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第106話 「警部」

    重たそうな荷物をぶら下げた女が独り、駅のホームにぽつんと立っている。次々と到来する電車から群聚が吐き出されて、丸でそこだけ空間が歪んでいるかの樣な流線を描いては消えて行く。2時間許り経つと顔見知りらしい男が現れて、申し訳なさそうな口調で女に話掛けた。

    「いやあ、呼び出してすみません。やっと事件の真相がわかりましたよ。お嬢さん」
    「白々しいですわね。で、一体どういう事なんですか」
    「あ、これは失礼しました。奥さん。犯人の家から阪急梅田駅まで1時間。犯人はそこから駆け足で急いで9時13分発のJR神戸線新快速に乗り、10時13分姫路到着の筈だった。ところが犯人はこの電車に乗ってはいなかった。私は、9時13分の新快速に乗車したものとばかり思っとりました」
    「わたしもそう思いましたわ。でも乗っていなかった」
    「そうです。その通り。全く巧妙な手口でした」
    「一体どんな手口ですの」
    「いえ、それは未だ言えません。それを明かす前に、事件当日の害者の足取りを御浚しておかねばなりません。公務員である害者はその日、土曜日で仕事は休みだったにも拘らず、何故か早起きをしています。怪しいとは思いませんか」
    「そうでしょうか。天気が良ければ洗濯したり色色するんじゃありませんの。別に怪しいとは思いませんけど」
    「然樣ですか。それならいいんですが、8時にタクシーを呼びつけ、いそいそと出かけている。電話の交信記録を調べたんですよ。タクシー会社に問い合わせたところ、広島駅の新幹線口まで送ったのを運転手が正確に覚えてましてね。慌てていたそうで、8時28分が駄目なら8時38分と、頻りに喚いていたそうです」
    「そうですか…」
    「それで害者は外車に乗ったナイフの男に呼び止められるのを振切って、38分発上りひかり号に乗っている。そして9時52分に姫路駅に到着し、ここで消息が途絶えてしまっている。不審な人物に連れ去られた形跡もない」
    「それは妙ですわね」
    「そこで、害者の交友関係を洗ってみたんですが、案の定、犯人と繋がってました。電話の交信記録によると、害者の足取りが途切れた前日の晩、犯人から要求があった模樣です。犯人はフロッピー・デスクを持って姫路駅新幹線改札口まで来い、誰にもつけられるなと指示しています。あと、不可解なことに、現金3万円とるるぶを忘れるな、とも言っておりました」
    「フロッピー・デスクって。訛ってどうするんですか」
    「これは失礼。古い人間なもんでして。発動機といえばヂーゼル、ゴルフ場といえばカンツリー倶楽部、西洋建築はビルヂング、マックシェークはマックセーキです」
    「はいはい。それで真相はどうなんですか」
    「まあ慌てずに。9時13分の新快速に誰が乗っていたのか。ここがポイントです」
    「はあ。で、誰なんですか」
    「あなたの弟さんです」
    「え、まさかひろしが」
    「そうです。真坂浩です。調べてみると、その電車の車掌でした」
    「ふざけないで下さい。帰りますよ」
    「あ、いや、待って下さいよ。犯人の家を捜索したところ面白いものを見つけたんですから」
    「ほほう。一体何ですの」
    「目覚し時計のトリックです。ベルの音に反応して、或る仕掛が作動する樣になっていました」
    「それは興味津津ですわ。一体どんな仕掛けですの」
    「なあに、他愛の無い事です。ボタンに紐が留めてあったのです。目覚しが鳴れば、ベルの音を止めようとボタンを押しますね。ボタンを押せば紐は引っ張られる」
    「それでつっかえ棒が外れて何かが落ちるとかそういう原始的で子供染みた奴ですか」
    「す、鋭いですな。流石一児の母でいらっしゃる」
    「一児の母じゃないって」
    「いや、今、1時なんで。1時のハハハ…なんちゃってえー」
    「全く。一度フライパンで殴ってやりたいわ」
    「勘弁して下さいよ。まあ、子供染みてはいるんですが、バケツの水が落ちる仕掛けになっておりまして、結構有効だと思うんですよ。うまい事考えやがるもんだと感心しました」
    「それでも眠ってられる人の気が知れないわ」
    「いえ、実は違うんですよ、奥さん。犯人に予期せぬ事態が降り懸かったんですな、これが」
    「え?」
    「不思議なことに目覚しが鳴らなかったのです」
    「なによそれ」
    「まあ落ち着いて。近所の聞き込みの結果、犯人が10時前後に慌てて飛び出して行くのを目撃した人がいまして、結局のところ害者が消息を絶った10時頃に、犯人は目覚めた訳ですな。アリバイです。ひょっとしたら無実かも」
    「そんな筈ないでしょ。犯人の目的地は姫路なんだし」

    「いや、それは仰る通りなんですが、そうすると11時の新快速に間に合うにはちょっと微妙なところなんですよ。11時の次の新快速は11時15分。恐らく犯人は、11時十二三分に阪急梅田に到着したのでしょう。切符を購入して改札を抜けて乗車するには、ちょっと間に合わないと考えた犯人は、急遽、JR京都線で新大阪駅を目指し、11時26分発新幹線ひかりに乗車することにした。二千円ちょいの余計な出費だが、一刻を争う事態だ。11時15分の新快速より1分だけ早く姫路に到着できる。だが改札を一つ余計に通過する分だけ時間がかかるから、1分早くても反って遅くなっちゃったりして、この二千円は一体何の為なんだ金返せゼイアールとか思ったりした事ないですか」

    「ないわよ。2時間半も遅れて来て、言う事はそれだけなの。
    恥しかったんだから、もう」
    「ひえ、御免なさい。荷物をお持ちします」

    そして男は高そうな鮨屋へと彼女を誘った。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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