第136話 「缶詰生活」
最近世間ではメタボリックだの内臓脂肪だのと騒がれているが、私も以前から油物を摂らないように注意してきた割にはコレステロールが正常値を上回るようになり、今では野菜や果物が食べたくて堪らないという体になってしまった。ここ数年の食生活が原因なのか、過去の暴飲暴食の頃の食生活が原因なのか、どっちもなのかはよくわからないが、ここ数年だと言うと横からフライパンが飛んできそうなのできっとそれ以前の外国生活に問題があったのだと思う。アメリカで毎日ステーキばかり食べていたら太ってしまったとか狂牛病になってしまったとかいう新聞記事を読んだこともあるし。ないない。
それで初めての在外生活を披露しようと思うが、当時は野菜や果物を食べる習慣もなく、麺類やパンを食べると胃もたれや腹痛を起こすという体質もあって、主に米を食べる必要があった。だが大都会ミュンヘンとはいえスーパーマーケットでは、どこを探しても米は狭いエリアに地味に置いてあるため見つけるのに苦労するし、手に入るのは長粒米だし、アジア食専門店をみつけても何だか寂れていて怪しげに見えるし、高くてぼったくられそうだしで、かなり不安な食生活を余儀なくされたものである。
とはいえ背に腹は代えられぬ。遠い親戚より近くの他人。長粒米だってきっと取柄がある。だが問題は沢山ある。パスタに比べて高価であり、実際には安いパスタを主軸にメニューを組み立てざるを得ないのだが、弱腸の私は茹でたパスタだけを食べるのはご法度である。そして、パスタと長粒米の両方に合うメインディッシュとはこれ如何に。個性の強烈な餃子やカレーなどあれば問題はないが、そんなものを簡単に調達できるほど初めての海外単身生活は甘くはない。何しろ初めての海外単身生活にして、初めての長粒米。ふりかけも茶漬けもなめ茸も梅干も味噌も醤油も味醂も出しもなく、ワインと塩と胡椒とグラニュー糖だけで一体どう調理しろというのだ。あう。
そこで苦悩の末に考案された主食が、パスタと長粒米の混合炊き。塩味が効いて案外いけるぞこれはいい、と思えるのも最初のうち。錯覚だと思い知るまで然程長い日数を要しないのが難点である。矢張りなんとしても強烈な副食の存在が望まれる。だが、肉や魚を一体どうやって調理したらいいのかさっぱり分からず、牛だの豚だの鹿だの鶏だの七面鳥だのと色々種類や品種や部位だのとあって非常に厄介な上、量り売りのため何をどう注文すればよいのかもさっぱりわからない。そこで手っ取り早いのが腸詰ソーセージ。ミートホープ並みの怪しさ満点で得体の知れない肉を買い、不慣れな調理で闇鍋を突くようなリスクをとるよりも、手軽で分かり易いソーセージは非常に心地よい。加工肉の方が余計怪しいだろという声は無視して、あとは目玉焼きでもあれば副食も完璧。パスタ長粒米も主食としての確固たる地位を得て威厳さえ放つではないか。これ以上の料理なんぞもう面倒臭くて肉のことで悩むのもばかばかしい。
だが、いくらソーセージでも流石に毎日は限界がある。そこで重宝するのが、冷凍食品、缶詰、瓶詰めと色々な形態をとる保存食品である。ミックスベジタブル、カーネルコーン、ロールキャベツ、ビーフシチュー、冷凍調理魚に、冷凍ピラフ、冷凍ピザ。栄冠のパスタ長粒米も主食の座を脅かされるラインナップである。一目瞭然にして美味しさを訴えてくるパッケージの絵は購買意欲をそそり、言葉の壁もなんのそのである。スーパーでの品定めは実に楽しい。しかし難点はというと、他にも瓶入りの果実ジュースやら缶ビールなどを買い込めば、殆ど瓶や缶だらけとなって帰る足が重いことである。果たしてこれを本当に自炊と呼んでいいのか大いに疑問を呈するところではあるが、一応外食するより安いので面目は保たれていよう。
こうして土曜日の午前に一週間分の買い物を済ませ、週末は家に篭って瓶詰類や缶詰類を友にしてビール片手にテレビを観ながら怠惰に過ごすという黄金パターンが定着し、お陰でお腹は出放題。横には太らないが前には太るという迷惑な現象のお陰で、どんなに食べても自分は太らない体質だと勘違いしていたのだから、今になって思えば全くおめでたい限りである。貧乏人根性の沁みついた身には、古アパートの部屋中にカチャリカチャリと鳴り響くガスメータは強烈なプレッシャーであり、冷凍食品や缶詰類をフル活用して調理時間の削減を余儀なくされたのも一因ではあったのだが、何しろ寒いので脂肪を纏って体温維持に努める必要もあったことはこの機会に主張しておきたい。毛布一枚で本当に寒かったのだよ。そろそろそのフライパンを片付けてはどうかね。
さて結末編。ようやっと春を迎える頃に来て、もっと寒い北方の国での働き口が決まって仕舞い、私はビザ取得を口実に暖かい本国へ帰還することにした。これからやっと開放的な観光シーズン入りであり、慣れ親しんだ黄金パターンも名残惜しくはあるが、私は何より温もりが欲しい。ダッシュで脱出したい。ダッシュ・ツーは火の化身。侵掠すること火の如くとっとと帰りたい。という訳で遣り掛けの仕事は全て中断、退去日も一箇月前倒にして引越し作業に専念し、逃げるように古アパートから出てきたのはここだけの秘密である。
家具付きアパートだったので手荷物一つの軽便さもあって、慌しいスケジュールも難なくこなせたのだが、大量に買い漁った食品備蓄の処分を失念。退去日には電気の契約も切れたろうから、冷蔵庫に置き去りにされた大量の食品の末路は想像でさえ恐ろしい。合掌。
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