昨日見た地獄《5》
第1話→https://note.com/ra_wa/n/n25700f8a7754
第4話→https://note.com/ra_wa/n/ndb15b0a0b6e9
「お前、また仕事早くなったな」
宮村室長は、呆れたような目で私の作成した報告書を眺めている。
「てか、逆に怖いって良く言われてたでしょ。なんで毎回毎回、ほとんど同じ文字数で纏められんのよ」
「纏めるべき情報は決まっておりますので」
データ集計や資料作成は、各種ツールを使いこなすことでその大部分を省力化できる。
個人情報を扱う以上、雑な流用は論外だが、要点さえ押さえれば無駄な時間をかける必要はない。
アナログにこだわる人間も一定数いるが、単純作業に神経をすり減らしていると、余裕がなくなり結果的に人為的なミスが増えてしまう。
忙しい自分に酔って嘆く無能が、会社に余計な光熱費と残業代を払わせることほど不毛なことはない。
「あたしも、蔵野に業務ツールの使い方を教わってから随分チェックが楽になったよ。説明資料も丁寧だし、蔵野に仕事を教わるやつは幸せもんだな」
前の部署ではそううぬぼれたこともあったが、結果は新人に逃げられて終わった。
今、私というツールを使いこなしてくれる宮村室長こそ、とても優秀な方なのだろう。
「ん? ちょっとまて、ここ」
私の資料を楽しげに見ていた室長が、眉をひそめた。
「9ページの補助金算定の内訳、去年のデータが混じってんぞ」
「な!?」
「つーか、ここから先の数字全部古い。取り込むときのフォルダ指定か、格納するファイル名ミスってない? いや、あんたのつくったチェックシート通り見てただけなんだけど」
なんということだ。
この資料を作る二時間の間、私は給料泥棒をしてしまった。
「ごめん、蔵野の仕事だからって安心しきって先に本社に送っちゃったから謝っとくわ。珍しいこともあるもんだ」
「至急、訂正版を作成します」
「急ぐな急ぐな、二次被害になるから。こういうときは一旦頭を冷やして、1日かけるつもりで丁寧にチェック」
「しかし、明日午前〆の別の業務がございまして」
いや、何を言ってるんだ。
こんなもの、当然に無給で残業だろう。
「そっちはあたしがやるから」
室長は、にこりと笑った。
「予定があるんだろ? 随分焦ってたし。蜜蜂ちゃんをまたせたら、悪いもんな」
この方には本当に頭が上がらない。
しかし、早めに誤解を解くべきだろうか。
「はい、ボーッとしないで修正に入る! またミスしたら、さすがのあたしも怒るからね!」
***
私は、いつものように18時42分の電車を待っている。
昨日との違いは、イヤホンを忘れずに持っていることだけだ。
だというのに。なぜ、あの男はいないのだ。
イライラする。これなら室長にご迷惑をお掛けしてまで、この電車に乗る必要はなかったのだ。
いや、しかし。仮に彼がいたとして、それがなんだというんだ?
蜜蜂とこのホームで話したのは、あくまで昨日だけの話だ。私のルーティンというには、彼の存在は脆弱すぎる。
ため息をつく。アルバムの音楽を聴こうと、端末をいじりはじめたとき。
「あ、蔵野さん」
少し怯えたような顔で、蜜蜂が話しかけてきた。
「おや、お疲れ様です」
私は、まるで何もなかったかのように応じた。
「蜜蜂さんも、定時退社でしたか」
「オフィスにいると、仕事が変に降ってきますから。やるべきことが残っていても、持ち帰って済ませてしまうんです」
「それはいけませんね。切り替えは大事です」
「はは。職場で、人に先に帰られるのが嫌いなんです。置いていかれるような気がして。それに、どうせ蔵野さんはこの電車にいつも乗っているんでしょう?」
「出張などが入らなければ、定時退社が私のモットーですので。出勤時間は少し早めですが、その余白は脳の起動に使っています」
「そっすか。……いえ、ちょっと伺いたいことがあったんです。蔵野さんの勤め先に、宮村 紗那江さんって人がいませんか?」
「ええ。私の敬愛する上司です」
「……蔵野さんの上司ということは、事務、ということでしょうか」
宮村室長は元々医療スタッフだったところを、自らの申出により内勤の管理職に転属した人間だ。
しかし、上司の来歴をこのような雑談で話すのも好ましくはないだろう。
私が黙っていると、蜜蜂は暗い顔でうつむいていた。
「あぁ、本当に紗那江さんは、もう現場にはいないんですね」
「話が見えませんね。宮村をご存じなんですか?」
「……紗那江さんは、おれの親に大変よくしてくれました。そして」
震える声で、蜜蜂は返した。
「彼女は、おれの最初の地獄でした」
