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その夜の話

    グラスを拭く手が、少しだけ止まった。

    音が一つ減ると、店の中は別の生き物みたいになる。静かになるんじゃない。呼吸が変わる。

    その夜、話の中心にいたのは“正しさ”だった。

    「才能あるのに、なんでそこにいるんやろなって思ってしまうんよ」

    そう言ったのは、誰かを責めるための声じゃなかった。むしろ、引っ張り上げようとする力に近い。熱があった。余計なお節介と呼ぶには、あまりにも真剣すぎる温度。

    向かいにいた男は、少し笑って、グラスの縁を指でなぞっただけだった。

    「それ、君の地図やろ」

    その一言で、空気がわずかに揺れた。

    地図、という言葉は便利だ。人はそれで他人の場所を測れる。でも同時に、その地図は描いた人間の限界でもある。見えている範囲しか描けないからだ。

    その横で、もう一人、ずっと黙っている人がいた。口を挟まないのは無関心じゃない。むしろ逆で、言葉にした瞬間に何かが壊れることを知っている沈黙だった。

    しばらくして、その沈黙がふと動いた。

    「昔はな」

    その声は、少しだけかすれていた。

    「子どもに言うみたいに、人にも言うてたんよ。良くなれって。上に行けって」

    笑っていた。でも、その笑いはどこか途中で折れていた。

    「でもな、ある日気づいたんよ。上に行かせることと、その人の今を聞くことは、別やって」

    誰かを変えようとする手と、ただそこに置く手は、似ているようで違う。片方は未来に向いていて、もう片方は現在に触れている。

    その違いに気づくのは、たいてい遅い。

    外では電車が通り過ぎた。音が窓を軽く押して、また離れていく。

    時間はいつも、誰かの議論とは関係なく流れている。

    「うちの一番下、就職してな」

    その言葉は、少しだけ柔らかくなった。

    「もう、教える側ちゃうねん。聞く側でええんやって、やっと思えた」

    その瞬間、さっきの“正しさ”が少しだけ形を変えた。

    正しさは、押し出す力でもあり、引く力でもある。どちらに振れるかは、その人の中にある“時間の長さ”で決まる。

    若いときは、時間が短い。だから急ぐ。変えたくなる。結果を見たくなる。

    でも、ある地点を越えると、時間は長くなる。結果よりも、途中の呼吸が気になり始める。

    そこまで来て、ようやく人は少しだけ黙れるようになる。

    グラスはまだ磨かれていた。

    でも、その手の動きはさっきよりゆっくりだった。

    まるで、拭いているのがガラスじゃなくて、自分の中の焦りそのものみたいに。



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    WhiskyCat


     
     
    大阪のバー「WhiskyCat」のマスター。 ウイスキーと バイクと、ときどき将棋。 店のトイレに置いた一枚の紙から、 この物語は始まりました。 静かな夜の出来事を書いています。

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