第111話 「ああ無情」
私にとって毎日自炊をするという事は、己の拙い技法で作った不味い料理を毎日食べるという苦行に他ならず、それは時に拷問ですらあったりする訳だが、材料費と外食費の差額による得を勘案すれば、それも或る種の労働なのだと割り切れる。御蔭で野菜や豆腐は調味料なしで食す事が出来る程になったが、別にスパイになる為の訓練をしているのではない。肉は未だである。
斯樣な労働の対価として得られるものは、浮いた金で「ちょいと今日は贅沢してみるか」と居酒屋で食べるよりも遥かに安くて上質な鮨を、生鮮食品コーナーから半額でゲットする喜びである。翌日は出勤しなくていい金曜の夜に、炊事の束縛から自らを解放せしめ至福のナイトライフを私服で過ごすのが目的である。
半額でゲットする為には、閉店前の偵察を重ね、予め半額タイムサービスの開始時刻と売場環境を熟知しておくことが必要である。何日も前から通い詰め、店員の行動を観察し、時間とタイミングを測り、確り作戦を練っておくことが頗る肝腎である。股、あ、いや又、半額タイムサービスが始まるや否や、仕事帰りのサラリーマン、主婦、おばちゃん、小学生などがハイエナの樣に簇って来るので、これはもう戦争である。
予てからの偵察の結果、我が御用達「南部ストア」は午後9時に閉店と判明した。ならば8時半に入店すれば大丈夫であろうと高を括り、目の前の書店で油を売ってから入れば丁度良い頃合いであろう。すると書店の前には綺麗なアンケート孃がいて、アンケートをお願いしますと言う。ううむ、ここは一気に「あん傾倒」と寄り掛かって一戦交えたい処ではあるが、同じ交えたいでも本日は鮨をマジ得たいのである。諜報員たる者、007の樣に女の色香に惑わされて任務遂行に支障を来してはならない。ああ、ジェームス。あん、ケイト。て、そんな事をしている場合ではないのである。
偖、八時半である。意気揚揚と南部ストアの敷居を跨ぎ、今頃は黒山の人集りであろうと想像しつつ生鮮食品売場へと歩を進める。すると、何と吃驚する事に、売場は既にすっからかんではないか。ううむ遅かったか。遅いぞ武藏。否、遅かりし由良之助。売場の硝子越しには調理人が丸で「店中で御座る」と言わんばかりに包丁をぎらりと輝かせている。そんな駄洒落で駄目を押されては敵わないので、さっさと家路へ向かえば暗闇の帰途で誰かと衝突したらしい。なんだ、やけに愛想のない奴だな、何か言えよ。ん、で電柱か。電柱で御座る。
第二金曜日。先週の失敗を顧みて、タイムサービス開始前の8時から入店してホシを見張ることにする。こうして見張っていれば確実に獲物を捕えることが出来るというものである。空の籠を抱えて何度も往復していると怪しまれるので、物陰から張り込むのが良い。念のため付け鬚と眼鏡で変装し、通勤列車内で読んだ新聞を広げればスパイとしては完璧であるが、店内でそんな事をしていると余計怪しまれそうである。そこへ豈図らんや、携帯電話が掛かってきた。丸で私の購入を阻止せんとするかの樣なタイミングである。陰謀なのか。間諜たる者、ここは落ち着いて対処せねばならぬ。だが、落ち着き過ぎて話込んで仕舞い、8時20分を過ぎている。これは由由しき一大事である。八時半では既に遅かったのであるから、急がねば。
然し時既に遅し。嗚呼、江戸前鮨盛合せの姿は何処ぞよ。寂寞として残された穴子散らしを握り締めてレジへと向かわねばならないと言うのか。もっと目を凝らして探せ。おお、あったぞ。すちゃ。て、おばちゃんの籠の中ではないか。未だ金を払ってないのだから、おばちゃんの所有物ではない。故に密かに奪っても犯罪ではない。おお、ナイス・アイデア。と、思ったが、そんな事をすると天誅で御座るになって仕舞うので止めておく。
第三金曜日。スッパイは成功の素と云うではないか。密偵たる者、同じ轍を踏まぬ樣にするのが勉めである。今度は携帯電話の電源を切ってから入店する。すると、御目当ての品が未だ三つも残っているではないか。而も未だ半額になっておらぬから、これは絶好のチャンスである。流石に三つしかないと見えて、虎視眈々と狙うライバル達も許多の模樣である。8時半では遅すぎ、8時20分では争奪戦の最中。正に頃合いが肝腎である。だが、30分になっても半額にならず、待ち草臥れた私の耳に気になる台詞が流れ込む。
「好きだよ今して、さよりちゃん。パン下揉んだよ、すずきくん」
おいおい。何だ何だ。こんな所で巫山戲るんでない、と思って能く聴いてみると、これは彼有名な「おさかな天国」ではないか。危ない唄だなあと思いつつも早く半額シール貼れよと思うのであるが、45分になっても未だである。仕方がないので続きを歌唱する。
さかなさかなさかなあ、魚を食べると
あたまあたまあたま、頭がよわくなるう
さかなさかなさかなあ、魚を食べると
からだからだからだ、川谷拓三
さあさ、みんなで逆鉾嘗めよう
否否それは勘弁して欲しいと思いつつ、既に50分。すると店員が出て来て江戸前鮨盛合せを手に取り、待望の半額シールが遂に貼られるではないか。おお。この瞬間を待っていたぞ。日頃の不味い料理の拷問に耐えてスパイになる訓練を積んだ成果が、今ここに現れるのだ。あ、そうそう。あからさまに物欲しそうに見ていてはいかんのだ。隠れて物蔭からっと。
だが妙な事に客が殺到する気配がない。チャーンスと手を伸ばしつつ眼を凝らすと、100円引シールである。がーん。道理で誰も寄付かない訳である。遣り場を失って勢い余った手は、ひらひらと魚が泳ぐ仕草を見せるより他なく、私は「ひらひらと綺麗でしょ、いい女でしょ」と、呟き乍ら退散するのであった。ああ無情。
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