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第86話 「ヨンドル体験」

    目を覚ますと、一時間十分寝過ごしていた。ううむ。これから出勤するのも何だかなあ、と思っているとタイミング良く後輩から電話が掛かってきた。「レンタカー借りたんで何処か行きましょう」と言う。入国してからまだ日の浅い彼が観光気分なのは受話器越しになんとなくわかるが今日はまだ木曜日。だが、運転に自信もなく自動車も所有しておらぬ身には渡りに船。ここは普段からチェックを入れておいた、電車やバスの便が悪い観光スポットに何としても行きたいところである。引き出しから極秘メモを取り出し、辺りに人気が無いのを確認してから主室に告げる。主室って誰だよ。徐にである。徐って誰ってもういいよ。
    「山」
    「え、何ですか?」
    「いや、だから山」
    「なに寝惚けてんすか」

    何時もながら何故、誰も川と返してくれないんだと不服に思いつつ、
    「いや、すまん。黒い森はどうだ」
    「いいっすねえ」
    「では、ヘヒンゲン、エングスティンゲン、ロイトリンゲン、シュトゥトゥガアトというコースはどうだ」
    「えー、何すか、それ。もっとパアーっといきましょう。ベルリンとか」
    「ぶあかもの。ICE でも一日掛りだぞ。途中で引き返すなら兎も角。良いか。ヘヒンゲンは山頂に聳え立つ孤高のホーエンツォレルン城。エングスティンゲンには断崖絶壁の縁に立つ玲瓏たる楼閣リヒテンシュタイン城。そしてその近くには何とかロッホというドイツ一美しい鍾乳洞もある。それに今はアドベントの時期」
    「何とかロッホって。それに何すか。そのアドベントとかいうのは」
    「毎年この時期に開かれるワイン祭なのだが、水森亜土も弁当持参でやって来る程の絶賛ぶりから、亜土弁当と呼ぶ様になったのだ。あの栗須鱒一もやって来る」
    「嘘っしょ」
    「何で判った」
    「こんな所まで水森亜土が来る訳ないっしょ。而も弁当持参で。それに誰っすか、栗須鱒一って」
    「… クラスマッチ」
    「えっ」
    「… カリスマ・スイッチ」
    「えっ。なんすか」
    「… クリスマス市」
    「え、小泉スイッチ?」
    「だー。なんだよ。それ。ぎゃははは。うへっうへへ。ひっく」
    「何受けてるんすか。真面目にやって下さい」
    「真面目って、だから、ック、クリスマス市だってば。小泉スイッチじゃないって。うひゃひゃっ」
    「ぼそぼそ言うから分からんのじゃないっすか。そんなに笑わんで下さい」
    「いや、すまん。自信なかったもんで」
    「何がですか」
    「否否、こっちの話」
    「で、アドベントってクリスマス市の事ですか」
    「大体そうだけど全然違う。ところでプリズムスイッチを十回言ってみてくれぬか」
    「言いません。いい加減にして下さい。で、本当は何なんすか」
    「一口で言えば待降節なのだが、クリスマスの四週前の最初の日曜に市が立つのだ。ツリーもこの時に立てる。華やかに電飾されたツリーを見上げ乍ら鳥の丸焼を齧る。雪を冠った樅の黒い森林から洩れ出づる霊気を浴び乍ら、熱いグリュー・ヴァインを一杯二杯とひっかける。暗雲立ち籠める寒空の下ではこれが一番である」
    「貧乏」
    「各家庭では、樅の枝葉で作ったクランツに四本の蝋燭を立て、最初の日曜に一本だけを燈し、次の日曜に二本を、その次の日曜にサンコンを、そしてクリスマスの晩に四本全ての蝋燭を燈すのである。元々は嘗ての狩猟民族が暗黒の森と畏れをなし、林中を駆け抜ける際に魔避けとして被っていたのだが、今日は熱海か明日は彦根と息絶え絶えになり乍らも老足に鞭打って見事アテネまで走破し卒倒絶命した男の名クランツを、胸に刻み永遠に忘れじと誓ったのが起源とされ」
    「貧乏」
    「教会の中にもツリーやクランツ、キリストの降誕を告げられた羊飼いと動物達の人形が飾られ、厳寒の中に厳かだが温かい雰囲気を釀し出す。ああ、主よ、今日も家族の温もりを有難う。そして主への細やかな気持ちとしてコインを函に投入する。チャリーン。しーんとした大理石の堂内に響き亘る金属音。これが本当のチャーリー・シーン」
    「貧乏」
    「ホント先刻から貧乏貧乏って煩い。全く気に障るインターホンだ」
    「貧乏」

