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第137話 「ドアの向こうに」

    ◯◯は、机の引出しの奥に忘れていたものだった。それはもう五年も前のこと。御屠蘇気分も醒め遣らぬ新年の頃、宅配便との尋常ならぬ荷受戦争を演じた死闘の証。何を隠そうそれは宅配便の不在通知である。人のいない時間をわざわざ指定してくるなんて全くいい迷惑だと思いつつ、よく見たら差出人自分である。而も自分で受取時間を指定したにも拘らず、すっかり失念して不在にしていたため頂戴したものであった。ここ迄はよくある話だ。だが、この先はあなたの知らない世界。一度扉の向こうに足を踏み入れたら、二度と元には戻れぬ奇妙な世界が待ち受けている。それではお行きなさい。世にも奇妙な展開をご照覧あれ。

    不在通知を手にした私は、再配達の手配を気にしつつも毎週楽しみにしているテレビ番組のことが気になっていた。そろそろ番組の開始時刻である。流石に電話を入れるまで再配送には来ないだろう。電話なんぞいつでも出来るとのんびり構え、食事をしながらテレビ番組を視聴することにした。小半刻ほどしてトイレ休憩に立ち、何気にドアポストを見ると見覚えのある紙切れが入っているらしく、目を凝らしてようく見ればなんと不在通知である。而もたったの10分前じゃないか。呼び鈴鳴らなかったぞ。奇妙だな。不思議に思って自打で呼び鈴チェックをしてみると、無常にも微かなスイッチ音がスーカスーカと鳴るだけで、全く機能を果たしていないことが判明する。がーん。恐らくノックでもしたのだろうが、余裕こいて居間で今テレビに熱中していた住人が、玄関ノックに気が付くほど世の中そう甘くはないのである。どうやらこのドライバーはせっかちらしいので、電話を入れようものなら恐らく30分以内にまた遣って来るに相違ない。夜も遅いので翌日業者に電話を入れて仕切り直すのが無難である。

    再指定の当日。指定時刻まで30分だけ余裕があるので、今のうちにシャワーを浴びておく。20分もかからないだろうし、ノックに備えて玄関に待機する時間としては10分は長過ぎるくらいである。時間の有効活用は現代人の嗜みである。早速、温かいシャワーを浴び、そろそろ時間ということで心地よく体を拭おうと思ったのも束の間。奇妙だな。なんだこの違和感は。しまったタオルがない。不要な誤解を避けるために一応断っておくが、仕舞っておいたタオルがないのではなくて、締まったタオルがない訳でもなく、湿ったタオルがない訳でもなくって、然るべき場所にタオルが懸かっていないという困った状態なのである。湿ったタオルがあってもそれはそれで困るのだが、真冬の風呂上がりにタオルがないという虚脱感は、ボディー・ソープを買った積もりがヘア・シャンプーだった時の敗北感にも類似し、素っ裸で浴槽の蓋を開けたら中身が空だった時の挫折感にも匹敵する。どれも味わったことのない人は幸せである。

    呆然としても仕方がないので、ぶるんぶるん体をふるって激しいダンスを踊ってみるのだが、犬猫じゃあるまいしそんなに効果の程がある訳もなく、寒さが増すだけで余計に惨めである。ここは一つ熱いココアを入れて冷えた体を温めるとしよう。湯が沸くまで謎掛けでも。ココアがないと眠れない動物と掛けて鶏と解く。ココア・ドゥードゥ。…解りにくいな。て、おいおい。早くせねば。こうしている間にも宅配のあんちゃんはすぐそこまで迫っているかもしれないのである。素っ裸で応対するのも如何なものかと衣服を纏い始めるや、薬缶がピーピー鳴り出したので素早く火を止め、まさかとは思いつつ念のためドアポストをチェックしてみると、しっかり不在通知入っとるやんけー。三枚目である。ダンスを踊るわ薬缶は鳴るわでこちらは存在感バリバリだった筈なのになんとも諦めの早い人である。なんてこった。

    翌日。不在通知を手にし配達時刻に対峙すること再び。昨日の失敗を踏まえ準備も万端に、もっと静かに身を潜めて神経を集中し、今度こそノックの音を確実に捉えなければならない。だがこういう時に限って不運はやって来るものである。これまでの不在通知も不運といえば不運かも知れないがもっと注意していれば避けられた類のものであり、これを不運と言わずして何を不運と言うのか。ああ神よ。時間間際になって急な便意が襲ってくるなど一体誰が想像しえようか。高が宅配便を受け取るだけのことでこんなにも緊迫したことなど未だ嘗てない。兎に角、宅配便を待っていて自宅で失禁するなんぞという失態を犯す訳にもいかないので、取り敢えずトイレに行くのだがここで一つ大きな問題がある。

    実は、3日前からトイレの電球が切れて仕舞っていて、ドアを全開にして廊下の灯を頼りに用をたさなければならないのである。傍目には全く何の問題もなさそうに思えるが、一体これのどこが問題なのかというと、換気扇を回すと音が五月蠅くてノック音が聞こえないかも知れないので換気扇を回してはいけないということなのである。つまり小ならいいのだが、大だとかなりまずい。臭い。しかも下痢。下痢のトイレは所要時間が長い。それに紙が足らなくなってきた。ああ紙よ。否、ああ神よ。どうしてこのような試練を私にお与えか。こうしている間にも宅配のあんちゃんはすぐそこまで迫っているかも知れないのである。宅配便とはいえ臭いの立ち籠っている状態で応接にあたるほどの勇気は私にはない。あんちゃんには誠に申し訳ないがお退き取り願うしかあるまい。そもそも意識が遠のきそうになるほどの腹痛で悶絶するなか、ノックの音が聞こえる由もないのだが。

    意識を確り保つために、そして緊張をほぐして痛みを和らげるために、駄洒落を色々と考えてはみても中々効果のほどは認められず、これで最後よと唸出したその瞬間。
    ゴルフの副賞に貰ったお菓子と掛けて金平糖と解く。コンペ一等。コンペイトー。序でにパンチョイトー。ぎゅるるるる。
    あまりの下らなさに腸の収斂が緩んだのか激しい音が鳴る。仮に宅配便が来ていてもノックの音など掻き消されて仕舞う程の轟音である。どびゅんぶりぶりぷう。

    こうして四枚目を残した宅配便のあんちゃんも、ドアの向こうで奇妙なドラマが散々繰り広げられていたことなど知る由もなかっただろう。何度も足を運んでくれたあんちゃんへのお詫びの印に、もう少し上品に筆を結ぶとしよう。とっぴんぱらりのぷう。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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