第148話「BTRFでお願いします・前編」
スタートアップ「ミライ構造研究所」の社長・田中は、ここ数週間、眠れない夜を過ごしていた。資金繰りが限界に近づき、次の投資ラウンドを成功させなければ会社は終わる。そんな中、業界で名高い投資家・黒川から「一度話を聞きたい」と連絡が来たのだ。黒川は“交渉の鬼”として知られ、数々の企業を救い、そして数々の企業を沈めてきた人物だった。
田中は緊張しながらも、社運を賭けて交渉の席についた。
しかし、意外なことに交渉は驚くほどスムーズだった。
黒川は田中の説明を熱心に聞き、時折うなずき、質問も的確。
田中は「これはいける」と確信し始めていた。
だが、黒川の目の奥には、どこか測りかねる光があった。田中が熱弁をふるうほど、黒川は静かになり、微笑みの角度だけがわずかに変わる。
その沈黙が、田中には“試されている”ように感じられた。
(この人、どこまで読んでいるんだ……?
いや、引くな。ここで弱気を見せたら飲まれる)
田中は自分に言い聞かせ、さらに資料を繰り出した。
黒川はそれを丁寧に受け取り、ページをめくるたびに「ふむ」と短くつぶやく。その「ふむ」が、田中には“合格”のサインに聞こえた。
そして交渉の終盤、黒川は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「では、BTRFでいきましょう」
田中の脳内で花火が上がった。
(きた!BTRF!
Best Total Return Feasible!
つまり“実現可能な最大リターン”!
黒川が最大リターンを認めたってことだ!)
田中は震える手でメモを取りながら、深くうなずいた。
「もちろんです。BTRFで、ぜひ」
黒川は満足げに微笑んだ。
その笑みが、田中には“勝利の握手”に見えた。
だが、黒川の心の内は別だった。
(やはり略語は便利だ。相手がどの意味で受け取るか、確認しないのが交渉の妙味だな)
交渉はそのまま和やかに終了した。
帰り道、田中は高揚感で足取りが軽かった。
社員たちに報告すると、オフィスは歓声に包まれた。
「社長、ついにやりましたね!」
「黒川さんが最大リターンを認めたなんて、すごいですよ!」
田中は胸を張った。
「これから攻めの経営だ。黒川さんが“最大リターンでいこう”と言ったんだ。つまり、我々の未来は明るい!」
その夜、田中は久しぶりにぐっすり眠った。
翌日、黒川の事務所から契約書が届いた。
田中はコーヒーを片手に、余裕の笑みでページをめくった。
しかし、読み進めるうちに、眉がひくつき始めた。
『BTRF保証:Better Than Risk‑Free Guarantee』
投資家が損をしないよう、御社が全リスクを負担すること。
返金時も投資家は株式を保持し、さらに特典を受け取れるものとする。
投資家の時間的損失を補填するため、追加の成功報酬を支払うこと。
田中は固まった。
(……Better Than Risk‑Free?
リスクゼロどころか、投資家が得をする保証?
いや、待て。うちが“Better Than Risk‑Free”される側じゃなくて、
“する側”なのか……?)
震える手でスマホを取り、黒川にメッセージを送った。
「昨日のBTRFとは、交渉論のBTRFではなく……?」
すぐに返事が来た。
「ええ、もちろん Better Than Risk‑Free Guarantee のことです。
最近のスタートアップは略語に強いので、話が早くて助かりますよ」
田中は天を仰いだ。
(略語の多義性で会社が死ぬ……そんなことがあっていいのか)
頭の中で、昨日の自分が得意げに「BTRFでいきましょう!」と復唱していた姿がスローモーションで再生される。
その横で黒川が、あの穏やかな笑みを浮かべていた。
あれは「理解してくれて嬉しい」という笑みではなく、
「理解していないことを理解した」笑みだったのだと、今になってわかる。
社員たちが心配そうに集まってきた。
「社長、どうしたんですか?」
「契約書、何か問題が?」
田中はゆっくりと椅子に座り、深いため息をついた。
「……黒川さんの言ったBTRFは、“最大リターン”じゃなくて、
“投資家が絶対に損しない超保証”の方だった」
社員たちは沈黙した。
「つまり……」
「つまり、我々が全リスクを負う契約だ」
「え、それって……」
「……Better Than Risk‑Free だ」
オフィスに重い空気が流れた。田中は頭を抱えながらつぶやいた。
「略語って……怖いな……」
(続く)
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