
「私、薬剤師なんで。 〜桜ノ町薬局、本日も平常運転〜」第8話 逃げた日、戻る朝
前の話はこちらです。
午前8時43分。
桜ノ町薬局の自動ドアは、まだ動かない。
開局前の薬局には、消毒用エタノールと紙の匂いだけが薄く残っている。千晶は裏口から入り、調剤室で白衣に袖を通す。袖口に指を入れて、内側へ折れていないか確かめ、胸元に名札をつける。
管理薬剤師 柏木。
二行の文字を指で押さえ、少しだけ曲がっている気がして外す。もう一度つける。白衣の布を引き、名札の端が水平か見る。
一度で済む動作のはずだ。
薬歴端末を立ち上げる。昨日の訪問記録を開き、森脇清嗣の欄を確認する。痛みの変化。眠気。吐き気。翼在宅医療クリニック、訪問看護との連絡先。椿隆志が帰局後に見直した欄には、必要なことだけが残っていた。
確認は、足りています。
画面の白さの奥で、昨日の声が薄く鳴った。
千晶はマウスを置き、同じ記録を上から読む。
説明内容。
家族不安。
連携先。
次回確認。
不足はない。けれど閉じる指が動かない。保存時刻まで、もう一度見る。昨日も、帰局後も、閉局前にも見た。
それでも、見ないと落ち着かない。
受付側でプリンターが鳴る。福田芳江が朝の準備を始めている。薬袋の束をそろえる音、レセコンの起動音、紙幣トレーを置く小さな音。浜口柚衣がOTC棚の前でマスクの箱を前出ししている。
いつもの朝だ。
いつもの朝に戻れば、戻れると思っていた。
「柏木さん、昨日の折り返し、翼在宅医療クリニックから一件あります」
浜口が付箋を持ってくる。紫の電話札と一緒に、白カゴの端へ貼られていた。
「ありがとう。開局前にかけます」
千晶は白カゴを引き寄せ、付箋の文字を読む。電話番号。担当者名。昨日の訪問後の連携確認。
それでも、受話器を取る前に薬歴を開いた。患者名を確認し、昨日の記録を確認し、翼からの指示メモを確認する。受話器を持つ手が、まだ通話ボタンを押していないことに気づく。
「お電話代わりました。桜ノ町薬局、柏木です」
声に乱れはない。
相手の用件も、記録の補足だけだった。訪問看護へ共有済み。次回、眠気と便通を確認。薬局側の追加対応なし。
「承知しました。薬歴にも追記します」
電話を置き、千晶はすぐ薬歴へ入力する。主語を入れ替え、時刻を直し、連携先の名称を正式名にする。保存して、開き直す。もう一度読む。
受付の向こうで、自動ドアが開いた。
開局のチャイムが鳴る。
最初の処方箋が来る。福田が受付し、入力し、白カゴに処方箋と薬袋、薬剤情報提供文書を入れて調剤室へ回す。千晶はその白カゴを受け取り、処方箋と入力内容を照合した。
患者名。日数。規格。用法。前回との差異。薬歴。お薬手帳。
普通の内科処方だった。前回と同じ。薬袋も合っている。
千晶は薬袋の印字を指でなぞる。朝食後。夕食後。寝る前。数量。患者名。
もう一度、処方箋へ戻る。
薬袋へ戻る。
白カゴの中の薬へ戻る。
「柏木」
楠山啓一郎の声が、鑑査台の向こうから落ちてくる。
千晶は顔を上げた。
楠山の視線は、手元の白カゴではなく、千晶の指先へ向いている。
「その処方、変わりあるか」
「ありません」
「疑義は」
「ありません」
「不足は」
「ありません」
「じゃあ、次へ回せ」
「はい」
返事をして、千晶は白カゴを押し出す。押し出してから、薬袋の口がそろっているか気になった。もう一度だけ手を伸ばしかける。
楠山が、そこで作業を止めた。
「柏木」
今度は少し低い。
「はい」
「今日はもう上がれ」
待合の椅子で、患者が一人、番号札を手にして座っている。福田は受付端末に向かい、浜口はOTCレジでバーコードを通している。薬局は午前の形になっていく。
「でも、まだ午前中です」
自分でも、反射みたいな返事だと思う。
楠山は、ため息をつかなかった。怒った顔もしない。ただ、白カゴの側面についた電話札を一枚はがし、別のカゴへ貼り替える。
「有給を使え。薬包紙より有給消化のほうが心配だって、前にも言っただろ」
福田が端末から顔を上げた。浜口も、レジの前で一瞬だけ手を止める。誰も何も言わない。
千晶は口を開きかけた。
午前中です。外来が始まっています。薬歴も残っている。昨日の訪問記録も、もう少し整えたほうが。
言葉はいくらでも出せる。
全部、仕事の形をしている。
「……分かりました」
