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第41話 「裾直し」

    女もすなる裾直しといふものを男もしてみむとて、裾直し用テープを所沢の百円ショップで購入するなり。その動機たるや、ただ旅券センターからの帰途に偶々あった百円ショップで接着テープを見つけたからという全く気まぐれで凡庸なものであるが、不覚にも「発券の帰りに発見」という下らない駄洒落を思いつき、というかそれを実行して仕舞っているという点が妙にツボに嵌ってしまったのである。日常生活に於いて都合良くリアル駄洒落になっている状況など滅多になく、それが如何に詰まらなくとも体験した本人は異常な興奮を覚えるというのが人間の性らしい。喜び勇んだ私は早速、寸法合せがてら、伯母を相手にこの駄洒落を試してみることにした。

    「これ、パスポートを発券してもらった帰りに発見したんだ」
    「何これ。へえ、こんな物があるんだねえ」
    「うん。で、発券手続の帰りに…」
    「え、何かあったの?」
    「いやいや大した事じゃないんだけど、え、駅前で八犬伝って居酒屋を発見したんだ」

    勿論口から出任せであるが、ちょっと引き攣っている。伯母は応えて言う。

    「曲亭馬琴の南総里見八犬伝かねえ。仁義礼智忠信孝悌の八犬士でしょお?どうして居酒屋なのかしらねえ」

     そんな説明的な突込みなど真面に相手をしていては疲れるのであっさり聞き流して、今度は別の角度から探りを入れる。

    「伯母ちゃんピアノ音楽好きなんでしょ。ショパンの黒鍵って知ってる?ええと白鍵だったかなあ?」
    「ゑ、い゛ゃっははは。白鍵な訳ないじゃん。黒鍵でしょお。なに馬鹿な事言ってんのよ。ねえ、将臣」
    将臣は私の従兄である。奧の方から声が届く。
    「あんたも鈍いねえ。さっきからハッケンハッケンって言ってるでしょ。っはははは」

     ううむ。ばらされてしまったか。次に「当るも八卦当らぬも八卦」と言おうと思ったが、将臣から「太極陰陽四象八卦六十四卦の八卦で乾兌離震巽坎艮坤の事か」などと突っ込まれては堪らない。引き際が肝腎である。

    そうこうするうちに寸法合せも終り、ずれない様に小町針を打つ。ズボンの先は若干細めなので、折り返した時に円周が拡がる様に V 字カットを施しておく。切れ目は接着テープの幅を越えてはならぬ事を念頭に置いて入鋏する。ジョキジョキ。後は接着するのみであるが、ここからが本番である。なにぶんアイロンを扱う危険な作業なので精神を統一する。寸法合せの終了した二本のズボンをアイロン台の横に並べ、水を入れた洗面器と木綿の布巾を用意し、アイロンの電源を入れて熱くなるまで両目を閉じて三分間待つ。「これで三分後にはカップ麺が出来上がりぃ。ズルズルッ」と、独りで惚けていると、丁度それを聴きつけた舞が隣りにやって来た。舞は将臣の弟の第一子長女である。

    「でっき上っがりい〜。ズルズルッ。何してんの〜」
    「うむ。これから伯父ちゃんがパンツの手術に取り組む」
    「ええ〜、それパンツじゃないよ。ズボンだよ。知らないの?」
    「ズボンとは和蘭語の jupon が訛ったものじゃ。幕臣大久保誠知がずぼんと足が入ると言ったので、そう呼ばれる様になったのじゃ」
    「え、舞ちゃん大久保って人知ってるよ。同じクラスなの。お父さん発明家なんだって。ズボンは誰が発明したの?」
    「それは、パンツ・トラウザーというイギリスの人が発明したのじゃ」
    「えぇ〜、嘘でしょ」
    「うん、ちょっとだけね。正確にはハンス・トラウザーで、ハンスが訛ってパンツになったのじゃ。舞ちゃんも何か発明したら、舞ちゃんの名前がつくぞぉ」
    「ほんとに」
    「本当じゃ」
    「じゃあ広島のおじちゃんが何か発明したら、広島のおじちゃんの名前がつくの?」
    「そうじゃ」
    「すごいね。健太。広島のおじちゃんの名前がつくんだって。ねえ、聞いて聞いて。節子お婆ちゃん…」

    未だ何も発明しとらんがなと思い乍ら、ダダダっと駆けてゆく舞と健太の姿を暫し確認してからアイロンに触ってみると、既に熱い。バタバタと騒々しい健太が離れた今がチャンスである。水に濡らした接着テープをズボンの上に置き、濡らした布巾を上から当ててアイロンでプレスをかける。一気に行うと皺になる虞れがあるので、端から数センチずつ順にプレスして行く。余りに簡単だし、舞と健太も戻って来たので、調子に乗って実況中継が飛び出す始末である。

    「ランナー一塁を蹴って二塁へ。先刻の V 字カットがテープの幅に収まるかあ。際疾い。際疾いが、判定は、セーフ。セーフです。ピッチャー現在、テープの乱れを確認修正しております。さあて、ピッチャー投げた。打ったあ。二塁ランナーは三塁へ達したあ。こおこでピッチングコーチが出てきます。何やら指示を与えている様ですがあ。おっと、布巾の水分が足らない模様です。老人バッグいや洗面器に布巾を浸して絞ります。さあ試合再開。ビッチャー投げた。カキーン。ボテボテのサードゴロだあ。三塁ランナーホームへ向けて走る。突入だ。アウト!アウトだ。え、いや、キャチャーボールを零している。アイロンコードが引掛かって水もちょっと零れています」

    などとやっている間に出来上がりである。良し。後は完璧に仕上がったズボンを自慢げに見せびらかすのみである。まずは完璧な仕上がりを自ら観賞すべく、ズボンを拡げてみる。じゃーん。んん、何かちょっと変な気がするが。

    あああっっぁ。し、しまったあ。

    何と、接着面が表側に顕になっておるではないか。

    おお、でも舞と健太はこの異常に気付いていない。惟幸いと見せびらかす予定を急遽変更し、「ズボンと謂えば米国言葉でパンツ、英国言葉でトラウザーなり」と、幼子向けに軽い蘊蓄を噛まして烟に巻きつつも、然りげ無く速攻で後片付けをし、頭上に「?」を掲げる幼き二人を残して二階の自室へ退却するのであった。後日、誰もいない隙にこっそり直したのはいうまでもない。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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