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第118話 「宇宙目」

    数千年前には色々な宇宙観があった。古代バビロニアでは巨大な丸天井に星が張付いているだとか、古代エジフトでは星は女神ヌートの体から糸で吊されたアクセサリーであるとか、古代インドでは巨大な象の上にお盆が載っていて端から海水が流れ落ちているだとか、現代の我々から見れば現実離れしたものであった。

    これが2500年前くらいになるとかなり進歩して、万物の起源と広大な宇宙という二つの相反する概念を密接に結び付けて考える古代ギリシャ哲学が登場する。例えば、タレスは「万物の起源は水」であるとし、オケアノスという大洋に大地である円盤が浮かび、灼熱の水蒸気で構成される星が天井の水空を航行していると考えた。ピタゴラスは「万物は数」であるとし、点、線、面、立体を表す各々の次元数、一、二、三、四が宇宙の全てであり、それらの和である十を崇拝せよというものであった。じゃあ水や火も数なのかと言いたくなるような無茶な理屈ではある。

    意外なことに現代においても、学識を得ているにも拘らず割と無茶な宇宙観を持った男がいる。それも私の職場にである。彼に古代宇宙について尋ねると、
    「ああ。それなら高校の頃に習いましたよ。天球に小っちゃな穴がいっぱい空いてて、そこから光が射し込むのとかありましたねえ」
    「それってプラネタリウムだろ」
    「あ、違ったか。じゃあ、あと、地球を抱えてる人とか」
    「それはギリシャ神話のアトラスだろ」
    「え、アトラスって足の早い人でしたよね」
    「それはアキレスだろ」

    丸で漫才の様な遣り取りではあるが、本人は至って真面目であり、この類い稀れな天然惚けと穏やかな口振りは、彼の最大の特徴である。更に顕著な性癖として、遠くを見る様な目でぼーっとしていることが屡屡である点が挙げられる。その目付きがどこか宇宙の果てを見ている風なので、その名も「宇宙目」君と渾名されている。

    宇宙目の専攻は数学なのであるが、その世界観はピタゴラスに敗けず劣らず独特である。彼の上司との遣り取りを傍らで盗み聴きするに曰く、
    「どうも最近おかしいんですよ」
    (お前いつもおかしいやんけ)
    「そうかい?悪い所があるのなら無理に仕事をせずに、きちんと医者に診て貰った方がいいよ。で、どこがどうおかしいの?」
    「最近流行りの睡眠時むきょきゅー、んご、無呼吸症候群じゃないかと思うんですけど、明日、予約を入れときました」
    (おい。随分手回しが早いじゃないか)
    「え、君、全然そんな風に見えないけど。SAS と言えば、僕の友達なんかこーんなに太ってて100キロあるんだけど、酸素マスク付けて寝てるんだって」
    「いえ、ネットで色々調べたんですけど、太ってなくてもなる分もあるんですよ」
    (おいおい本当かよ)

    そりゃまあ、確かに説明会やセミナーの最中に彼がうとうとするのはお約束だが、作業中に眠っているところなど今まで目撃した例がない。確かに私もOHPの光には弱いし、あれはどこか人を眠らせる魔力があると思う。なにせ講演者の真正面に座っていても眠くなるのだから、あれはいけない。私は学生時代に催眠光線だと主張した事もあるのだが、指導教官からは集中力が無いと無碍に却下されたものである。だからといって、自分が SAS(睡眠時無呼吸症候群)だとは思わないし、未だに催眠光線だと思うし、それって矢っ張り居眠りだろと言われても反論は出来ないのである。

    「そうかい。まあ心配なら検査を受けておいた方がいいね。君、疲れ気味じゃないの?毎晩何時間寝てるんだい」
    「六時間です」
    「…」

    待望の検査結果は、只の睡眠不足と出たらしく、一月後、またもや上司に対して宇宙目曰く、
    「最近おかしいんですよ」
    (またかい)
    「で、今度はどこがおかしいんだい?」
    「忘れっぽいというか、どうも…頭が回らないんですよ。明日、精神科に行くので休ませて下さい」
    「そうかい。君も大変だねえ。大丈夫?」

    直前申告も然ること乍ら、どうせまた睡眠不足だろうと高を括っていると、「鬱状態。残業せずに一日八時間以内に留めること」と、書かれた診断書が提出され、我々一同は固唾を呑んで成行きを見守ることとなった。

    鬱病は仕事の能く出来る真面目な責任者タイプが罹り易いと聞くが、一番下端の宇宙目は、仕事が全く出来ない駄目社員であり、優秀な責任者タイプとは程遠い。中学生でも出来るちょっとした雑務にも、常人の何倍もの時間が掛かる程に駄目駄目振りは徹底しているというのに、如何せん、彼は学識を弁えている筈の博士である。これで残業せずに一日八時間以内に留めよというのは、一体どういう事なのであろうか。我々は一斉に頭を抱えた。私は今まで自分の事を熟熟バカセだと思っていたが、これを契機に意を改めねばならないのはとても残念である。

    扨、金科玉条の診断書を持ち込んだ宇宙目は、翌日から態度を一変させた。何と喫驚することに、毎朝十時の出社早々に、コンビニ弁当を食べ始め、ネットサーフィンに励んでおるではないか。最初は病気だから止む無しとの温情も、三週間も経てば立派に猜疑心へと遷移するものである。退社時間は改善され正に悠々自適であったろうに、業を煮やした私は一体全体何事かと就寝時間を尋ねると、
    「一時です」
    「じゃあ何時に起きてるの」
    「九時です」
    「通勤時間ぎりぎりじゃないか。退社後は何してるのかね」
    「…」
    「何してんだよ」
    「…」
    「あ?」
    「…」
    と、頭の上にお盆を載せて古代インド宇宙の巨象宜しく上から水を流してやろうかと思うくらいに長い間を経て、やっと出た一言は
    「パチンコです」
    である。

    矢っ張り鬱病じゃないと思う。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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