そう言うまでに、少し時間がかかった。
楠山はただ頷く。
「白カゴは俺が見る。電話は浜口さんから俺へ回して。福田さん、柏木の今日の予定、在宅以外は俺に振って」
「はい」
福田の返事は早い。いつも通りだった。いつも通りだから、胸の奥が少し痛む。
千晶は薬歴端末をログアウトした。
患者名が消え、サインイン画面だけが残る。
胸元の名札に、目が落ちた。
そこだけが、やけにはっきり重かった。
*
更衣室は狭い。
ロッカーの扉を開けると、予備マスクと、折りたたみ傘と、白衣用の替えボールペンがあった。千晶は白衣のボタンを外す。胸元の名札が、最初に手に当たった。
管理薬剤師 柏木。
管理薬剤師として薬局に立つ時、患者が最初に見る文字。春日樹や浜口に指示を出す時、無言で責任を背負わせてくる小さな板。
千晶は名札を外し、ロッカーの内側の棚に置く。
軽い音がした。
次に、白衣のポケットから保険薬剤師印を出す。小さな印鑑ケース。何度も開け閉めして、角が少し白くなっている。処方箋や書類の上で、薬剤師としてここにいることを残すためのもの。
千晶はそれを、所定の引き出しへ戻した。
名札と保険薬剤師印を置くと、白衣はただの布になる。
私服のカーディガンに袖を通す。鏡を見る。顔色は悪くない。髪も乱れていない。目も赤くない。
顔だけなら、働ける。
それが一番、信用できなかった。
更衣室の外では、薬局が動いている。
福田の「お待たせしました」が聞こえた。浜口が患者に体温計の返却場所を案内している。奥では楠山が白カゴを動かす音がする。千晶がいなくても、薬局は止まらない。
その音を聞いていると、置いていかれるような気がした。自分が抱えていたつもりのものが、別の手へ移り、別の声で続いていく。
それでも、今日の千晶には、その流れの中に立つ足がない。
裏口から外へ出ると、午前の光が商店街のシャッターに当たっている。ノルメディス北多摩店の白い看板が、通りの向こうで新しいまま立っている。開店準備中の紙は、もう貼られていない。
千晶は駐輪場から自転車を出し、家の方へ漕ぎ出しかけて、ブレーキを握った。
肩のバッグが揺れて、中で薬袋の紙が小さく鳴る。
母の定期薬。
今月分を、まだ届けていない。
薬局の私物棚に置いていた薬袋は、朝、出勤した時にバッグへ移してある。帰りに寄るつもりだった。そのつもりごと、今日のどこかへ落としている。月に一度、実家へ持っていく。関節リウマチの薬。母が二十五年、生活の中に置き続けている薬。
いつもなら、ここで軽口のひとつくらい浮かぶ。
けれど今日は、形になる前に沈んだ。
千晶はバッグの重みを確かめた。薬袋の角が、布越しに手に当たる。
家に向かうはずのハンドルを、反対へ向ける。
*
若松原市の実家には、平日の昼前らしい静けさがある。
玄関を開けると、母が奥から出てきた。薄いグレーのカーディガンを羽織り、右手で左の親指の付け根を少し包んでいる。
「早いのね。今日、休みだった?」
「有給」
千晶は靴をそろえながら答える。
母は、それ以上すぐには聞かない。ただ、千晶の顔を見て、玄関脇のスリッパを少し手前に出す。
「お茶、淹れるわね」
「その前に、薬」
バッグから薬袋を出す。いつもの薬袋。母の名前、日数、用法。千晶はテーブルの上に置き、薬袋の向きを母側へそろえる。
母が受け取る時、指が一瞬だけ遅れた。
「手、痛いの?」
「今日は少しこわばるだけ」
母は笑った。責める笑いでも、隠す笑いでもない。痛みと長く付き合ってきた人の、力を入れない笑い方だ。
「薬が効いてるから、このくらいで済んでるのよ」
千晶は薬袋の端を見た。
効いている薬は、目立たない。生活を劇的に変えた顔をしない。ただ、朝の指が少し動く。湯呑みを落とさずに持てる。スーパーの袋を片手で持てる。そういう小さなところで、薬は生活を支える。
母は薬袋を食器棚の横の引き出しに入れる。お薬手帳も、同じ場所だ。千晶が小学生の頃から、そこは母の薬の場所だった。
引き出しの中には、小さな透明ケースが置かれている。翌朝の分だけ、母は前の晩、まだ指が動くうちにそこへ出しておく。薬袋は奥、ケースは手前。朝いちばんの指で、PTPシートから一錠ずつ押し出さなくて済むように。
