昨日見た地獄《22》
第1話→https://note.com/ra_wa/n/n25700f8a7754
第21話→https://note.com/ra_wa/n/nc8858a14eb2e
「ふう」
本日10件目になる電話対応と記録をつつがなく終え、遊馬はくいと背伸びをした。
「お疲れ様です。やけに変な電話が多い日ですね。全て対応いただいて、感謝します。おかげでこちらの業務も落ち着きました」
「いえ。誰が対応しても変わらないような電話番なら、蔵野さんよりも単価の安い私が引き取るほうが効率的ですし。それに、記録だけなら時間がかかるものではありません」
速記術、とでも言うのだろうか。遊馬は電話相手の発言をリアルタイムで、おそらくはほとんどの編集なく端末に書き留めている。
要点を押さえて、などではなく、まるで録音音声を文字起こししたかのようなメモが共有フォルダには並んでいた。
「主観が入るといけませんので、そのままにしておこうかなと。不要なやり取りを削除するのは簡単ですし」
「ふむ」
冒頭に受電日時、連絡先、用件などを簡潔に追記しているので、決して冗長なだけではない。
文句があるわけではないが、主観が入るといけないというのならば一つ気になる点はある。
「相手の声色を残すのは、遊馬さんのこだわりですか?」
「はい。名前や部署だけではなく特徴が分かったほうが、折り返す時に行き違いがないですから」
それはそうなのだが、かなり詳細だ。
新入社員っぽい営業の女性だとか、疲労をごまかしきれていない中年の男性だとか、形式上仕方なく連絡してくる本庁の声の小さい人だとか、開示されたら少し面倒な特徴も含んでいる。
「お気に召さなければ、削除します」
「そうですね。必要なら、口頭で伝えたほうが良いでしょう。遊馬さんなら覚えているのでしょうし」
「わかりました」
最初からそう言われるのが前提だったかのように、遊馬は淡々とメモを編集した。
終業の時間だ。
私が端末の電源を落とすと、ちょうど電話が鳴った。
遊馬は何の迷いもなく、受話器を軽く持ち上げて落とし、ボタンで受電設定を不在に切り替えた。
「すみません。これ、時間で自動的に切り替わらないんですね」
「……緊急案件の可能性もありますが」
「勤務時間は過ぎています。もし緊急案件なら、どのみち室長なしには処理できません。そして、この時間にかかってくる連絡が面倒でないわけがありません。それより」
少し紅潮した顔で、遊馬は告げた。
「蔵野先輩。帰りに、お時間をいただきたいのですが」
✱✱✱
蜜蜂に、今日はいつもの電車に間に合わないことを告げると、『残業でない予定なら、喜ばしいことだと思います』と返ってきた。
元々こだわっているのは私の方であり、蜜蜂としてはどちらでも良いのかもしれない。
メッセージを受け取ってすぐに、彼が今日リモート勤務であったことに気づいた。私は一体、何をしているのやら。
夕飯の献立の予定が狂ったことに軽く苛立ちを感じながら、私は遊馬と洋食屋のテーブルで向かい合っている。
「時間外労働をさせてしまう分、蔵野先輩の分の代金は私がお支払いします」
「後輩に奢らせるというわけにもいきません。それで、何の用件なのでしょうか」
「……半分は、達成してしまっていまして。声をかけること自体が目的でした。正直、断られると思っていました」
「業務上のリスクを加味しました。同僚のこのような誘いを断ることから、コミュニケーションに不調をきたしたことがありますので」
とはいえ、宮村室長や蜜蜂に会う前の私なら断っていただろう。
職場の人間と業務時間外に話すのは、あまりよい思い出がない。
「ふふ」
「どうしました?」
「やっぱり、いい声です」
遊馬は相変わらず、片手をポケットに入れている。
「その。順番がぐちゃぐちゃになりますが、聞いてくれますか」
「構いませんよ。宮村室長との酒の席と比べれば、かわいいものです」
「……」
もぞもぞとポケットの手を動かしたあと、彼女は「ありがとうございます」と下を向いて笑った。
「話したいことが、たくさんありますが。まずは身近な、職場の話から。実は今日の午前中、宮村室長とオンラインでお話ししていました」
室長の戻りがやたら遅いことが気になっていたが、遊馬のケアをしていたのだとしたら納得だ。
「悩んでいることがあるなら言ってほしい、と。勝手ですよね。簡単に言えないから、悩みなんじゃないですか」
