第113話 「激的ビフォー・アフター」
石黒さんは30歳。働き盛りの独身女性。30年間、両親と共に暮らして来た我が家は老朽化が激しく、周囲にはマンションが立ち並び、日中の陽の光も遮られる有り樣。明るく楽しかった幼い頃の風景はすっかり色褪せてしまいました。時代の流れからも、光からも完全に見放された暗い空間。それだけではありません。所狭しと山積みされた家財に衣類。足の踏み場もなく、丸で苦痛を強いられる樣な毎日。三年前に事故で亡くなった両親の遺産を受け継いで、心機一転の大改造です。新しい時代の息吹を吹き込み、懷かしい思い出と共になんとか我が家を甦らせたい。そんな切なる願いを受けて、石黒家の為に一人の男が立上りました。空間の魔術師、犬神の登場です。
犬神は一級建築士。犬神が物作りに於いて最も得意とし、重視するのは感性の温かさ。溢れる光、水の命、木の風相、和紙の温もり。それら全てが犬神の感性を刺戟し、豊かで暖かな空間を創造する原動力となるのです。そして犬神には、もう一つの得意技があります。狭いスペースを克服する奇想天外な收納マジック。そこには、仮令一粍たりとも無駄なスペースは残さない、そんな犬神の熱い哲学があります。今回の石黒家の依頼に対して、犬神は一体、どんなリフォームを頭に描いているのでしょうか。早速、この家に巣くう悪霊を退散すべく、犬神の現場検証が始まります。その前に一休み。
一服終えた巧は玄関のドアを開け、真向から中を眺めます。所狭しと並べられた靴の山から、強烈な圧迫感が漂ってきます。否、ちょっと待って下さい。この強烈な圧迫感は。なんと脇にあるトイレから。流石の巧もこれには苦笑いです。そういえば石黒さんの姿が見当たりませんが…。ふと右手のドアを開けると、何やら見覚えのある顔が。なんとウンチングスタイルの石黒さんです。リフォームの前日に餃子は止めておきましょう。早速、消臭スプレイで悪霊退散です。
玄関の脇にある狭いスペースを抜けると、石黒家のキッチンです。その二畳の空間には大きな食器棚と冷藏庫が立ち並び、南の面にはベランダへと通じる勝手口のドアが。併し、その勝手口は食器棚に遮られ、どうも勝手が良くありません。生前、お母さんは何時も「勝手が悪い」と愚痴を洩らしていたので、石黒家では勝手愚痴と呼んでいる。と、石黒さんの説明。これには犬神も感性を擽られた樣です。
「お母さんは此処で、グッチ買って、グッチ買って、と十回言ってたんだよね」
「…」
犬神の快心のギャグも、どうやら石黒さんには受け入れられなかったみたい。一休みして何とか気を取り直た犬神は、襖を開けて居間へと進みます。六畳の居間に足を踏み入れると、そこには雑然と散乱した物、物、物。一年中出しっ放しの炬燵の上には、放置された侭の食器と御菓子の山。一人が座れる程のぽっかりと空いたスペース以外は、新聞、雑誌、郵便物、脱ぎっ放しの衣類、取り込まれた侭無造作に山積された洗濯物、埃塗れになった胡麻斑海豹の縫い包み、スノーボードなどが散乱しており、宛らゴミ処理場です。流石の犬神もこれには絶句です。犬神はその驚きを表現する為に、何やら奇妙な行動を起こしました。
「アタ、アタタタタッ。アチョー。何れの日か是れ記念ならん」
奇声を上げながら持参の番傘に穴を空ける犬神。人呼んで、感性のアタタ傘。
なんということでしょう。犬神の最も得意とする感性の温かさが籠った快心のギャグも、ウンチングスタイルを覗かれて不機嫌な石黒さんには、復々受けなかった樣です。併し、ここで挫けている暇はありません。目の前の難関、この密林地帯に巧は一体、どう立ち向かうのでしょうか。新たな道を開拓する為、巧は山積みされた洗濯物を脚で払い、胡麻斑海豹の縫い包みを蹴飛ばします。すると、意外な物を発見。流石の巧も、これにはクリビツテンギョーです。巧の見た物体とは一体、何だったのでしょうか。
その正体は、穎割れ大根でした。密林地帯に雄々しく茂るその逞しい姿。これ迄の概念を覆すその力強い生命力に、犬神の感性が刺戟された模樣です。茶で一服中の犬神の視線の先には、脱ぎっ放しの衣類の隅から顔を出した座蒲団が。そして巧はこの座蒲団さえも見逃してはいませんでした。衣類を掻き分け座蒲団をはぐると、そこには何やら味のある黴た写真と腐った靴下が。穎割れ大根と腐った靴下の奇妙な取り合わせは、正に石黒家の祟り。あらゆる物を嗅ぎ付ける巧のマジックは、正に奇想天外の臭能マジック、逸嗅建築士です。って、あんた犬かよ。
次から次へと繰り出される巧の技。次は一体、どんな技を見せてくれるのでしょうか。自由への抑遏を解放し、大いなる障碍を乗り越えて機能的な空間を甦らせる。そんな大改造へ向けて、犬神は目を瞑って思索を廻らせます。おや、巧は意を決した樣に立ち上がりました。先程の苦悩に満ちた表情から一転、明るい表情を見せる巧。どうやらリフォームの全体像が掴めた模樣です。犬神の頭の中に描かれた完成形とは一体、どんなものなのでしょうか。巧は足早にその場を立ち去ります。
巧の行く先は、何とキッチン。どうやらキッチンから取り掛かる樣です。巧は空間を圧迫している大きな冷藏庫の扉を開け、スポン。シュワワー。ドクドクドク。ごきゅんごきゅん。
「ぶはー。お、こんなとこに竹輪めっけ。頂きまーす」
「もう、一服ばかりしてないで早く仕事して下さい。全く、やる気あるのかしら。これじゃ、一休建築士だわ」
「え? あっしは出前持ちでして。犬神様の注文でラーメン持って参りやした。ご馳走になっておりやす」
なんということでしょう。
男は、一休軒「筑紫」の奉公人で、巧と云う名であった。