https://note.com/ra_wa/n/nac71a0ffe862 

いいなと思ったら応援しよう!