第7話 「ビールの泡」
ビールを美味しく飲むための秘訣の一つとして、泡の処遇に注意を払うべきは多くの人が知るところである。然るに、ビールを美味しく飲む為の世界三大要素と云うものがある事は、ビール党の間でも余り知られてはいない。私も独逸人のミヒャエルから教わった時は、膝を叩いて正鵠を射たりと感服したものの、いざ日本語に訳してみると可成り胡散臭い。何しろ、暑い、熱い、厚い、と全て同じ音の三アツイである上に、況や世界三大要素であるからちょっと心許ないのである。
最初の「暑い」は言わずと知れた夏の暑さの事である。猛暑の中で汗をかきかき飲むビールは格別である。いくら世界三大要素が胡散臭いとはいえ、これに異論を挟む者は然う然ういないと思う。万が一にも、世界三大要素反駁の為に立ち上がらんとする者がいるならば、南半球へ移動して冬の暑さの中でビールを味わうという企ても考えられようが、その為だけに海外旅行をする金があるのなら、貧乏な私に寄付して戴きたいのである。
二番目の「熱い」は謂わゆる肴の熱さである。程好く加熱された肴は冷えたビールと調和する。肴はカロリー補給の役目も果たす上、食べて踊ればカロリー消費によってこれまた熱を産生する。この肴と「熱い」と「暑い」の恐るべし三位一体攻撃は、熱の循環によって暑さを喚起し、ビールの消費を促すのである。又、人間は体熱を失うと生命を維持できないし、夏の暑さに勝つこともできぬ。熱いと暑いは表裏一体の世界。ビールを熱燗にして飲み干せば、全ては渾然一体となり、貴方を絶妙の世界へと誘うこと請け合いである。但し責任は持たないが。
そして最後の「厚い」は泡の厚みである。泡鬚をつけながら飲み干すビールは格別である。そのために厚みは欠かせない。厚さ十分の泡を如何に生成するか、し過ぎないか、その調整は意外と難しい。「暑い」と「熱い」までは巧く対処出来ても、最後に泡の関門を潜り抜けなければ総てが水泡に帰すのである。まあ元々、水と泡なのであるが、ここは気楽に厚底の靴にビールを注いで一気に飲み干せば、全ては渾然一体となり、貴方を絶妙の世界へと誘うこと請け合いである。但し、私が如何にふざけた話を書いているとは雖も、そこまでするほど私は落ちぶれてはいないし、百万円くれたらやってみ…、ごほごほん。流石に世界三大要素のトリを務めるだけの事はある。侮ってはいけない。
因みに、独逸生活によって人生に厚みを増したと言われる私でも、厚底だけは苦手である。私の在独当時、日本では厚底なるものが流行っておりバランスを失して転倒した挙句の果てに死傷者続出、という記事が某週刊誌の電網サイトで発信された。最近の若者は足腰が弱くなったという主旨は、山姥メイクと併せて日本の行く末を案じる世紀末論調に一層拍車を掛けていた。時は1999年も残すところ僅かの10月、記事に共感を覚えた私は「私の履いている靴も底が三糎もあるが転倒したりはせぬ。一体どういう事だ」と、疑念を抱いていざ帰国すれば、三糎どころではない。甚しい勘違いが露見してアワワと言わんばかりの逆文化衝撃である。こう言う点でも「アワ」と「厚い」は結び付いているのは興味深い。
偖、泡の生成はビールの形態に応じて行う。瓶か生かである。生の場合は私も知らないのでウェイターに任せておこう。良い泡は二層構造になっていて、上層が白色、下層が白濁した茶色という事になっている。下層の御蔭でジョッキを傾けた後でも下から泡が再生されるのである。いかに馴染の店であっても、泡が溢れたり、泡を掬ったり、溢れを抑える為に上に蓋をしたり、泡を飲んでしまったり、オーダーを急かしたり、頭に御盆を載せてクルクル回ったりするウェイターは要チェックである。別な意味で。
次に瓶である。缶であっても良いが瓶の方が適度な重量があってやり易い。今、私の目の前に瓶ビールがあるので実演して見せよう。操作は二段階からなる。先ず第一段階は、栓を抜いたビール瓶を高々と掲げ、秘密の呪文を唱えながら三回廻って半分だけ注ぐのである。さあ、諸兄も実践して頂きたい。ここで大事な点は、呪文を唱える事でも三回廻る事でもあろう筈がなく、グラスの半分まで注ぐ事なのである。間違って一瓶の半分を注ごうものなら辺り一面泡だらけの大惨事に至るので、その時にこそ雰意気を紛らわせる為に三回廻って戴きたいのである。のであるじゃないだろ。然し、先に呪文を唱えながら三回廻ってしまった人よ、残念がることはない。ビール瓶半分をグラスに注いで仕舞うよりはましである。こうして無事グラス半分まで注ぎ終えれば、第一段階は終了である。
次に第二段階は、瓶をグラスに当てて化学実験の如く、グラスの壁を伝わせてビールを流し込めば完了である。であるが、実はこの操作に入る前に是非やっておかねばならぬ事がある。呪文を唱えるのである。今度こそ。嘘だとお思いの諸兄は試して頂きたい。この呪文の出来如何でビールの味が決まると言っても過言ではない。その呪文とは「ハラヘレホロホ、ペケペノペ。オッペケペッポ、ペッポッポ」であり、ゆっくりと息継ぎを入れて三回唱えるのが骨である。早過ぎてはいけない。好みに応じて四回でも良いが、冗長にならぬ様、呉呉も気を付けて頂きたい。傍から密かに聴くと結構間抜けであったりするが、そんな事でめげないで欲しい。ビール道を、世界三大要素を究める為に、是が非でも通過せねばならぬ険しい関門なのである。先程の第一段階で不覚にも呪文を唱えてしまったり、変なウェイターと一緒に三回廻って仕舞った人なら、もうこんな恥ずかしい呪文なんてへっちゃらである。これを免疫効果という。
こうして私とミヒャエルは訳の解らない呪文を何度も唱えて、その有効性を検証しながら夜を明かすのであった。ういー。
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