第105話 「不良再建」
己の思考を整理する場所。それが机だ。最後の仕事を終えて、これまでの活動を振り返って己の気持ちを整理しているところだ。
どんな仕事にも楽な仕事はない。これは一見して真である樣にも思えるが、個人が二つ以上の職能を持つ場合に於いて言うのならば、それは真ではない。その個人が持つ二つ以上の職能には、厳然たる難易度の序列又は得手不得手があり、挑戦的でより難しい方の職に就いている場合、他方の職が楽な仕事なのは言うまでもないことである。他人がその仕事で苦労していることなど知ったことではないし、かといって他人を貶めている訳でも全然なく、なにしろ自分限定のことであるから、他人がこの命題に関わることは最初から論理的に排除されているし、反面、他人から一々「あんたには向いてないよ」と言われるのも癪である。
勿論、厭な事や克服せねばならぬ事は何時でもついて廻るので、それを無視して「楽だ」というのは愚の骨張であるし、「楽だ」といっても、砂漠で乗るラクダの事でもなければ、ラクダを着て鼻挑灯で鼾をかいている爺さんの事でもないし、河豚にあたって死んだ「駱駝の馬」の兄弟分が屑屋を脅して大家の家で死骸を踊らせて家賃を棒引きさせたり葬儀代を強請ったりする落語の演題のことでもない訳で、経済学的なパフォーマンスのことを示しているのは明白であり、それくらいは言外の意として領掌して欲しいものである。一人の人間が一万円の金を獲得するのに三日以上要するのと、半日で稼いでしまうのとではどっちが楽かといえば、後者に決まっているのである。勿論、休みなく働けばどちらであろうと生物学的に楽でない事に変わりはないが、残された時間にどちらが楽をできるかは自明なのである。
一応、プの字がつく身分になったにも拘らず、プー太郎と勘違いされているのか祖国業界での評価はいまいち低く、共同研究者の某准教授はボーナスポイントだかなんだか知らないがポイント欲しさに何の断りもなく三流雑誌に投稿しやがって「聞いてないよう」だし、全く骨折り損もいいとこで、日本船舶振興会の金は返さないといけないし、介護保険などというものが知らない間に始まっているし、昔は学振は2年だったし採用人数は非常に少なかったし学生ではもらえなかったのに今は3年で最長5年かよ君達いいねだし、更にはたった一回しか研究員を経験してないおっさんから「まだまだ苦労が足らん」と言われて「おいおい」だし、こっちでは厚遇されても円に換算したら薄給だし、このまま異国で下痢に悩まされる生活を更に続けなければならないのかと思うと、もう腹筋千回とヒンズースクワット千回と腕立伏せ五百回のビデオを観てから鼻毛を抜くくらいに阿呆らしくてやってられないのである。
「君の代わりならいくらでもいる」と言うんだったら、度重なる腹痛と下痢と借金は是非とも代わってもらいたいし、誰でもできる簡単な仕事だと宣うんだったら、「詳細は墓場まで持って行くからあとはよろしく。すごくむずかしいぞう」と、電気を消した部屋の中で呟きながら、薄ら笑いを浮かべて納豆を食うぞ。うらうらなっとう。いっそノートは全部燃やしてしまおうかとも思うが、まさかの復帰に備えて取って置こう。現実世界では人脈が大切だと思う。
そういう次第で代償は充分すぎる程からだで支払ったので、辞職までの時間は重役出勤なり帝王切開なり好きにしようと思うのであるが、只管雑文なんぞを書いてばかりいるのも芸がなさ過ぎるので、門外漢ではあるが昼間っからプログラム言語なるものをいじくって自動替え歌生成プログラムなんかを作って遊んで…ゴホゴホ、技能習得に励んでいる訳だが、これでは昼間っからゲームやってテレビ見てガハハ言ってるどこぞの営業所長と大して変わらない気もする。「そんなことよりエクセル覚えたら」という声も聞こえてきそうだが大きなお世話である。そういうあなたが覚えなさい。
それにしても四年前だが転職情報を漁っていて、これなら自分にも出来そうだなと思って応募条件を見遣れば、やれエクセル必修だの、ワード必修だの、HTML 必修だのというのが目白押しであったのが懐かしくもある。吾が業界ではマイク・ロソフト社の製品など見ることも触れることも一切無いので、ワードとかエクセルとか言われても、それは何か難解なプログラム言語かと思っていたのであり、FORTRAN、REDUCE、MATHEMATICA の経験はあるが腕に覚えがない素人のシログラマとあっては「こりゃ全く駄目だなあ」と、心底思ったものである。今にして思えばどえらい勘違いで、「亀甲縛り」と「桔槹を縛る」くらい違うのである。そんなものを縛って一体どうしようというのだ。
吾が業界でも電子出版技術の発展を受け、こうして書くのも烏滸がましい迄に、既に TEX と HTML は必須である。未だにワープロで論文作成とか秘書に打たせるというのは激しくアナクロだし、第一外国語が英語の割に発音がへたくそな方や、それだけなら兎も角、専門外の人に英語添削を任せるという似而非国際人な方もいるみたいで、こういうのに人事権を握られているのかと思うとちょっと日本の将来が不安だが、あんまり苦言を呈すると、「けっこう締まる」と「けっこう絞まる」と「けっこう閉まる」のどれがいいかと尋かれてうっかり「けっこう仮面」と応えて仕舞いそうなので、この程度で止めておきたい。
これにて人生の不良債券を一斉処分である。
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