第112話 「うめーだ」
世の中には物凄い人間がいるもので、例えば、一晩で日本酒を三升も呑む人間なんぞはその典型である。とはいえそんな大酒呑みがそこら中にゴロゴロといる訳でもなく、水でさえ一升も飲むのは拷問なのだから、多くの人にとっては俄に信じ難い処である。そんなに飲む人間は、関取かプロレスラーか取的か関取か関取の樣な巨漢に違いなく、そうでなければ三升も呑んで平気な奴がいるものかと思うのである。
だが、この観念を覆す人間が遂に私の前に現れてしまった。毎日「うめーだ、うめーだ」と言って酒を呑む院生が、バイトとして私の部に配属されて来たのである。確かに大きい。可也太っている。112キロである。断っておくが時速112キロではない。それだけではない。漫画のキャラの樣な可愛いくりくりの御目目である。首が胴体に埋もれている。スキンヘッドである。パソコンのキーをパシパシ叩き捲り乍ら、ぶりぶり屁をこく。これでは酒を飲んで、嘸や頭の血管を切り捲っている事だろうと思ったら、案の定、大学院を留年し捲っている。本人曰く学費が足らないというバイトの理由も、酒代が足らないの間違いではなかろうかと思える程である。
そして彼の実力が一同の下に披露される日が到来した。忘年会である。場所は銀座の伊太利屋レストラン。社費であるからといって決して無礼講な訳でもなく、剩え彼の為にセッティングした訳でもない。運ばれた料理を謹んで摂取し、供された酒を肅肅と酌み交わし、然れど酔わない程度に呑みつつ、情報交換や腹の探り合いや胸の触り合いをして明日の糧を求めるのが、リストラの嵐吹くこの厳寒の時勢を生き抜く術なのである。だのに何故歯を食い縛り君は行くのか其んなにしてまで、と言わんばかりの凄まじい勢いでバイト君は呑み始めた。
元来私は結構呑める口なのだが、最近の健康ムーブに圧されて、酒は程程にすると心に決めている。つまりそのなんだ、上述の通り明日の糧を求めて我慢しているのである。というか明日も仕事だよ。だがこのバイト君、ジーンズにTシャツという恍けた風体にも拘らず、可也調子に乗っている。「緑皮さん弱いっすね。うめーだ」だの、私より格段に酒の弱い筈のビジネス・パートナーであるジェフ道原に向かって「道原さん、ほんとに強いっすよ。アーユーハピー」だの、己の強さを自慢したいのか「俺強くないっす」だのと、幾度も幾度も連発する。まあ、この程度ならよくある事だし、黙って聞く素振りを見せつつ、頭の中では長嶋の素振りでも思い浮かべていれば十分である。しまった、今のはボールだな。
偖、この男、只なのを良いことに段々エスカレートし始める。供される酒では不満なのか傍若無人にも、礼装の給仕を相手に一人注文を連発し始めた。その口ぶりは可也馴馴しい。
「日本酒ある?」
「強い酒ある?」
「ウィスキーある?」
「何がある?」
「うめーだ」
イタリアンで日本酒もどうかと思うが、並居る御歴々を前にして「何がある?」も結構凄い。ここは大衆酒場か。
「通はテキーラっすよ。クエルボ、サウザー、ドン・フリオっす」
「テキーラある?」
「何がある?」
「クエルボある?」
「うめーだ」
並居る御歴々を前にして通を気取るのも結構凄いが、酒なら何でもいい樣な奴が「何がある?」じゃないだろ。私が折角味わって飲もうとしていたワインの瓶も、あっと云う間に空いちゃってるし。
「ズブロッカある?」
「ないの?」
「ウォッカ何がある?」
「通はウォッカすよ。スミノフ、ズブロッカ、ストリチナヤ。それから、アブソルートとスミノフ。うめーだ」
おおっと今度は「ないの」と来たか。それにしても、通通ってモールス信号じゃあるまいし、並居る御歴々を前にしてスミノフを二回も出すんじゃないっつーの。ちょっと長嶋の素振りが激しさを増して来た樣である。そしてジェフ道原も調子がいい。
「君、ペースが速いねえ。飲み過ぎじゃないの?」
「いえ、未だ全然呑んでないっすよ。うめーだ」
「おいおい。さっきからがぶがぶ飲んでるじゃねーか。君、強いねえ」
「弱いっすよ。あ、すみませーん。ストリチナヤ頂戴。あ、ロックで」(絶叫)
「それにしても君、凄いねえ…(別な意味で)」
「いえ、大したこたあないっす。いつもレッドのペットボトルの一升瓶を飲んでますから。うめーだ」
だー。何だよそれ。ペットボトルのウィスキーって。而もペットボトルの一升瓶とは一体。呼込みが「一時間、2400円で揉み放題」と言うから喜び勇んで行ってみると、「2400円で飲み放題」だった時の樣な衝撃である。今や頭の中の長嶋は、一秒間に100回くらいの猛烈スイングをしている。
「俺、傭って貰って良かったすよ。こんなに高い時給は初めてっす。うめーだ」
君の出す赤字を誰が埋めてると思ってるんだよ。
「研究室の奴等、全然飲まなくて楽しくないっす。こんなに酒飲めて嬉しいっす。うめーだ」
只酒飲めて嬉しいよね。並居る御歴々を前にして。
「今度、友達紹介しますよ。そいつも凄い飲むんすよ」
否、遠慮しとくよ。
類は友を呼ぶというか「凄い飲む」奴なんかどうでも良くって、私としては黒字を出す人を歓迎したく思うのである。それにしても、この男、慙愧に堪えぬという言葉を知らぬのか。うめーだ。て、私が言ってどうするのだ。
パリーン。ガチャン。
何だ何だ。テーブルが激しく搖れ、グラスが落ちる。おいおい大丈夫かよ。足元ふらついてるぞ。並居る御歴々を押し退けて、厠へと向かうバイト君の姿は可也ゴーイング・マイ・ウェイである。
「トイレで吐いてるんじゃないの。強引具、前、ウエーって。ひゃひゃひゃ」
「吐いてないよ。うめーだ」
あら、聞こえてたのね。