第124話 「電車一本」
私はこれ迄の生活において東京ほどの人混みを経験した例はなく、そのパーソナルスペースの狭さには嫌気が差している質なのだが、それだけなら未だしも電車の座席で両股を開いて幅を取ろうとする男性諸君には辟易する。
これは多くの人が座れるようにとの配慮からではなく、他人である私のパーソナルスペースに平然と侵入してくる態度が我慢ならないというのが専らの理由である。逆に言えば、私は他人のパーソナルスペースを侵すことは極力避けており、雑踏の中でも踵を蹴らぬ様に、ぶつからぬ様に注意しており、当たって仕舞った場合は自ら謝罪の言葉を投げることを心掛けている。
ところがである。どうも日本人は型に嵌まりたいのか接近戦を好むのか、スペースがあると何故か入り込もうとする。兎に角、座席で脚を閉じているとぐいぐい股を開いて来るし、脇を絞っていると空いた空間に入って来るし、月に一度は必ず踵を蹴られたり踏まれたりもする。男の生暖かい太腿を密着されてもちっとも嬉しくないし、格闘技において背を取られることは敗北を意味するというが、私の後ろを取ったところで何の得にもならないのである。
そんな私の悩みを象徴するかの様な事件が、最近、カップラーメンに降り注ぐ熱湯の如く私の身に降り掛かったのである。いつもの如く始発電車のホームを真直ゆっくりと歩いていると、男が私の側方から追い抜きを掛けて突如前にしゃしゃり出て来るではないか。別に急ぐ理由もない私は、歩速を上げることなく等速直線運動を行っていたのであるが、何故か私の右足は彼の踵に軽く弾性衝突した模様である。否、物理法則に従って冷静に考えればその理由は彼の無理な割り込みにある訳なのだが、どうして彼が逆スリップストリームとも言うべき斯様なスレスレ行為に及んだのか、私には全く理解できなかったというのが寧ろ正しい記述である。車の追い越しに於いても十分な追い越し車間を得た上で車線変更するのが常識である。
だが突然現れたこの男の第一声。
「気をつけろ」
私は決してぼーっとしていた訳ではない。男が接触原因であるにも拘らず、これほど露骨に抗議してくるまさかの意外性に私は一瞬怯んでいると、間髪を容れずに男は険しい顔付きで再び言うではないか。
「気をつけろ」
うぬう。敵も己の強さを誇示したいのだろう。セカチューだかピカチューだかハイチューだか知らないが自己中な輩にあり勝ちな傲慢な態度である。だが、私とて理不尽な言い掛かりにおめおめと引き下がる程、間抜けではない。日頃、仏の山さんと呼ばれる私も、これには少々頭に来たので冷静に戦闘態勢に入ることにした。
戦に勝つ為には、状況分析が必須。先ずは敵の身形分析からである。年齢は50代といったところで、スタジャンにセカンドバッグというその出で立ちは、如何にも私の学生時代に駄目学生が好んでいた阿呆の象徴のような恰好であり、例えるなら超スーパー・ハイパー・ウルトラ極クラッシク版スーパーフリーとも言うべきで、どう見ても真面な会社員には見えぬ姿である。八九三稼業かどうかは知らないが喧嘩を吹っ掛けても失うものはないらしいと見えるが、私は現在の地位がとても惜しいのである。
お次は体力分析である。どう考えても私の方が遥かに若いのだが、相手は特に筋骨逞しい風でもない。身体能力が互格なら、若い方に歩がある筈だ。ライダーキックをお見舞いしてやろうかとも思ったが、いくら正当な理由があろうとも傷害を負わせれば加害者となって仕舞うし、事情聴取で仕事が遅れるのも嫌だし、こちらも腰痛を抱えての乱闘はお断りである。だが、この威勢の良さは一体どこから来るというのだ。は、もしやそのセカンドバッグの膨らみの正体は拳銃か。いくら私が毎日、腹筋千回とヒンズースクワット千回と腕立伏せ五百回のビデオを観ているからといっても、相手が武器を持っていては敵わないのである。それともあれか。散散殴られた後で「今日はこれくらいにしといたるわ」という落ちなのであろうか。ううむ解せぬ。
こんな阿呆と殴り合って時間を無駄にするのは嫌だし、忙しい私の時間はもっと有益な事に使わねばならぬし、仏の山さんのキャラが崩れるのは非常にまずい。という訳でここは心理戦に出るのが得策である。敵の望み通り謝意を陽に示しつつ、同時に謝罪心など微塵もない事を陰に示し、最短時間で敵を不完全燃焼のまま退散させる。これが私の立てた戦略である。
戦闘開始である。先ずは、数秒間の睨み返し攻撃。幸いにして腰痛のため眉間には皺が寄っているし、充血したドライアイで睨んでおけば迫力満点である。この野郎。お次は、決して頭は下げない慇懃無礼な謝罪攻撃。飽く迄も平静だが声量は大きく、周囲に明瞭に聞こえるようにが基本である。幸いにして風邪で嗄れ声になっているので、迫力には事欠かない。どこか納得できぬが謝ってることだし仕方あるまい、という気にさせなければ私の敗けである。だが、余り刺激し過ぎて拳銃を使わせてはまずい。高度な技が要求される場面である。
「…すみません」
「気をつけろ」
「…すみません」
敵も中中やる。
第三者が絡んでくると厄介なので、頼むからそろそろ止してくれと思った瞬間、男は漸く諦めたのか顔を引き攣らせて離れて行くではないか。おお。だが、数メートル先で鋭い眼光をこちらに向けるや否や、セカンドバッグを開き、膨らみから何やら黒い物体を取り出すではないか。う。何だか表情が厳しい。ああ、ひょっとしてそれは拳銃。ひ、助けて神様。と、思ったら男は携帯電話に出ているではないか。ああびびったぞう。
取り敢えず難を逃れたものの、翌日、出会さないとも限らない。帰宅後、私は万一に備えて、別人に見える様にと髪を切ることにした。散髪を終えて今朝の出来事を家内に話すと
「すっきりしたね。ぱっと見は別人かも」
「これで服装も変えれば完璧だな」
「だったら眼鏡も掛ければ」
「おお、ナイス・アイデア」
て、最初からそれで充分だったかも知れない。そして翌日の晩。
「今日、おっさんに出会った?」
「いや、電車一本遅らせた」
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