「ふむ。しかし、午後はわりと元気なふうに見えましたが」
「ええ。蔵野先輩と一緒だったので。それに、電話番とはいえ、先輩のお役に立つこともできましたし」
「前から疑問だったのですが、私は遊馬さんに特段よいことをしてきた記憶はありません」
「先輩の認識としては、そうでしょう」
ポケットに手を入れたまま、水を飲む。
彼女の頼んだオムライスが、テーブルの上に運ばれる。
「蔵野先輩には、自分以外の判断基準というのはありますか?」
「ええ。規則と、昨日の自分の行動です。あるいは、電車の時刻表でしょうか」
「ふふ。先輩らしくって、好きです」
ならば、ダイヤを乱すような食事に誘わないでほしいのだが。
「人間が行動するには、理由が必要です。だから、私はコインを理由にしていました」
「そういえば、今日来るときに言っていましたね」
「ときどき、自分を信用できなくなるんです。だから、代わりに判断してもらっています」
ときどき、というのが個人的には気に入らない。
もしそれがルールなのだとしたら、毎回実行すればいい。
「服務上、毎回というわけにはいきませんから。周りに迷惑をかけてしまいますし。周りというのも、なかなか信用なりませんけど」
何かこちらの反応を待っている様子だったが、適切な言葉も思い浮かばなかったので黙っていた。
軽い沈黙のあと、遊馬はため息をついて告げた。
「私は前の部署で、同僚にセクハラを受けました」
彼女の顔は苦しいようにも、少し笑っているようにも見えた。
「矢口主査が、そのようなことを許すとは思えません」
「ええ。あの方は鷹揚ですが、決して職業倫理にもとることを見逃しはしない。しかし、私が共に働くのは矢口さんだけではない。同僚は、表立って問題を起こす方ではなかった。お前の被害妄想だと、周りは取り合ってくれなかった。だから彼のはからいで、私は逃がしてもらったんです」
「……聞いていいのか、わかりませんが」
「何をされたのか、ですよね。ええ」
私の前にビーフシチューを置いたウェイターが立ち去るのを待ってから、遊馬は深呼吸して応えた。
「声に不快な性欲を感じました」
私には、わからない。そして、おそらくは多くの人間にとっても、それはわからない感覚だろう。
「それだけのことって、思われるでしょう。言いがかりだと。それが、普通です。普通のことです。普通でないのは、私のほうです。毎日でなければ、耐えられます。けれど、どうしてもその相手と近くでやりとりすることは避けられません。そしてそれを見る周りは、私と相手のどちらが厄介だと思うか、想像がつきますよね」
「周りがそのような反応だった理由はわかりました。しかし、それならば男の私を指導役に付ける配置はいかがなものかと」
「相手が男性だなんて、言ってませんよ」
「……なるほど。理解しました」
「理解しました、ですか。蔵野先輩らしくもない、不用意な回答ですね。あらゆる意味で、理解できるわけがありません」
「そうですね。申し訳ありません」
「いえ。冷める前に、食べましょう」
遊馬がポケットから手を取り出す。
そこで普段何をしているのかも、ようやく予想がついた。
「このことは、室長も存じ上げているのですか?」
「ええ。だから、距離を取ってくれているのでしょう。コインの話も、今日お伝えしました。珍しく真剣な様子で、ごまかせそうにありませんでしたので」
「そうですか。なにか言われましたか?」
「『仕事については蔵野もあたしもいるから心配いらない。もしそういう自分がつらいなら、ゆっくり付き合い方を考えていければいいね。知り合いの医者に伝えとくから、気が向いたらそいつにも頼ってほしい』と。なかなか予約が取れない方のようなので、助かります」
「室長の紹介なら安心ですね」
「ええ。身内割引もきくでしょうし」
どこか皮肉っぽく、かぶりを振った。
「話が大回りしてしまいましたね。なぜ、私は先輩に心を開くのか、でしたっけ」
「はい。女性と距離を置く理由は、分かりましたが。それは、私を受け入れる理由にはなりません」
「あなたの声が好きです」
雑談に混ぜるような調子で、遊馬は言った。
「嘘をつきました。今日のコインは、裏でした」
彼女の顔を見る。少し、涙ぐんでいるように見えた。
しかし、私の頭を支配しているのは、この面倒をどう正しく処理すればよいかだ。
第23話→https://note.com/ra_wa/n/n367338814c9c
