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昨日見た地獄《1》

 電車の時刻表通りに生きていたい。
 毎日三番線のホームの先頭に並び、7時28分発の準急に乗る。

 いつもの席に座れないとイライラするから、15分前から並んで前の電車を見送る。最寄り駅が始発というのは、私にとって大きな幸運だった。

 席に座る頃には、ニュースを一通り読み終わっていつもの音楽を聴く。
 今日も問題なく、タイムカードを8時20分に切ることができそうだ。

 アルバムの音楽が六曲目のサビを奏でた頃。
 大きな衝撃が、私を揺らした。

 電車が止まり、つり革が揺れる。
 立っている乗客たちが崩れた体勢を整えたあと、不愉快な困惑やざわめきが静かに膨らんでいく。

『お客様にお知らせします。ただいま、線路への立ち入りがありました。当電車はしばらく停車いたします。振替輸送を行いますので、しばらくお待ちください』

 ……ああ、腹が立つ。
 自分の体だけじゃなく、人の予定までぐちゃぐちゃにしないと気が済まないのか。
 当然に今日を生きる、ただそれだけのことがなぜできない。

 私は、会社にテレワークの連絡をいれた。
 不確定な遅刻なら、出社しない方がましだ。

 席の向かい側、青ざめた男と目が合う。
 ぶつぶつと雑音を撒き散らして鬱陶しい。

「ここも、また地獄になるのか」

 震える声で、そう呟いていた。
 そういえば、この男はいつも私と向かい合っていたなとぼんやり思った。

***

「蔵野くらの、昨日は災難だったね」
宮村みやむら室長は、いつも通り珈琲を淹れていた。

「季節の変わり目は、こういう事象が多いものと理解しています。突然の在宅勤務となり、室長にご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「いや、人身事故なら仕方ないだろ。蔵野は固いんだよ。どうせお前は電話番とかやりたがらないし、もっとテレワークをとっていい。たまには休んでもいいんだぞ?」

「事前申請のない休暇など言語道断です。それに私は、執務室に入らないと集中できません。昨日は、作業効率が明らかに落ちてしまいました。給与を割引いていただけますか?」
「逆にめんどくさいことを頼むんじゃない」
「計算は私の方で行いますので」

「そーじゃなくて。本社から来たスーパー事務員くんを減給なんてしたら、あたしの立場がないっての」
「室長。9時になりましたので、業務を開始いたします」
「あーもー」

 宮村室長は、優しい上司だ。
 私のような難物を理解し、適切な仕事を振ってくれる。

 本社で協調性に難ありと言われ、出先の事務室に飛ばされた私にも明るく接してくれる。
 何より、いつも決まった時間にいれている珈琲の香りが素晴らしい。

「うちの事務を定時に終わらせる奴なんて、これまで見たことなかったよ。隠れて仕事持ち帰ってるんじゃないかって、もっぱらの噂だぞ。私はお前がそんな男じゃないとわかってるけどな」
「ありがとうございます」

 仕事をしながら、室長は昨日見たドラマの感想や、友人の子ども自慢が鬱陶しいなんて話を振ってくる。

 この雑談も、一応はルーティンにいれるべき。
 上司のストレスを緩和するのも仕事のうちだという室長の業務命令により、私は効率を削り取られていないか不安になりながら最低限の返事だけはするようになった。

「ほれ、次は蔵野の番。なんかないの?」
「……はい?」
「片方がくっちゃべってるだけじゃ雑談とは言えないだろ。いつまでもあたしが面倒見られる訳じゃないんだ、たまには人間味も鍛えないとな。もうすぐ、指導役になるんだから」

 初耳だ。
 私に定形外の業務を任せるなど、室長もやはり完全な理解者ではなかったのか。

「ほら、いつも乗る電車の話とか」
「……地獄、と」
「え?」

「人身事故で電車が止まったとき、ここも地獄になるのか、と男が呟いていました。その男が、今日はいつもの電車に乗っていなかった」

「まあ、人身事故ってその電車に乗り合わせると結構ショックだもんねぇ。あたしも経験があるよ。その人は、知り合いだったの?」

「いいえ。ただ同じ電車にいつも乗っていただけです。……しかしそれが、昨日からずっと気になっています」

 私はどこかで、ニュースや音楽と同じくらいあの男が向かいにいることを当然にとらえていた。
 だから今日の不在に、裏切られた気がしているのだ。

「蔵野ってさ」
室長は珈琲を口に運ぶ。
「意外と、ロマンチストなのかもね」

第2話→https://note.com/ra_wa/n/ne75eed9f7ca0

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