第107話 「ティッシュ競争」
俺の右に立つんじゃない。ここは特許タワー、否、東京タワーの見える特許庁のある町である。高級スーツを纏って熱心に勤務する企業戦士の鑒である私が言うのもちょっと憚るが、私の右に出る者はいないのである。でもちょっと油断するとすぐ右に出て来る勇猛果敢な者がいるので、猛暑の最中でも常に精進である。ゴルゴ十三も常に高級スーツを纏って精進しているが、彼の場合は「俺の後ろに立つんじゃない」である。
企業戦士ともなると高級スーツは勿論のこと、改札を抜けて職場へと向かうフットワークにも気をつけたい。改札を出て勇往邁進の男達が向かう道。線路と垂直に立体交叉する一直線のその道は、虎ノ門へと通じる企業戦士の道である。企業戦士も大変である。なにせファイトマネーの送金が滞っていると、眼帯をしたシルク帽のちょっと不気味なおっさんから送金を催促されるので、用心せねばならないのである。それは虎の穴だって。因みに、私は幼い頃、どうしてこの怪しげなサーカスのおっさんが伊達直人にしつこく付き纏うのかとても不可思議でならなかったのだが、その正しい理由を知ったのはつい最近である。
そんな事を考えながら歩いていると、突如、私の右に出る者が現れた。「貴樣の着ているのは高級スーツではなくて、単に値段が高いだけだ」とでも言いたげな顔をしている。だが御前は既に死んでいる。否、御前は間違っている。フォーミュラ・ワンは中国語で一級方程式。コーナーキックは角球である。一口に高級と言っても、値段が高いとは限らないのである。それにウルトラマン・スーツも結構高いのである。これがウルトラマン・コスモス・スーツだったら危なくて縮められないではないか。全く。
そんな反駁を思案していると、右前方からテッシュを片手に「お早うございまーす」と、ウルトラマンコス、否、麗しい女性が和やかに手を伸ばして来る。何しろ金は路上に落ちている物ではないから、一に節約、二に節約、三四がなくて五に窃盗、は冗談としても貰える物は何でも頂く主義である。この猛暑の中で配る人も箱ごと抛ってしまいたい心境の筈だから、利害関係の一致を見てティッシュ取得は楽勝である。だが、なんと無情にも、先刻私の右に出た男が突如加速して、あっさりと女性の手からティッシュを奪い取るのであった。うぬう。これでは途中まで愛の手を伸ばした私がとても間抜けに見える。仕方がないから途中まで上がった手を己の胸まで持って行き、乳が噴射するゼスチュアをしながら「秩父ー」と言ってしまったではないか。よもやこんな往来の激しい場所で恥しい新芸を披露しようとは思いもよらなかった。
どうやら私が甘かった樣である。一に納豆、二に納豆、三四がなくて五に尼納豆である。険しい企業戦士の道に於いては、ぼうっとしていると脇からすっと現われて横取りする伏兵がいるので尼納豆ではいけない。否否、侮ってはいけない。目指すは50米先の信号手前で待ち受ける二人目のテッシュ孃である。
今度こそ右を取られてはならぬ。闘いに於いて背を取られることは敗北を意味すると民明書房刊の書物にも書いてあるが、このテッシュ争奪戦に於いては右側を取られるのは死活問題である。私は同じ失敗を繰り返す樣な間抜けではないので、今度は右をとられまいぞ。スタタタタ。どうだ、ふふふ。できれば信号が赤に変わってしまう前にゲットしたい。あ、信号が点滅を始めた。猛然とダッシュして奪取するのだ。ダッシュで奪取は闘いの基本と、朝倉書店刊の書物にも載っている。あ、ガムを踏んだ。
然し、私の焦る気持とは裏腹に、右前方にはチンタラと歩く障碍物があったので、歩速を上げて男の左側から追い越すことにした。だが不運にも、追い越しの瞬間、私と男とテッシュ孃は横一線に並ぶ事態に陷った。テッシュ孃は最も近いその男にテッシュを差し出すが、なんと男は聊かも受け取る気配など見せずに無碍に通り過ぎてしまうではないか。そして信号の点滅が気になる私も、流される樣に其の侭テッシュ孃を後目に通り過ぎてしまわねばならないのであろうか。
先程のこともある。先程と比べて更にティッシュ孃との距離があるのだから受け取る意思を繊翳なく表明せねばならず、それだけオーバー・アクションで大きく愛の手を差し出す必要がある訳だが、途中まで愛の手を差し伸ばして再び「ちち、ぶうっ」と言わなければならないのかと思うと情け無く、ここは思い留まるのが賢明である。
早い話が邪魔になって受け取れなかっただけの樣にも見えるが、決してそんな単純な事ではなく、私はこれだけの事を一瞬で判断し、密かに次の作戦をも練っていたのである。何を隠そう、横断歩道の先には第三のテッシュ孃がいたのである。横断歩道手前での繁雑な駆引きに彼是惑わされるより、確実に取れそうな獲物を為留める方が重要である。古田幹雄の定理にもあるように「目先の利益より漁夫の利」である。私はさっさと先へ進んで楽勝ゲットの道を選ぶことにした。ここでダッシュしなくてどこで奪取する、である。
そうと決まれば進路変更である。私はテッシュ孃が容易に手渡しできるポジションへと速やかに歩を寄せた。すぐ前方には女性が歩いている。彼女はテッシュ孃からの配布物に目も呉れずに過ぎ去って行く。どうやら御急ぎらしい。これはチャンスである。テッシュ孃が落胆した表情で手を引っ込めようとするが、そんなことに構っている暇はない。ここを逃せば恐らくこの先にチャンスはない。私はええいと奪取した。ワレ奇襲二成功セリ。
然し、よく見るとそれは待望のテッシュではなく、なんと美容院のビラであった。やられたよ。項垂れて後ろを振り返ると、作業を終えて空箱を撤収するテッシュ嬢の姿が目に入るのであった。
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