第135話 「油断大敵」
前回、初めての海外旅行を回想したついでに、今回は海外生活についての問題点を考えてみたい。旅行と生活とでは問題の性質が全く異なってくるので、この似て非なる微妙な違いをしっかりと認識しておきたいところである。どっちも似たようなもので同一だと言うのは何処のドイツだと言いたくもなるが、一番の問題はやはり言葉の壁の不自由さ。平凡なれどいつ何時襲ってくるやも知れぬ、全くもって侮り難い問題である。矢張り馴染みのない言葉は頭に入り悪いもので、地下鉄の駅名なんぞ珍紛漢紛だしアナウンスも聴き取り難いし、乗り方もよく分からないし、一体何処へ連れて行かれるのやら途轍もなく不安だし、周りを見渡せばドイツもこいつも額が広くて眉から直角に目が窪んだゲルマン系の強面ばかりだしで、全くヘレンケラーの三重苦、四面楚歌のプレッシャーもいいとこで、緊張モードいつも全開なのである。(5)
最初の事例はドイツの地下鉄である。迂闊にも切符の有効ゾーンを越えて乗車して仕舞ったため、検札官に呼び止められ罰金を求められるというものであった。ゼンジー北京ばりに「ミー、外国人あるよ。よく分からないね」と誤魔化してみても駄目っぽかったので、「え、ここはA駅から3つめの駅だからまだゾーン内ですよね。え、4つめですか。信じられない。ink ready ball」と惚けてやっとのことで見逃して貰い難を逃れた始末である。あんまりしつこかったので不慣れな外国人の摘発に精を出すより現地の常習犯を狙えよとも思ったが、轍を踏まないように対策を講じるところが日本人。今度は、親切な現地の若い女性に乗車券の購入を手伝って貰い、今度こそ間違いはなかろう検札官どーんと来いおらおらと大きく構えた場合に限って検察官は来ないものである。無事帰宅できたので次回に備えておさらいにと切符の単語を辞書で調べてみれば、実は半額の子供券だったりして。道理でなんだか安いと思ったよ。(1)
この手の問題は、窓口販売のような当局との対面交渉をする場合には回避される筈だから、直に交渉が可能なバスなら問題は起こり難い筈である。そこで次の事例は、ドイツのバスである。古城巡りをした際にバスの降車地がよく分からなかったので、運転手に目的地を告げて訊ねてみると「ああ、いーだに。着いたら教えてやるだに」と言われたので安心モード全開でいたら、いつの間にか運転手はすっかり忘れているし「おっさん、居眠りでもしとったんちゃうか」と突っ込もうにも言葉の壁が立ちはだかる。コミュニケーション術には言葉の加減というものがあり、直接的な言葉で口論になっては洒落にならないし、ここは円滑に呑みにケーションでといっても運転手に酒は勧められない。「さっき降りただと思っただにー」と言っているようにも聞こえるが、恥ずかしいので知らない人の振りしてそそくさと降車しても、たった一人しかいないアジア系の乗客は必然的に脚光を浴びるのであった。恥ずかしいじゃないか。(1)
ところでドイツで生活している場合、国外に旅行すると矢張り海外旅行と呼ぶのかどうか物議を醸すところである。休暇をとってイタリア旅行と洒落こんだところで、所詮は陸続きの旅である。ちょっと醒めた気分に加え、日頃から言葉の壁に慣れてしまっているため多少のことには物怖じしない訳だが、逆に言えば警戒感が全くなくなってしまっている。馴染みのない言葉は頭に入らないのは当たり前、駅名もアナウンスも乗り方もなんのその、何処へでも連れて行けと、周りを見渡せどいつもの額が広くて眉から直角に目が窪んで頭髪の薄いゲルマン系ばかりだしで、全くプレッシャーなんぞどこ吹く風の緊張ゆるゆるモード偽りなしもいいとこである。(3)
そこで第三の事例はローマの休日。生活にも慣れ、言葉の壁を乗り越えた後に訪れ勝ちな落とし穴ともいうべき事例である。ローマでは白昼堂々と懐や鞄に手を突っ込んでくる子供に何度も出くわし面食らったが、そんな嫌な気分を吹き飛ばそうと夜の街に繰り出せば、人懐こい笑顔の中年男が道に迷ったと地図を片手に声を掛けてくるではないか。退屈凌ぎに話し相手になってやると、スペインからビジネスで来たのだが食事でも一緒にどうだということで意気投合。丁度いつもの店に行くとこだと言う。しかし辿り着いた店は半地下のバー。まあ、夏だしビールで一杯も悪くない。ビールの二三杯も飲んで退散すればよかろうと思ったのが甘かった。(1)
頼んだビールは中々来ず、頼みもしないホステスが纏わりつき、勘定を頼んでも中々来ず、たったの二杯を飲み勘定書を貰うまでに2時間はかかったろうか。漸く届いた勘定は10万円。がーん。頭の中はグルグル動顛状態で、男に騙されたと思ったが諦めてサインして帰ろうとすると、ホステスが「最後にジェラートが出るから待って。勘定込みだから安心して」と言う。10万円も払ったのだから食わなきゃ損だと思い憮然として居残ると、これまたジェラートが出てくる迄に1時間くらいが経過。するとまた10万円の勘定書が渡されるではないか。へ??この居残り中にホステスが飲んだ物の代金だという。あーれー。勘定済みじゃなかったのかよ。締めて20万円也。最後は店の車でホテルまで送って貰ったが、彼らに悪びれた様子はなく、どうやら金に不自由しない客層相手の店だったらしい。道理でホステスを裸にして喜んでいる下品なアジア系団体客もいた訳だ。だが金に不自由か否かの問題は別として、私にとって20万円分の価値があったかどうかは甚だ疑問である。(0)
ドイツから引き揚げの時、立替払いであった光熱費を家主と清算する際に、家主から言われた言葉を今でも思い出す。
「随分と節約されて、奥様も大層お喜びでしょう」
油断大敵。何事も初心を忘れずに適度の緊張感をもって当たることが肝腎である。(1)
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