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第91話 「ソウル探訪・下」

    ホテルのロビーで一通り打ち合せを済ませた我々お二人様ご一向は、先刻から何かと頻りに仕切っているベルボーイの監視を掻い潜って外出する事に成功した。別にそうする必要もなかったのだが、何しろ外出すると言ってフロントに鍵を預けてから既に一時間もロビーで喋っているのだから、こいつら阿呆かと思われていたに違いなく、こういう場合は知らぬ間に消えてしまうに限る。ともあれ商談が済んだとあれば、後は夜の部が御待兼ねである。

    参鶏湯の店では食べたら直ぐに出ていけという雰囲気のテーブル席だったので晩酌の機会を逸した。尤もそういうのは焼肉屋でやるのが韓国では普通であるから、さっき参鶏湯を食べたばかりではあるが、我々も焼肉屋に入って晩酌することにした。日本人はカルビといえば牛のことしか頭にないらしいが、豚ヒレのデジカルビも旨いのである。だが相棒は初めてなので、取り敢えず牛カルビ一人分と燒酎を注文し、最後はネンミョン二人分で締めることにした。食い過ぎである。

    お次は酔った勢いでカラオケへ。ここで我々は同僚のキムを呼び出して彼の車で移動することにした。途中だから寄って行けとソウルタワーに案内されたが、夜景なんかどうでもいいからさっさとカラオケに連れて行けと言う我々の要望で、タワーに登って5分で降りて来てキムの行きつけのバアに連行される。そういえばネパール人のシェンカーもタワーに登ったと嬉しそうに喋っていたのを思い出す。

    入店すると、てっきりボックスだと思いきや、いきなりステージが構えておるではないか。ステージカラオケと言ってもホステス附で終ったあとはごゆっくりというタイプの高級店ではなく、二十代若者がターゲットの安い店である。人に聞かせる趣味はないし、態態知らない人の歌を聞いて順番を待っているのも厭なのであんまりステージでという気にはなれないのだが、日本語の曲が豊富にあると云うのでは仕方あるまい。早速、チューブの「ああ夏休み」を歌って、次はチューブの何にしようかなってあれれ、一曲しかないじゃん。どこが豊富なんだよ。それじゃ「美人薄命」っと。て、えええ。「ああ無情」しかないじゃん。まあいいけど。

    私の激しい歌唱を聴いて痺れたのかどうかは知らないが、二十歳弱と見える女の子が一緒に踊って欲しいと言いだして、私は当惑した。踊るって、既にそういう齢じゃないし、なんかコサックダンスとかだったら厭だなあ、って違うだろ。日本人と踊りたいらしいのだが、ラッパーみたいな格好してるし、ひょとして床の上で仰向けになってクルクル回らないといけないのか。あと、メットを被って逆さになってクルクル回るのとか、ヨォヨォとか言いながら中指を立てて腕を前に突き出すやつとか苦手だし。ってそれも違うだろ。とか考えあぐねているうちに女の子同士が小衝き合いを始めるしで、さっぱり解らないのであった。

    ところで、カラオケ画面の日本語歌詞の下には訳詞と思しきハングルが書いてあり、試しに読んでみると実は日本語の音に当てたルビだったりしてちょっと感動。これは日本語学習と娯楽とを一体化させたものであり、かなり凄い事である。いや、文化衝撃が。

    そんなこんなで26時まで過ごして、翌朝は11時始動。キョンボックン(慶福宮)に行けと五月蝿いキムのアドヴァイスを無視して、誰も行かなそうなチャンギョングン(昌慶宮)を散策した後、これまた誰も行かなそうな近くの科学博物館へと足を運ぶ。大人二枚を購入し、丸でギャグの様に検札入口と正反対の方向へ進み、施錠されているとは知らぬドアを必死で開けようとする二人。微笑ましい光景に受付嬢は爆笑した。

    館内は左程広くはないがエセ科学講釈を興じて戯れる分には、模型やら遊べる展示物があれば充分である。中でも我々の目を惹いたのは、手から出る黒いオーラの影が映し出されるモニターである。
    「おお、これって北斗神拳じゃん」
    「違うって」
    「昨日の足裏の秘孔、突いてもらってからの方がもっと効果出るじゃん」「出ないって」
    「あ、そうだ。静電気装置で充電して、うおりゃあたたたたたぁ」
    と、やってみたものの相棒の夢のない意見に拠ると、手からの熱放射による空気の動きが映し出されているだけらしい。

    歩き廻っていい加減疲れ果てたので、腰掛けて缶珈琲を飲みながら何気なくコートの内ポケットを探ると、昨日行ったマッサージのパンフが出てきて「旅行の疲労恢復に最高」と謳ってある。そういうことだったのか。我々は完璧に順序を誤ってしまったらしい。謂うなれば歯磨きしてから食事をとったようなもので、身に沁みる台詞である。別な意味でほんとに最高である。

    夕方、ホテルへ戻ろうとしたら事故で地下鉄が動かないので、ネットカフェで時間を潰すことにした。因みにネットカフェは PC バン、序でにカラオケボックスはノレバン、背中に貼るのはエレキバン、侍ジャイアンツは番場蛮。という訳かどうかは知らないが、流石に速い速い。職場より格段に速い高速ネットである。昨夜キムは「ADSLなんかもう古い、光ファイバーだ」と言っていたのを思い出す。こうしている間もキムは日本語講座に通っていることだろうが、相棒とは今宵限りの命。今生の別れを惜しまんとホテル・レストランにて最後の晩餐に挑む。

    私は普段ありつけぬカレーライスを摂取した。高級レストランでカレー。なんと愚かな選択かという意見もあろうが、先を急がねばならない。相棒に別れを告げて電車で揺られること一時間半。我が街水原に到着して改札を抜け、これにて一件落着あとは家路を急ぐだけああ楽しかったね、と思いきや、緊張が解けた所為なのか便意函数との凄絶なる戦いの火蓋が切って落とされた。これはほんとに急がないといけない。往来の中でカレーをサーヴィスする訳にはいかないのであり、死に物狂いで頑張った御蔭で間一髮、紙一重、オブラート一枚、最早一刻の猶予ならぬ一滴の漏れも許されない窮地に追い込まれながらも、どうにか難を迯れて安息のうちに一日を終えるのであった。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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