千晶が小学生の頃、母は朝の台所でよく同じ引き出しを開けていた。炊飯器の湯気の横で、小さな錠剤がケースの底で鳴る。指がこわばる日は、そのひとつをつまむだけでも時間がかかる。千晶はそれを、ただ待っていた。手伝えるほど大きくも、理由を聞けるほど大人でもない。
今なら分かる。薬は、飲む時間だけを奪うのではない。出して、並べて、間違えないように確かめる時間も必要になる。あの頃の母は、それを言葉にせず、薬を飲み、食卓を整え、千晶の弁当箱を包んでいた。
薬の前で、家族をひとりにしたくない。薬剤師を志した頃の自分が、どこかでそう思っていた気がする。
「最近、痩せたんじゃない?」
湯呑みを置きながら、母が言った。
「気のせいだよ」
「そう」
母は椅子に座る。左手の指を、膝の上でゆっくり開いたり閉じたりしている。
「あの時も、そうだったわね」
千晶は湯呑みに手を伸ばしかけて、止まった。
「あの時?」
「会社を辞める前」
母の視線はお茶に落ちている。千晶ではなく、湯気だけを見ている。
「気のせいだよって言ってた。大丈夫って言ってた。薬剤師なら安定していていいわねって、親戚に言われるたびに、あなた、ちゃんと笑ってた」
湯気が、細く揺れる。
薬剤師なら安定。
食いっぱぐれない。
資格があるから安心。
何度も聞いた言葉だ。どれも間違いではない。33独身、奨学金あと11年ですけど、なにか、と内心で返せるくらいには、もう慣れている。けれど返済予定の数字は、笑いにしても毎月引き落とされる。
慣れているはずだった。
母は、責める声を出さない。
「あの時、辞めて、よかったの?」
千晶は答えられなかった。
母の手が、湯呑みの側面に添えられている。親指の付け根をかばうように、少しだけ角度が違う。子どもの頃、千晶はその手を何度も見た。朝、箸を持つ前に、母が指を一本ずつ伸ばしていたこと。雨の日は少し顔をしかめていたこと。薬の袋が食卓にあるのが、当たり前だったこと。
「今すぐ答えなくていいわよ」
母は静かに言う。
「責めてるんじゃないの。ただ、まだ、よかったって言い切れない顔してるから」
千晶は湯呑みを持つ。熱い。熱いのに、指先だけが冷えている。
「……分からない」
声に出すと、それだけで少し息が足りなくなった。
「辞めなかったら、どうなってたのかも分からない。辞めてよかったのかも、分からない」
母は頷いた。
答えを急かさない。慰めもしない。薬袋を受け取った時と同じように、ただそこに置く。
昼前になって、父が帰ってくる。
近所の図書館から戻ったのだと言い、手には文庫本が一冊ある。千晶を見ると、少しだけ眉を上げた。
「今日は、職場はいいのか」
「有給」
父はそれ以上、すぐには聞かない。台所で母が温め直した味噌汁を運び、三人分の箸を並べる。千晶が手伝おうとすると、父は首を振る。
「休むと決めたなら、休みなさい」
椅子に座ると、父の視線が千晶の顔に止まる。
「顔が休んでない」
母が小さく笑う。千晶は笑えなかった。
父は味噌汁を一口飲み、文庫本をテーブルの端に寄せる。
「仕事のことは、俺には分からない」
そう言ってから、少し間を置く。
「分かったふりをする気もない」
千晶は箸を持ったまま、黙っていた。
父はいつもそういう人だ。答えを先に置かない。こちらが選ぶ前に、道の名前を決めない。
「自分で考えて、自分で決めなさい」
父は一拍置いて、続ける。
「決めたなら、最後まで責任を持ちなさい」
進路を決めた時も、薬学部の学費を見た時も、奨学金の書類に印を押す前も、父は同じことを言った。前半だけなら、優しい言葉だ。今日は、後半のほうが深く刺さる。
選んだあとに、誰かのせいにできない言葉でもある。
千晶は白いご飯を見下ろした。茶碗の縁に、湯気が薄く触れる。母の箸を持つ指は、朝より少しだけ動きが遅い。
薬局に、名札と保険薬剤師印は置いてきた。
それでも、薬はこの家の昼から消えていない。
母の手がある。
父の言葉がある。
逃げた日から、ずっと戻らずに済ませてきたものが、昼の食卓に静かに並んでいた。
*
北多摩へ戻り、駅から自宅へ向かう道は、夕方の手前で少し混みはじめている。
信号待ちの列が商店街の東端まで伸び、千晶は自転車を押して歩道へ上がった。冷たい風が、コートの袖口から入り込む。昼に外した名札の感触だけが、胸のあたりに残っていた。ないはずのものが、まだ重かった。
青果田中の跡地は、もう店の輪郭を持っていた。
