第134話 「二度と行かない町」
昨今はデフレ脱却とやらで海外旅行も好調らしいが、想い起こせば私の初めての海外旅行はとんでもないものであった。無難に英語の通じる国としてシンガポールを選んだのだが、南国の素晴らしい観光地のイメージとは裏腹に、申し訳ないが二度と行くかと思った次第である。
シンガポールの名誉のために、二度と行くかと思うに至った経緯をきちんと説明しなければならないのだが、何しろ12年も前のことだし二度と行くかと思って心の底に封印しておいた悍ましい記憶を呼覚ますのは容易なことではない。手帳の記録を頼りになるべく忠実な再現を試みるが、事実と異なる部分は雑把に雰囲気を掴んで頂ければ幸いである。貧乏で余り金もなく本来の目的地までの途中降機を利用しての超短期滞在だったため、慌しく時間だけが只管に過ぎ去って行く辛気臭さの漂う旅であったことは確かである。
では一体どんな旅だったのかというと、先ずはスケジュールから明かせば、シンガポール市内、インドネシアのバタム島セクパン、マレーシアのジョホールバルの各要所だけを優雅に二泊三日で足早に巡るという計画であった。足早にというのは、本来の目的地からの帰国時にも同じく途中降機を利用すればもう一度来ることができるので、次回は的を絞って本格的に観光するという狙いを秘め、今回は下見程度に広く浅く流すという意図からである。一度訪れた地で楽しく過ごすことができれば、普通はもう一度行きたいと思うのが人情であるから、二度に分けるのは強ち悪い判断でもない。二度手間ではあるが、何しろ独りで国外に出るのは初めてであるし、本来の目的地で円滑に行動するための予行演習にもなるし、回り諄くても経験値を稼いで確実にステップアップしていく一石二鳥の算段は、確かに見事と言うほかあるまい。
だが、ここからがいけない。見事な計画の割に結果は惨憺たるもので、初めての海外旅行なんて大体こんなものだし10年後には忘れているさと強引に納得してはみたものの、まさか雑文ネタにするほど落ちぶれるとまでは思ってもみなかった。
まず到着日。空港からタクシーでホテルまで直行し16ドル。チェックインでポーターに2ドルを支払って順調な滑り出しである。既に夕刻なので腹拵えしたいところだが、先ずはホテル周辺の地理を掴んでおこうと地図を見ながら散策するともう真っ暗。初めての旅行でホテル街の高そうに見えるレストランに独りで入る程の金は持ってないので、大人しくホテルに退却する。然し、密かな楽しみとして、未だ一度も経験したことがなかったルームサービスというものを是非この機会に頼んでみたいと企んでいたので、別に寂しい思いをした訳でもない。炒飯を頼みチップ込みで10ドルを支払い、序でに冷蔵庫にあった青島麦酒も頂き、テレビでクイズ番組を観賞しながら空旅の疲れを癒す。初日の出費は当時のレートで合計1916円。二千円足らずでこれだけのパフォーマンスが出せたのだから十分に満足である。今思えば、翌朝さっさと出立するビジネス旅行だったならば、二度と行くかとは思わなかったかもしれない快適さであった。
翌日。午前中にワールド・トレード・センターへ行き、午後は高速バスでジョホールバルへと向かう。ジョホールバルは、最近ではワールドカップ最終予選の日本対イラン戦で老若男女の知るところなったが、それ以前から気軽にバスで日帰り旅行できるマレーシアとの国境の町として知られ、シンガポール旅行なのにマレーシアにも行けるとあって貧乏人には一粒で二度おいしい的な目的地である。と、ここまでは良かった。
到着するや否や、どうも軟調な便意が襲ってきて、アジアのリーダーG7の構成国たる国家の一員が、外国までやって来て野糞というのも感心しないのでホテルを探してトイレを借りることにした。既の事で漏れるところだったが、間一髪でホテルを発見。トイレ借用を哀願し、顎で示される方向へとダッシュする。なんともぞんざいな態度だなと一瞬だけ思いつつもそんなことを気にする余裕もない。何しろ007危機一発ではないが、間一発で発射しそうな勢いで便意は最高潮なのだ。だが、次の瞬間、愕然とする。トイレットペーパーがない。代わりに柄杓とちっちゃなバケツを発見。しかも便座がない。そして吃驚することに、ゴキブリがうじゃうじゃ這っているではないか。うへぇー。咄嗟に出る言葉もなく、便意も急速に減退し、錯乱状態になりながら礼も言わずに逃げ出したのは言うまでもない。
綺麗なトイレを探し求める余裕もなく、決死の思いでシンガポールまで戻り、便意関数も再び最高潮に達するなか20セント払って駅のトイレで用を足すのであった。あー、スッキリ。スッキリしたのはいいが、結局何もせずに戻ってくる羽目になったのは痛い。昨晩食べた炒飯の油が原因なのか。こんな落ちでいいのか。折角の旅なのに腹下しで一日を台無しにするのは勿体ない。翌日に備えて無難にケンタッキーで5ドルのチープな食事で一日を終えることにした。
到着日翌々日にして、最終日午前。昨日手配しておいたセクパン行きの高速船で45分、バタム島に到着。これから綺麗なビーチを散策し南国リゾート気分を味わうぞという矢先、またもや便意を催すではないか。船着場のトイレに駆け込めば、どうも昨日と全く同じタイプ同じ状況であり、げんなりして隣の建物にある旅行代理店に助けを求めるが、野人を見るような目で船着場のトイレへ行けと言うばかり。がーん、なんだそれは。綺麗なビーチで野糞でもしろと言うのか。助けて神様。
昨日よりは事態が緊迫しており、最早綺麗なトイレを探し求める余裕はない。は、そうだ。高速船ならば屹度トイレがある。早速通関手続きを済ませ、今乗ってきたばかりの高速船に蜻蛉返りで乗船し、一目散にトイレを目指すが扉にはアウト・オブ・オーダーの張り紙が。がーん。そんな殺生な。決死の思いでシンガポールまで只管耐えて、便意関数も最高潮に達するなか半漏らしになってワールド・トレード・センターのトイレで用を足すのであった。あースッキリ。スッキリしたのはいいが、結局何もせずに戻ってくる羽目になったのは痛い。昨日のケンタッキーの油が駄目だったのか。
午後はもう嫌になったのでマーライオンも見ずに、さっさとロッカーの荷物を回収し、タクシーで空港に向かい、搭乗までの時間をカフェテリアで過ごし、本来の目的地へと旅発つのであった。結局何をしに行ったのか心底よく分からない旅であったが、唯一つ言えることがある。シンガポールのトイレは綺麗である。
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