第115話 「検便」
新薬の開発、医療技術の進歩、国民の健康意識の向上などにより、昨今の厚生事情は興盛であると言えるが、暗部に焦点を当てると、医療ミスやら、新旧伝染病の出現と復活やら、本人三割負担やらで、随分と物騒になって来たとも言え、一層の注意が必要である。
医療ミスと言えば、私にも思い当たる節が幾つかある。16歳の時に、下手な町医者の所為で肺炎を只の風邪と誤診され、湿性肋膜炎を患って入院した経験があるし、23歳の時には、削って埋めてしまえば一生安泰だと思って早期治療した齲歯が、半年もせぬ内に中身から侵食していて吃驚した経験もある。また、幼少の砌には転落事故で入院し、おねしょをして濡れたパンツをベッドの下に隠したまま退院して来て仕舞った例もあり、今でもそのパンツがあるのかと思うと不安になって夜も眠れないのである。本当に医療ミスとは恐ろしい。
そんな医療ミスを避けるには、しつこい検査が欠かせないであろう。科学論文でもそうだが、検算に次ぐ検算を重ね、誤りなき様にせねば信用失墜を招いてしまう。度重なる検査をすればバッチリ、と言いたいところだが、現実には予想だにしなかった結果を招く事もあり、かなり焦る場合がある。私が体験したしつこい検査と言えば、デンマーク時代の事例が挙げられる。或晩、かなり激しく酒を摂取して眠ったところ、明け方にげろげろになって憔悴したのは勿論、朝の目覚め一番の小水の色がどうも濃い。黒ビールが消化されずにその侭出て来ちゃってるのかなあ、とも思ったが、朝食後も色が変なので慌てて医者に電話を入れ、午後の診察と相成り御膳は立てられた。因みに医師は国家公務員であり、地区の担当医が決められており、予約制で而も全額無料である。
偖、診療所へ出向いて問診と採血検査を受け、投薬処方であっさり終了かと思いきや、詳しい検査は専門医が行うので其処へ行けという事になった。二日後、指定の医院に出向きレントゲン検査と腹部超音波検査を受けたが、何ら異常は見当たらない。胸を撫で下ろしていると、今度は一週間後に大学病院で検査の旨が告げられる。もう治ってるし一体何をするのか。まあ只だからいいんだけども、と訝しく思いつつ指定の日時に大学病院へ行くと、尿道からカメラを挿入するのだと説明される。おいおいそんなに悪いのかよ、と思って検査を受けるも、結果を告げる医師の言葉は「どこも悪くない。ううむ、不思議だ」って、十日も経てばもう治ってるのだが。
これ位にしつこく検査すれば医療ミスは無くなるのかも知れないが、執念深さではドイツの医師も敗けてはいない。時に私のドイツ時代の上司兼身元保障人のミヒャエルは本当にそそっかしい反面、事態悪化による余計な面倒は抱え込みたくない慎重派である。鉄の人間とか超人とか変人とか早く帰って欲しい嫌な上司とか緑皮さんは昼御飯食べてるのとか様々な異名を持つ私でも、偶には怠けたい時があるもので「ちょっと腹が痛い」とか言おうものなら、ミヒャエルは直様「大丈夫か? 近くに英語を話す医者がいるから直ぐに診て貰い給え」と畳み掛けて来る。併し本当はちょっと怠けたいだけの私は「休んでれば治るから」と断って、己のオフィスに戻り倉庫番なんぞをやって惚けていると、電話が鳴って「今、予約をした。学生に案内させるから支度しろ」と言うではないか。おいおい。
仕方がないので診療所に行き、医師に「風邪を引いたらしく、ちょっと腹が痛い」と告げると、既往歴やら「何か古いものでも食べたか」とか訊いて来る。適当に答えて触診と尿検査を終え、愈愈薬の処方かな、と思っていると、何と吃驚することに検便をすると言うではないか。う、ちょっと待ってよ。そこまでする必要なんかないんだってば。何か無難な鎮痛剤で手打ちにする術を持ってないのかこの若僧、と思いつつ「今出ないっす」と言うと、「検査しなければ薬は出せない。明日でいいから採取して持って来なさい。薬はそれからだ」と言う。「ええー、そんなー」と心で泣きつつ、薬の代わりに検便キットを無理矢理持たされて、とぼとぼと家路を辿る羽目となったのである。家に帰って怠けるという目的は達成できたものの、思わぬ土産を持たされて、謙虚に涙目で仰いだ空が懐かしい。嗚呼。
征露丸で治る程の軽い腹痛で流石に検便はなかろう若僧め、と虚心坦懐にしかとを決め込み半年後、又もや同じ診療所の厄介になる機会が到来した。今度は自発的に診て貰うので前回とは勝手が違う。或る公募へ応募する為に、所定様式による健康診断書の提出が必要なのである。と言っても、身長、体重、視力を記入し「応募者は健康です」と記されたチェック欄に印を入れ、署名捺印するだけの代物なので至極簡単、私は駅前留学ノープロブレムの農婆である。
半年間しかとを決め込んだ間の悪さもあったが、熱りも冷めた頃だし、抑抑治療に行く訳でもないし、何人か医師がいる診療所なので同じ医師に当たることもあるまい。高を括って予約を入れて診療所へ出向くと、案の定、前とは違う医師が現れ、暫し待たされた後に、身長、体重、視力を計測し、問診が始まった。ようし、この調子で行ってくれ。あとは「応募者は健康です」欄にチェックを入れるだけである。
すると突如、何やら医師が交替し、徐に試験管を取り出して言うではないか。
「検査をしなければ診断書は出せないね」
「は? 検査ってさっき済んだじゃないですか」
「君、検便、未だだったよね」
「ちょ、ちょっと勘弁して下さいよ。一体何時の話ですか。この用紙に署名捺印してくれりゃいいんだってば」
医師は不機嫌な顔で「あ、そう」と言い、渋々と署名捺印し最後にこう言った。
「来週でいいから検便、持って来いよ」
あんた執念いよ。