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第89話 「竜巻投法」

    窓の外では学生がキャッチボールをしている。同居人があれは何だと言う。同居人とはポーランドから訪問してきたぺトロフというおっさんで、同居と言ってもオフィスを共有しているだけの事であり、それ以上それ以下でもない。野球というものは西欧では全然流行ってないので矢張り珍しいのであろうが、ポーランドは東欧だという突っ込みは野暮である。だって西欧人と東欧人は、西洋人と東洋人ほど違っていないのだから。

    まあ、そんな事はどうでもよくって問題なのは、外で遊んでいる彼らが揃いも揃って皆へっぴり腰な事である。私はいつ窓ガラスを割られるかとヒヤヒヤしながら見ているのだが、要領を得ないぺトロフのおっさんは嬉しそうに眺めている。
    「オー。ジャパニーズ・ベースボール」
    って、違うだろ。韓国人じゃないか。ガシャン。

    それはそうと先刻も投げ損ないのボールが、室外に放置してある什器に当たってガシャンと大きな音をたてたところである。この冬場にガラスを割られては堪らない。学生は頭を下げてすまなそうに会釈する。私は笑顔で応えるが、内心では表に出ていって文句を言ってやりたいところである。
    「ええい貸せ。そうじゃない。こうやるんだ。ビシッ」
    と言って、速球をお見舞いしてやりたい気分である。いやいや、いかん。立場上、そんな事をしてどうする。グランドで戯れる樣に指導すべきである。

    私も昔ガラスを割った事はあるので、それがどんなに慘めな思いにさせるかは十分に承知している。振られ酒に泥酔して学生会館のガラスにライダーキックを噛ましたり、ハンケチを当てて石で叩いて鍵を外して忍び込んでお縄になったり、いや、夢だよ夢。あはは。って、野球に話を戻せば、中学時代と高校時代に一度ずつ投球練習をしていて割ってしまったのを思い出す。

    最初は中学時代である。私が軟式野球のボールを石垣に墨で書いた円めがけて投げて遊んでいると、幼馴染みの仁志君が現れてバント練習をしようという事になったので、ちょっと太めの黒バット、ゼット社のデカマーラ・モデルを我が家から持ってきて、私が先に打つことにした。このデカマーラ、親父が会社でソフトボールをする時のために買ったので軟式野球用ではなくってソフト用である。そういう訳で太くて折れ難い丈夫な黒バットである。バントの構えをして仁志君の投げる球に、このデカマーラでコツンと打撃を加えてみる。正確にはバットを引くので「打つ」とは名ばかりだが、デカマーラを介して伝わってくる打球の感触を楽しみながら、私は数十球の打撃を終了した。

    今度は仁志君が打席に立った。なんと彼はバントの構えではなく、愛犬が尻尾を振り振り喜ぶが如く、頭上でデカマーラを振り振りし乍ら打ち気満満の構えを見せるではないか。
    「おいおい。ちょっと待てーや」
    「大丈夫じゃあ。当てるだけじゃけえ」

    普通の構えからでも打撃ポイントに正確に差し出してミート直前に寸止めすれば、打球の勢いを殺してバントと同じ効果を得る事が出来る。私はなんの疑いもなく「当てるだけ」の言葉をそのように解釈し、なんの躊躇いもなく第一球を投げ込んだ。だが、私の期待とは裏腹にデカマーラは、レベル・スイングの見事な円弧で振り抜かれ、打球は一直線に隣家の風呂場の窓ガラスを直撃した。
    「ああーっ。なにするんじゃあー」

    こんな狭い空地でバットを振り回すなど言語道断。だがその台詞はデカマーラのオーナーである父から頂戴する羽目と相成った。人の所為にしてはいかんとまで言われ、その月の小遣いは問答無用で雲散霧消となったのである。ううう。

    次は高校時代。同じくキャッチャー石垣を相手に、ソフトボールの投球練習をしていた時である。腕を一回転させて投げる風車投法の練習なのだが、これが初めのうちは球を放る要領が分からないのでボーリングになったり、遥か上方に飛んでいったり、とんでもない事頻りであった。私の実家は段状に造成された段地の団地であって集合住宅タイプの団地ではないのであるが、ある時遂に、大飛球と呼ぶに相応しい大暴投をやらかしてしまい、家一軒分プラス屏の高さを越えて一畳程もある窓ガラスを割ってしまったのである。

    幸いにして両親は留守だし、その家も留守であったので忍び込んでお宝を頂戴、いやいや、迅速にガラス屋さんに電話して修繕してもらい、家から掃除器を抱えて行き、何事も無かったかの樣に綺麗に碎片を処理。誰にも目撃されることなくあとは施錠すれば密室完全犯罪なのであるが、流石に無理とあって夕方に謝罪に趨いてお咎めなしと相成った。自腹を切った上に小遣いがカットされては敵わないので親父には秘密にしておいたから叱られる事はなかったが、その月に楽しみにしていたエロ本いや青年雑誌が購入出来なかったのは実に痛かった。

    そんな次第で認識不足な者とか未熟な者とかが、窓ガラスの近辺で野球をするのは非常にまずいのである。だのになぜ歯をくいしばり君は行くのかそんなにしてまで、いやいやそうじゃない、あの若者たちの腰つきは。何処へ飛んでくるのか全く分からないのである。いくら窓に鉄格子が嵌まっているからといって、ボールのサイズは格子より小さいので全然安心できないのである。ガキン。ほうら、復だ。ガラスを割って小遣いをカットされて青年雑誌が買えなくって懊悩する羽目になっても良いのか諸君。君の行く道は果てしなく遠いのだ。

    遂に私は我慢できなくなって「ええい貸せ。そうじゃない。こうやるんだ」と言いながら外に飛び出して、同じ左腕の好みで野茂の竜巻投法をお見舞することにした。好みって。学生の手から球をもぎ取り、両腕を高く掲げ背筋をピンと張った姿勢から右足をスクと上げ、次に右足を背面にギュンと回転させてタメを十分にとり、そこから撓る笞の樣に体を回転させて着地も完璧。丁度キャッチャー正面を向いていて、もう、ここで球を放れば文句無しという素晴らしい体勢に持ち込んで見せた。

    するとその時である。ピキーン。左首から肩にかけて激痛が、あいたたたたた。あたー。別に北斗神拳をやっている訳ではなくって筋肉が痙ったのである。キャッチャー目掛けて一条の閃光が走り羨望の眼差しを受ける目論見は一転して、皆はゲラゲラと笑う始末である。
    一条の線香でも上げられた気分に陥ったのは言うまでもない。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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