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第162話「ケリー君」

    言葉の誤用だけならまだ可愛いものだ。世の中には、語彙だけでなく数理のほうでも壊滅的な男がいる。その両方を兼ね備えた稀有な人物。
    言わずと知れたあの最強男、ゲチ社長である。

    何を隠そう、会社の計算資源を独断で占有して競馬の勝率モデルを回していたのである。そうは雖も、なにぶん多忙な社長の身。腐っても鯛。
    会社の顔として外交には事欠かない。だから、分身役として若手社員が登用される。禁則事案を任されたこの可哀そうな彼を「ケリー君」と呼ぼう。もちろん仮名である。

    経験の浅い若手社員にとっては、上役の話は抽象的になることが多く、何を言っているのか具体的な想像ができずに、四苦八苦するのはお約束。
    たとえば、
    「あの赤本読んでおけ」
    「赤本ですね」
    と勢いよく席を立つ若手ケリー君。
    「おい、どこへ行く…」
    と上司の声掛けもタッチの差で交わし、戻ってくると
    「赤本さん呼んできました!」
    「違う!」

    人物紹介はこれくらいにして、本題に戻るとしよう。或る日、サーバールームのCPU使用率が100%になって固まる事件が発生した。CPUという辺り時代を察していただきたいが、社内はちょっとした騒ぎになった。原因を調べると、ケリー君のプロセスが延々と走っている。
    「そこで何してるんだ」
    「競馬の勝率モデルを回してます」
    「仕事は?」
    「これが仕事です」
    「誰の?」
    「僕のです。ゲチ社長の指示です」

    堂々としたものだった。会社が傾いているというのに、CPUだけは元気に回っている。何も知らないケリー君も、上機嫌に稼働している。
    そこへ社長がやってきた。
    「お、ケリー君。勝率はどれくらいだ」
    「68%です」
    「よし! これで一山当てて我が社の解析技術力をアピールするのだ!」
    嫌な予感しかしない。

    ゲチ「ケリーの法則に従えば万全だ。理論的に正しければ負ける筈がない」
    緑皮「…社長、ケリー基準は破産確率を最小化するための投資比率でして」
    ゲチ「よし、リスク・リワードを10倍にしろ」
    緑皮「え?」
    ゲチ「勝率7割ならここは勝負だ。我が社の技術を信じろ」
    ケリー君は、社長が何を言っているのか理解できなかった。
    「ケリーの法則を知っているか」
    「いえ」

    一体いつから法則に格上げされたのか知らないが、それは期待値が正の賭けに対し、長期資産成長率を最大化する賭け金比率を示す理論とでも言っておこう。私はホワイトボードに式を書いた。f = p - q/b
    「ケリー君、これがケリー基準だよ。pが勝率で――」
    「よし、それで b を最大化しろ」
    「…pですか? 既に68%で十分大きいすけど」
    「違う。bだ。フルスロットル」
    「では、3にしましょう。ケリー君、3にセットして」
    「駄目だ。もっとだ。10にしろ」
    「いいんですか? そんなに欲張って」
    「理論的に正しければ負けるはずがない」

    それは前提が正しい場合の話だ。勝率モデルの計算に余程の自信があるのだろう。そしてレース当日を迎える。
    一戦目、外す。
    「想定内だ」
    二戦目、外す。
    「ブレだ」
    三戦目、外す。
    「流れが悪い」
    四戦目。
    「勝率68%でしたよね」
    「来てる日というのがある」
    「そうですか。全然来てないですけど」
    「仕方ない。ハーフ・ケリーで行こう」
    「勝率は見直しますか?」
    「いや。流れが来ている気がする。このまま行こう」
    (全然、論理的じゃないな。この人)
    勝率は68%どころか実際には42%だった。学習データが勝ち筋に偏っていたため、実質下駄を履いた状態の駄目予測。理論は忠実にデータの偏りをフォローし、資金は理論通りにきっちり減っていった。
    理論的に正しく負けてまっせ。旦那。

    それでもCPUは回り続け、本業のバッチ処理が遅延し、顧客から問い合わせが来る始末。資金は溶け、CPUは熱暴走し、電気代だけが激増する。計算が完了すると馬券購入まで自動で済ませてしまうというから、大した熱の入れようだ。私財投入とはいえ、本業圧迫は本末転倒。どこが解析技術のアピールなんだか、開いた口が塞がらない。本業でもっと頑張れよ。

    翌週の経営会議。
    ゲチ「この件はケリー君が自腹でやってるから問題ない」
    役員A:(自腹…? サーバー使用料のことか?)
    役員B:(自腹…? 遅延損害金のことか?)
    役員C:(自腹…? 競馬の掛金のことか?)
    沈黙。
    議事録担当が恐る恐る聞いた。
    「……自腹とは、どの支払いのことでしょうか」
    「支払いじゃない。自腹は自腹だ」
    「……電気代も自腹ですか?」
    「そういう問題じゃない」
    議事録にはこう記された。
    「本件については、ケリー君が自腹で立替精算済みとのこと」
    役員は誰一人として、その意味を説明できなかった。

    最終的にケリー君のモデルは破綻し、会社の損失は過去最高となった。
    社長「報酬が足りなかったな」
    ケリー「…そうですか?」
    緑皮:(十分貰ってるだろ。この暴走社長)
    社長「違う。リスクを取りすぎたな」
    ケリー「…」
    社長「次はバックテストをしっかりやれよ」
    ケリー「…はい」
    社長「大根売りはしたくないからな…」

    どうやら予測はアバウトでも、運用でカバーできると言いたいらしい。
    ケリー君は、社長が何を言っているのか理解できなかったが、
    この賭けに乗るのは危険なことだけは理解した。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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