第97話 「賢坊術数」
私には大学入試のみならず、大学院試においても失敗談がある。例によって封建的家内制手工業の構成員であった私は、土日祝祭日や長期休暇の間は、殆んど学問に勤しむ時間などなかったのであるが、大学の長期休暇は高校よりも長いのではっきり言って地獄であった。一日中を外気の中で過ごさねばならないので春先は花粉との奮闘でもあり、工業高校へ進学したので幹部候補生と目されて封建的家内制手工業からは免除されて自由を謳歌していた弟を羨んだり、全国の同期生諸君は夏休みに北海道の浜辺で婦女子とキャンプをして「俺の空」の世界を繰り広げているのかちくしょうと歎く事がよくあった。いや、婦は違うか。
それでも全く勉強する時間が与えられなかったかと言うとそうでもなく、普通自動車免許を取得するための勉強とか、保険代理店の資格試験とか、クラウンのタイヤは 195/65 でアルトは 155/55 だとかの業務上の必須知識は強制的に暗記させられたし、クラッチ板の取り替えやらクーラーの取り付け作業やらの機械工学の演習実験もあって、宛ら自動車短期大学へ通っているかの如き有り樣であった。ジャッキ・アップした車体の下に潜りこんで作業いや演習をしていると補助台の馬が外れて下敷になって「このまま合コンも体験せずに自分は死ぬのだろうか嗚呼」と、夢で思った事もある。
そうはいっても平日の空き駒を利用したり、土曜日は実験だと偽ったりソフトボールの練習をしたりして勉強していたから、学科一優秀な者には及ばないものの、全く勉強しない者よりはちょっとだけ成績は良かった。封建的家内制手工業の合間を縫ってなんとか為し遂げた夏休みの宿題であっても、学友から「いやあ、緑皮は優秀だから。こんな問題、普通解けんって」と煽てられて見せてくれと頼まれると、満更捨てたものでもないなあと思って快諾すると、他人の解答を搔き集めて提出した其奴の判定が A で私は B だったりして頭を抱えたこともあったが、苦労していようといまいと正答できる者だけが評価されるのが実力主義である。処世は上手な方がいい。
処世といえば、駄目人間の世渡り上手という文句があるが、私が真っ先に想起する駄目人間は誰かというと、同期生のノリグチと云う奴である。此奴はとても大らかでいつもヘラヘラしていて莫迦そうでいい奴なのであるが、出欠チェックのある講義や実験以外は、全然出てこなくって試験期だけ姿を現しては、難しすぎて降参と見るや試験も抛棄するような奴で、普段は徹マンに明け暮れるという典型的な駄目学生であった。駄目人間といえば
「ダ、ダ、ダメ人間、朝は寝床でグーグーグー」
と云うゲゲゲの鬼太郎の替え歌が昔からあるが、それを捩って、
「ノ、ノ、ノリグチは
今日も寝床でグーグーグー
楽しいな、楽しいな、ノリグチにゃ学校も試験もなんにもない!
ほんま、ノリグチは駄目人間じゃー。ノリグチのためにある歌じゃのう。
あははは」
とか、
「なんでノリグチが卒業できるんじゃあ。信じられん」
とか、皆から散散に言われた挙げ句に、
「わしも留年する思うとったわ。いやー、ラッキーじゃったあ。へへへ」
と、相変わらずヘラヘラしていたのが印象的である。私も最後の学期で教官を拝み倒して単位を奪取した口なので人のことは強く言えない。
だが、今ではノリグチも平和な家庭を築いて、私より稼ぎも多く立派にやっているのであり、逆にこの齡になっても猶、定職に就くことができずに B 定食ばかり食べていて手に職もつけずに、曾てのノリグチとあんまり違わない樣な生活をしている自分は一体なんなのか。これこそ駄目人間と言わずして何と言おうか。早く人間になりたーい。否、早く一人前になりたいであった。
話が思いっきり逸れてしまったが、そんなこんなで四年生にもなると研究室に配属され、受験勉強やら就職活動が始まる。流石に封建的家内制手工業に従事している余裕はない訳だが、院試は夏休み期間中に実施されるので、今更、封建的家内制手工業を免除されても遅いのであって、「いやあ、緑皮は優秀だから。外部でも受かるじゃろ」と、さっきとおんなじ奴からおんなじ文句で他大学を受験するように嗾され、よせばいいのに幾つか受験して廻った私は自分の研究室とは全くの畑違いの工学系大学院にしか合格できなくって、其奴はちゃっかり我らの研究室に合格しているのであった。嗚呼。
それだけなら兎も角、当時つき合いのあった女性から「夢を追うべきだ」とか嗾されて翌年に再受験して出身研究室に戻るという暴挙に出るわ、どうせなら業界を牛耳っている某大を受けとくんだったとか、某大出身でありながらで熟慮決断私と同じく長年の下積みに耐えている N 君からも「工学部だったら順調に就職できたのに勿体無い」と言われて、「いや全く其の通り」と共鳴したり、今思えば色々後悔する事をこうして公開するのも如何なものかと思う訳で、矢張り、己の人生は己で熟慮決断した方がいいと思うのである。
因みに、私を嗾したちゃっかり君は其の後、「過疎地で開業医になってウィンド・サーフィン三昧の生活をする」という言葉を残して大学院を去ることとなり、「そ、そんなあ」とも思ったが、よく考えてみれば彼は何も悪い事はしておらず世間では狡猾ともいうが、未だに浅学菲才な私にしてみれば寧ろ親炙するところ大なのである。その学友の渾名は賢坊。
今日も何処かでデビルマン…。いやいや屹度うまくやっているに違いない。
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