    復だ。はいはい、出ます、出ますってば。と、応答に出てみると、何と後輩である。
    「はれっ。電話に出てるんじゃ」
    「何言ってるんすか。疾っくに切りましたよ。しつこく笑うし」
    「でも、来るのちょっと早いんでないか。三十分はかかるだろう」
    「携帯ですってば」
    「ゑゑゑのゑ。こんな所にまで諸悪の根源を持ち込むんでない」
    「諸悪の根源って」
    「では、気をとり直して出発といくか」
    「え、今日行くって言ってないっしょ」
    「へ?」
    「明日あした。それより約束の酒持って来ました」
    「そ、そうか。じゃあ飲むか」
    「今からっすかあ」
    「この状況で仕事行けってか」
    「何言ってんすか。今日休みっすよ」
    「あれ、そうだっけ。だったら尚更である。ほうれ一杯」
    「仕方ないなあ。じゃ、頂きまーす。ぐび。でね。城はいいんすけど、何とかロッホは止めませんか」
    「え、何で?」
    「中国にも有名な鍾乳洞あるんすけど、中入ってみたらペンキで絵ぇ描いてるんすよ。もう、そんなんで喜んでるんだからしょうもないっすよ」
    「中国と一緒にすんなよ。見た事あんのかよ」
    「ないっすけど、似た様なもんですってば。パスパスぅ。ぐびぃ」
    「… うーん」(何を考えとるのだ此奴は)
    「で、何処行きます? ぐび」
    「… うーん」(城と鍾乳洞に行きたいんだけど)
    「俺は鍾乳洞より、この前先輩が言ってたジグザグニンゲンとかいう城の方がいいなあ」
    「ジグマリンゲンか」
    「そうそう。それ」
    「… それ、電車で行けるんだけど」(夏に一人で行って来たんだってば)「いいじゃないっすか。ぐび」
    「ホーエンツォレルン城とリヒテンシュタイン城を見た後で其処迄行くと既に閉館時間だって」
    「いいっすよ。どうせ俺は嫁さん来た時の為の下見だから」
    「矢つ張り、車の機動力を生かした場所を選んでだなあ…」
    「えっ? 料簡狭いねー」
    「いや、その、なんだ。リヒテンシュタイン城からすぐ近くなんだし」
    「俺は何処でもいいんだけどね。ぐび」
    「… うーん(だったらがたがた言うなよ)ちょっと、しょ、鍾にゅ、あいや、醤油取ってくれないか」
    「これっすか。で、どうします?」
    「… なんかなあ」(それって念押かよ)
    「さっさと決めましょう。どうします」
    「… 暗がりの中の下見はちょっと寂しくない?」
    「だったらどうするんすか」

    痺れを切らしたソンヨンドル様のおっかない顔に鋭い睥睨の視線が走った。勘違いして貰っては困るが損四ドルではないのである。此奴はごっつい体だし、すぐに逆切れするしで少々扱い悪く、そんな次第で是迄にも時々、あからさまにキャッチャーを立たせて敬遠するかの如く糊塗した態度をとってきたので癪に障ったのであろうか。暫く沈黙が続いた後、猶も復、男の眼光がギラと煌めく。
    「で、どうします」

    もうその言葉は聞き厭きた。だがソンヨンドル様の男の声には明らかにドスが効いている。どうすると言われても私は最初に示したプラン通り行きたい。行きたいから提案したのであって、以前から入念に考えておいたコースなのにポッと出の何にも考えてない四ドル損の瞬間湯沸器に文句を言われる筋合いは無いのである。などとは口が裂けても言えぬ。然し、この儘この怪獣を懐柔するのも難儀である。これ以上、私の口から何を求めようというのだ、ソンヨンドル。そんなに四ドルが惜しいのならくれてやる。それとも「俺の言う事をきけ。然もなくば頭の上で回している皿をかち割るぞ」という積りなのであろうか。はたまた「真面目にやれ、この惚けが」と言い乍ら、私が今掛けているちょび髭附黒縁眼鏡を引っ剥がさんとするのであろうか。

    んんん。なんか目が据わっているぞ。まずい。ここで一発盛り上げて機嫌を取っておくか。
    「栗須鱒男はゆっくり済ますぅ」
    「…」
    し、しまった。逆効果だ。遂にソンヨンドルの右手が上がった。その時、私は男の目がくわっと開いたのを見逃さなかった。も、もう駄目だ。殺られる。ひい。こんな状況でつい茶目っ気を出してしまう己の軽佻な迂闊さを後悔し乍ら、私は最後の言葉を耳にした。

    「徹夜開けで眠いんで、ちょっと仮眠させて下さい」

    男はそう言って右手を頭に遣り乍ら、深い眠りに就くのだった。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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