第104話 「人民食堂」
帰国を一箇月前に控えた或る日、私は飛行機の予約を済ませ、ホストである上司キムに出国予定日を告げた。ところが解釈の相違からか私の告げた日は、彼が考えていた日付より一日早いものであった為、少し許り面倒な事になったかに思われた。だが、キムが政府某機関に交渉を諮るという事態は鎮静し、その後一緒に社員食堂で夕食を摂りながら会話を運ぶ事となった。
キムは帰国後の予定だとか業務内容だとかを私に訊ねた上で、君は不運だ心から同情するだの、俺の時も一番出来の悪かったアメリカ人女性が要職をゲットして云々かんたらほげほげだの、早くガールフレンドを作り給えだのと矢継早に言ってきたが、今日の B 定食は珍しく旨いなあ、と上の空で聞いていると、
「今は日韓両国でベンチャー・ビジネスが流行っている。世界的な傾向だ」
「そうですね」
「将来は自分の会社を持ちたいかね」
「え、まあ多分。わからないけど」
「テレビで見たが、日本の会社員が後輩に『会社のために死力を尽くすのではなく、己の家族の為に捧げよ』と忠告する場面があった。今はみんなベンチャーを目指している。新しい資本主義の在り方だよ。そうだろ、君」
「其の通りですね」
「残りの期間は何か特別にする予定があるのかね」
「否、別に。わ(たしはプログラムの課題が…)」
「だったら韓国内を旅行することを勧める。社内生活は普通の韓国ではない。生の韓国を見知っておけば、いつかビジネスに役立つ筈だ。どうかね」
「…(理屈は)そうですね」
そんなことより、転職前に課題のC言語を覚えないといけないし、ベラベラ喋ってないで某機関に掛け合うの忘れんなよ、と思うのである。予約変更も気になるし、第一、この男は忘れっぽい。
誰の言う事にも一理はある。だが私は自分の思惑で物事を進めたい。私は残り四十年あるかどうか知らないが、第二の人生を歩まんとしている。一生で二つの道を歩む事が出来るなんて、素晴らしい事ではないのか。キムなどは恐らく此の侭現職世界から一歩も外に踏み出す事はあるまい。一つの人生を味わう事しか出来ないのだ。
思えばこの国では、私の意に反して変人との出会いが結構あった。まあ、変人という認識は相対的なものでしかないから、ここでは胡散臭い奴という程度である。宛てにならない事では定評がある上司キム。そーかそーか言う学会の日本人イトヲ。日本人は皆ハングルが読めると思っているポーランド人ペトロフ。「それは牛肉ではなくて魚だ」と、どんなに巧みに騙しても見破ったヒンズー教の敬虔な信者である猛牛顔のシェンカー。魚を「ピッス」と言うから最初は何かと思った。f が p になる韓国語の特性を知っていたから推測は出来たが、彼はネパール人である。
そしてもう一人私にとって忘れられない韓国人がいる。「人民食堂」という大衆食堂の親爺である。蝿が飛び交う汚い食堂だったが、彼は日本語を話して呉れるので殆ど毎日利用した時期もあった。「あしたもまた来て下さいね」「はい」と、一定の形式に法った規律ある行為として最後に挨拶を交わして以来、通わなくなって一年以上経つというのに、路上で出会う度に「おおおっ」と、和やかに指を差して仰け反って驚いた挙げ句、「嘘吐きですね。あした来なさい。ひゃっひゃ」と、言うのである。眼が真剣なところが些か怖くもある。「どこで食べてますか」「いや、社員食堂で」「そうですか。あした来なさい」と、お決まりの会話を交わした後、可哀想だから適には行って遣るかと思い日曜日に行ってみると、「おおおお。ほんとに来ましたか。全くどこ行ってたか」「いや、だから社員食堂」と、店内を見渡すと、なんと改装されていて而も値上げされておるではないか。眼が真剣だった理由が解った様な気がする。
仕方が無いので、劣化した脂で炒めて味をつけたチャオファンという名の飯料理を注文して美味しそうに三分で片付けると、「おいしく召し上がりましたか」と尋くので「おいしかったです」と、一定の形式に法った規律ある行為で応じながら釣銭を受け取る手は店内に残しつつ、体は聢りと出口に向けておくのを忘れない。甘やかすと図に乗って「夜も来なさい」だの「毎日来なさい」だのと言い出すからである。
最近ではこちらが先に彼を見つけると、見つからないように彼の視界から遠ざかり、おおおっと指を差して仰け反る彼の姿を想像し乍ら、心悲しそうな老頭児の帰趨を遠巻きに見守る事にしている。時々、コンビニ店内や他の大衆食堂内で期せずして出会すが、社員食堂や構内の売店にも出没する時があるので全く油断も隙もないのである。
だが一番胡散臭かったのは矢張りシェンカー。あんただよ。カップ麺を袋から取り出して「夜の珈琲」と言ってみたり、嬉しそうに「カレーは好きか」と訊ねるから「好きだ」と応えると
「じゃあ御前の部屋で作ろう」
「なんでだよ。御前の部屋でやればいいじゃん」
「否、キッチンがない」
って、おいおい。それだけなら未だしも帰国間際になって遅過ぎたハングル学習を始めるし、チャットでガールフレンドを探せと執拗に勧めてくるわ、彼は妻帯者であるにも拘らず嵌まってしまってタイ女性と会う事になったけど代わりに会ってみないかだとか、付けをこちらに回さないで貰いたいのである。いい奴ではある。教えてやった倉庫番にも嵌まっていた。
いつも土曜日に食事に誘うと、敬虔なヒンズー教徒らしく「断食だから」と断っていたくせに、私は遂に或る土曜日の昼下がり、彼が社員食堂で人目を避け乍ら嬉しそうに食事を摂っているのを目撃した。そして、なんと鞄の中には聢りビールも隠されていたのである。土曜日は断食じゃないのかよ。おいおい、断食じゃあ。訊けば断食は夜間だけらしい。
とても胡散臭い憎めない男である。
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