第149話「BTRFでお願いします・中編」
その料亭は、都心の喧騒から一歩外れた路地にあった。
暖簾は控えめで、看板も小さい。「選ばれた人しか来ない店」という顔をしているが、実際には、選ばれた“気分”を提供する店だ。
スタートアップ「ミライ構造研究所」の社長・田中は、少し早めに着いていた。座敷に通され、膝の上で手を組み、呼吸を整える。資金繰りは限界に近い。次のラウンドが決まらなければ、半年はもたない。
そんな状況で、投資家・黒川から「食事でもしながら話を」と連絡が来た。黒川は業界で知られた人物だった。穏やかな物腰、柔らかな笑顔。そして、交渉の帰り道で泣いた起業家の数が、実績として語られる男。
ほどなくして黒川が現れた。
着物ではないが、スーツの選び方が、この店に合わせてある。
「今日は静かでいいですね」
その一言で、田中の緊張は少しだけ緩んだ。酒が入り、料理が運ばれ、世間話が一巡したころ、黒川は箸を置き、自然な調子で切り出した。
「では本題ですが、この案件、LTV はどう見ていますか」
田中の背筋が、わずかに伸びた。来た、と思った。
LTV: Life Time Value.
顧客生涯価値。やっと本質の話ができる。
「短期の売上ではなく、LTV を重視しています。
一度きりで終わらない設計です」
言い切った。自分でも少し感心するほど、綺麗に言い切った。
黒川は頷いた。
「ええ、LTV は大事ですよね」
(ほらな)
田中は内心でガッツポーズをした。
漸く、BTRF の失敗を乗り越えて自信が戻ってくるのを覚えた。
あの資料を見せて一気に攻める。そんなイメージが湧き起った。
「Loan To Value の話ですが」
田中は、箸でつまんだ煮物を、口に運ぶタイミングを完全に失った。「え?」
「Loan To Value.
担保価値に対して、どこまで貸せるか、という指標です」
黒川は丁寧だった。寧ろ親切だった。
「御社の場合、事業そのものが担保になりますから」
田中の頭の中で描かれていた攻めのイメージ――
顧客と育てる未来のデザインは、静かに撤収された。
(ああ… 同じ LTV でも、“育てる話”と“差し押さえる話”があるのか)
「なるほど…」
と言いながら、田中は思った。
(危ない危ない。危うくお手付きをするところだったよ)
黒川は続ける。
「Life Time Value のほうも、もちろん重要です。ただ、それは事業が存続している場合の話でして」
この人は、悪気なく言っている。本当に、悪気なく。
田中は頷きながら、心の中でそっとメモを取った。
――略語は、先に意味を確認したほうがいい。
そのメモは、このあと何度も役に立つことになる。
OKR(ズレが可視化される)
LTV の話が終わったあたりで、田中はようやく箸を再起動させた。
(まあいい。金融の人は金融の言葉を使う。それはそれとして、話は続く)
自分にそう言い聞かせながら、煮物を口に運ぶ。
黒川は、場が温まったと判断したのか、少しだけ声のトーンを上げた。
「では次に、実行フェーズですが。ここは OKR で整理できます」
来た。また略語だ。OKR: Objectives and Key Results.
(知ってる。これは知ってるやつだ)
田中は内心、少し誇らしかった。LTVで転んだが、ここは取り返せる。
「目標と成果指標、ですね」
言った。しかも即答だ。
黒川は、にこやかに頷いた。
「ええ、そうです」
(よし)
田中は、ほんの一瞬、この会食を“うまくやっている自分”を想像した。
「まず Objectives ですが」
黒川は、指を一本立てた。
「ここは、私が決めます」
田中は反射的に頷いた。投資家だ。決めるだろう。普通だ。
「次に Key Results のキーですが」
指が二本になる。
「ここは、君がやる」
田中は、もう一度頷いた。まあ、実行は現場だ。これも普通だ。
「最後に Results ですが」
三本目の指が立った。
「理由は、特に要りません」
田中の頷きが、三本目で止まった。
(あれ?)
黒川は穏やかだった。声も表情も、何一つ変わっていない。
「ビジネスはスピードが命ですから。考えるより早くやれ。理由は後からついてくる。です」
「…ですよねー」
田中は、頭の中で OKR を書き直した。
O:俺が決める
K:君がやる
R:理由は聞くな
「なるほど…」
と、また言ってしまった。
黒川は満足そうに湯呑みを持ち上げた。
「最近の方は、略語に強くて助かります」
「そうっすか」
田中は笑った。愛想としては、満点だった。
(おいおい。強いんじゃなくて、“引っ掛けやすい”じゃないのか?)
そう思ったが、口には出さなかった。
その判断もまた、のちに検証されることになる。
(後編へ続く)
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