昨日見た地獄《23》
第1話→https://note.com/ra_wa/n/n25700f8a7754
第22話→https://note.com/ra_wa/n/n31eb1d97fad1
私には、他者の気持ちがわからない。
取り扱いに正解がないものは、取り扱いたくない。
「遊馬さん」
「はい」
「私は、職場に感情を持ち込みたくはありません」
「わかります。だからこそ、先輩は安心できます」
「あなたが私に求めているものが業務上の安心感であるならば、少しばかり提供できるかもしれません。それだけです」
「それだけで、いいんです。私も、それ以上の感情を自分で処理できていません」
遊馬は最初から、私の答えをわかっていたようだった。
「もし蔵野先輩が、これを機に私への取り扱いを変えるような人間だったら、私は幻滅していたかもしれません。これからも、ご指導よろしくお願いします」
面倒なトラブルには至らなさそうではあるが。
随分と一方的で、暴力的な宣言のように思えた。
遊馬は私でない何かを、私の声に投影している。
「それに、蔵野先輩は自分が思うより優しい方です」
「私にそんなことを言うのは、蜜蜂か、せいぜい宮村室長くらいですよ」
「自分が信頼する人に信頼されているなら、それで良いのではないでしょうか。私も、蔵野先輩にいつか信頼されたいです」
「信頼、ですか」
「親愛と言い換えたほうが良いでしょうか」
「いえ。私には、縁遠い話だと思いましたので」
「遠くても、確かにあるということですよ」
遊馬の弾んだ声は、高校時代に少しだけ交際した相手を思い出す。
彼女はそのうちに飽きて離れていき、それからはむしろ遠ざけられることになった。
「個人的には、蔵野先輩が蜜蜂さんや室長と雑談するときの声は嫌いです。普段よりも色があって、落ち着かなくなります。感情を持ち込んでいるのは、先輩の方です」
「気をつけるようにします」
「そうしてください。……いえ、冗談ですよ。そういう反応が欲しくて、意地悪をしました。ごめんなさい」
遊馬はやけに楽しそうだが、どう返せばわからない。
だが、私があの二人に特別な親密さを感じているのは確かだ。
「蔵野先輩。もし宮村室長がいなくなったら、どうしますか?」
最近よく考えることだ。私は、私なりの整理をした。
「私は事務官です。そして事務官の本懐は、業務を停滞させないことと考えています。昨日の役所と今日の役所で、処理判断を違えることは許されません。たとえ、内部がどう変わろうとも、自分の仕事を回すだけです」
「では、別の上司が来ても問題ないと。そうは思えませんけれど」
「業務としては。だが、望むなら」
ビーフシチューを口に運び、私は答える。
「まだしばらくは、昨日と同じような明日が続いてほしいと願っています」
「そうですか。その昨日には、私は含まれますか?」
「難しいところです」
「そんな」
「遊馬さんの問題ではありません。室長の様子が崩れたのは、あなたが入ってきた時期からです。私が思い描くかつての落ち着くルーティンには、あなたの指導は入っていない。しかし」
ふう、とため息をつく。
「それを言ってしまえば、蜜蜂と出会ってからの日々も含まれないことになります。そして、その判断はなぜかとても正解から遠ざかっている気がするのです」
「そうですか。なんだか、悔しいです。私は含まれないのに、蜜蜂さんが含まれるなんて」
「繰り返しますが、遊馬さんが悪いわけではありません」
「先輩。少しだけ、意地悪を言わせてもらえますか」
「なんでしょうか」
「三橋千尋という男を、あなたはどこまで知っているのでしょうか」
試すような瞳を、遊馬は向けてくる。
蜜蜂。三橋千尋。
人身事故や虫に怯える繊細な男。
デザイナーと名乗る、人当たりの良い男。
健忘症の親を抱え、宮村室長から飼い猫を奪ってしまった男。
「地獄。それが、彼の作品のテーマです。先輩の唯一の友人としては、とても不健全に思えます」
以前彼は、呪いを作品に込めていると言っていた。
それが発散方法になっているなら、別に問題ないのではないか。
「私は、一通り彼の作品を拝見しました。最近の作品は、少し凡庸に寄っています」
「そうですか。私にはわかりませんが」
「日常を描いて、地獄と名付ける。それがどれほどの歪みなのか、とても想像もつきません。……いえ、そんなことはどうでもいい。蔵野先輩が、変わらなければ構わない」
「私が、彼に影響されていると?」
「いいえ。いや、それもあるのかもしれないですが。彼はいつか、ふっと消えてしまう気がします。宮村室長のように、仕事という媒体があるのなら構いません。いつか蜜蜂さんが消えたとき、蔵野先輩はどうするのだろう、と」
宮村室長も、似たようなことを言っていた。
どうするのだろうと言われても、きっと私は変わらないだろう。
高校のときと同じように、目の前のことをやり遂げるだけだ。
『寂しい話ですね。そう思えないことが、寂しいです』。
彼に美術館で言われた言葉が、思い出される。
「妙なことを言ってしまい、失礼しました。もう、お会計にしましょうか。先輩、今日はお時間をいただきありがとうございました」
「いえ。……その」
もう、オムライスもビーフシチューも残っていない。
私には、定時退社以外の正しい別れの作法などわからないが。
時間を払った以上は、気まずさ以上の何かを得るべきなのだと思った。
「遊馬さん。最後に一つ、教えてもらえませんか」
「なんでしょうか。私にわかることであれば」
「私は外から見ていて、寂しい人間に見えるのでしょうか」
遊馬はその言葉に目を丸くし、まるで子どもを見るように微笑んだ。
「放っておけない人だなって思います。放っておいてほしそうなところが、特に」
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