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第116話 「冷夏」

    今年は冷夏となり電気代は助かったが、農作物は不作で値が上がるなど、10年前の冷夏ぶりを思い出させる年となった。10年前は米の値段が上がり円高もどんどん進行した異常な夏であったが、今回も同様に円高が進行しているのは印象的である。私事においても、例年になく酷い血栓性外痔核、平たく言えば疣痔を患って仕舞い、立ったり歩いたりは勿論のこと、咳や嚔をするだけでも猛烈に痛く、兎に角もう、局部の筋肉をちょっとでも刺激すると痛いのである。偏差痔80らしいのだが、笑うと痛い。

    然しである。そんな冷夏の惨事など忘れてしまうほど強く印象に残る事件が起きて仕舞い、私の中では非常に違った意味で生涯忘れ得ぬ夏となった。
    8月の或る雨の日、仕事を終えて4階建てマンションの一室へと到達した私は、46平米バルコニー付1SDKへの道を隔てる一枚の鉄板、平たく言えば我が家の玄関の扉なのだが、それを前にして立ち尽くしていた。

    勿体ぶった言い回しで申し訳ないが、何やら臭くて茶色い液体が扉の前に撒かれているのを目の当たりにして困惑したためである。私は不審に思った。サリンか?  否々そういえば最近、失敬な訪問販売員と大揉めしたが、その腹癒せか? それとも清掃屋が昼間に塗ったワックスが未だ乾いていないのか? でも何故ここだけ乾いていないのか? 確かにワックスは臭いが、それにしてもこんな色と臭いのワックスって一体。ワニスの色に似てはいるが、はて、ワニスはそもそもタイル張りの床ではなくって木材に塗るもんではなかろうか。

    そんな疑問を残しつつも、それ程強烈な臭いでもないので、まあワックスなんだろうと無理矢理納得して部屋へと入り、シャワーで汗を流し、明日への鋭気を養おうと寛いでいると、玄関付近がどうも心做し臭い。暫くして鼻が慣れた所為なのか、臭気が拡散した所為なのか、よく分からないうちに気にはならなくなったが、「それにしても本当によく臭うワックスだなあ。朝には乾いていてくれよ」と、願いつつ私は床に就くことにした。

    ところが翌朝、あの臭いが、再び私の部屋を襲うのであった。今度はかなり新鮮で強烈な臭いである。鼻が慣れたとか、臭気が拡散したとか、よく分からないうちに気にならなくなるとか、偏差痔80だとかいったレベルでは最早ない。尋常ならざる臭いには、異常事態を想起せざるを得ず、このマンションも古いからそろそろトイレから下水が臭う時期でも来たのだろうかやれやれ引っ越しかとか、トイレから汚水が漏れていたらどうしようだとか、カレーと間違えて食べたりしないだろうかとか、色々な妄想が走馬灯のように巡り、思い切ってトイレのドアを開いてみたが、トイレに異常は見当たらない。真夏の怪とは本当によく云ったものである。

    然し、出勤時間も迫るなか悠長に妄想している場合ではなく、玄関のドアを開けて足を踏み出そうとすると、眼下に開けた視界には、何やら茶色い物体がドアに引き摺られる恰好で横たわっている。なななんだこれはー。何と吃驚することに、うんちが家のドアの前に鎮座しておるではないか。昨夜から気の所為として誤魔化していた臭いの正体とはこの物体だったのか。然し、いくら人目につかないビルの中だからといって、夜中に人の家の扉に向けて行屎送尿するなど言語道断。いくら漏れそうで我慢の限界だとはいえ、切羽詰まった子供なら兎も角も、並の神経では到底出来る事ではない。するなら屋上でしてくれ。あ、いや待て。屋上って我が家の頭上なのでそれも困る。

    玄関前の糞尿を処理していて遅刻するなど前代未聞なのでその侭放置して、私は通勤途上で色々と処理の方法を思案した。大家に清掃業者を呼んで貰う。水流によって階下に流す。器物損壊罪だから警察を呼ぶ。だが、爆弾処理班というのは聞いたことがあるが、うんち処理班というのは聞いた例がない。犯人逮捕に向けて近隣住民に聞き込み捜査を行う捜査官の姿を思い浮かべたものの、そもそも民事不介入ではなかったか。いや、でも実家では蝮が出た時に警察も来たような来なかったような、でも新聞には載った記憶が確かにある。そうこうして名案を思いつかぬ間にも、刻一刻と事態が深刻化している事は、知る由もないのであった。

    偖、勤務を終えて帰宅すると、正に修羅場である。通風経路はビルの入口のみという構造を勘案すると、冷夏とはいえ昼間の熱で熟成されて一層臭いを増した強烈な臭気の中を、偏差痔80で息を止めて一気に四階まで駆け上がり開錠して入室するのは如何な金メダリストと雖も、困難な行為である。ちょっとばかり干涸びたその物体から放出される臭気は当に史上最強、今朝の臭さを大幅に更新する臭さである。岩崎恭子が金メダルを獲得して発したあの言葉「今まで生きて来た中で一番幸せ」に倣うならば、「今まで生きて来た中で一番臭い」のであり、序でに絶叫するなら偏差痔80も、今まで生きて来た中で一番大きくて痛いのである。いやほんと。

    大家にこの惨状を涙目で訴えると、どうやら近隣住民によって餌付けされた野良猫の仕業らしく、なるほど昨夜の茶色の液体はマーキングと考えれば至極釈然とする。親切な大家は糞尿の処理をしてくれ一件落着を見たが、私は怒り心頭なので、最後にどうしても言いたい。野良猫に餌付けなんかするんじゃねえよ。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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