白い外壁。大きなガラス面。店内では棚の影がまっすぐ伸びる。天井の照明だけが先に灯り、入口横の看板だけは、夏から変わらない。
ノルメディス薬局 北多摩店
12月1日オープン
文字は明るく、清潔で、迷いがなかった。
便利になる。
整っている。
処方箋を出して、日用品も買えて、待ち時間はアプリが知らせてくれる。薬を受け取る場所が生活の動線に入る。それ自体は、悪いことではない。
千晶は看板の前で足を止めた。
白い文字の向こうに、別の白が重なる。
内藤東口店の薬歴画面。バックヤードの蛍光灯。待合の番号札。保留音。
香坂沙織(こうさか・さおり)の横顔を思い出しかけて、千晶は息を止めた。
今の彼女を、千晶は知らない。どんな顔で働いているのか。どんな肩書になっているのか。
知っているのは、ノルメディスがここへ来ることだけだ。
それだけで、胸の奥が冷えた。
内藤東口店の白さだけが、先に戻ってきた。
搬入口の前で、作業員が段ボールを運び込んでいた。白い箱には、店舗備品の管理番号が貼られている。番号。棚番。発注単位。チェックリスト。大手の仕事は、見える前から整っていく。
千晶は自転車のハンドルを握り直した。
桜ノ町薬局へ戻る道ではなく、自宅へ向かう道を選ぶ。
休むと決めたなら、休みなさい。
顔が休んでない。
自分で考えて、自分で決めなさい。
父の声が、遅れてついてくる。
決めるためには、まず見なければいけないものがある。
*
部屋に戻ると、千晶は本棚の下段からクリアファイルを出す。
透明な表紙の端は少し白く濁っていた。何度も開いて、何度も閉じた跡がある。中には印刷した紙が数枚と、手書きのメモが挟んである。正式な会社書類ではない。退職後に、千晶が自分のためだけに作った、事故後対応記録。
本当は、記録と呼ぶほどのものでもない。
覚えている事実を、事実の形にして置いておくための紙だった。日付。場所。対応。自分の行動。空欄。書けない欄。書かなかった欄。
それでも、紙の中の問いだけは、会社を辞めても終わらなかった。
最初に作った時は、再発防止のためだと思っていた。二度と同じことをしないために、事実を残す。
けれど、その紙はどこにも進まなかった。机の下段にしまい、何かの拍子に取り出しては、また閉じる。楠山に見せることも、捨てることもできない。
事実を残すというより、事実を紙の中へ閉じ込めておくためのものに近い。
テーブルの上で、透明な表紙だけが光を返していた。
千晶は椅子に座り、ペンを取った。
事故後初回連絡。
欄の横に、同じ言葉が置かれている。
未実施。
黒い文字は、乾いている。
千晶はペン先を紙に置いたまま、動かせない。
それは業務の言葉だ。誰かが後から見て、次に何をするか判断するためのものだ。
だが、千晶のこれは違う。
次に引き継ぐ人はいない。再開する手順もない。
千晶は紙の端を押さえた。指先の下で、クリアファイルの角から小さな音がする。薬袋の紙とは違う、薄い音だった。
事故後初回連絡。
未実施。
その三文字を見た瞬間、白い薬歴画面が開いた。
二〇一七年末。
ノルメディス薬局 内藤東口店。
店は、白い音で満ちていた。
蛍光灯の白。薬歴画面の白。薬袋の白。プリンタから吐き出される紙の白。
白ばかりなのに、清潔というより、どこにも逃げ場がない色だ。
柏木千晶は最終鑑査台の前に立ち、処方箋と薬袋と薬剤情報の紙を、一つずつ照合している。指差し確認。薬袋の名前。日数。用法。錠数。お薬手帳。
待合には十人。
番号札の表示機は、赤い数字を静かに光らせたまま。受付には新しい処方箋が重なり、「あとどれくらいですか」という声が混じる。奥の電話は、鳴り止まない。一本目が切れる前に、もう一本。管理薬剤師の声が、調剤室の端で低く沈んだ。
「お待たせして申し訳ありません。はい、確認いたします」
千晶は聞こえないふりで、指先を薬袋へ戻した。拾えば、手元が止まってしまう。
白い薬歴画面には、処方医・山田の名前。
山田先生。
近くで長く外来を持つ先生。処方の癖は、何度も見てきた。疑義照会をすれば、必要な答えは返ってくる。けれど、その一本でまた手元が止まる。
無駄な確認。
そう呼べば、手元を止めずに済む。
お薬手帳を開くと、端の丸まったページが指に引っかかる。少し前の日付。別の医療機関のシール。科も、医師も違う。そこに並んだ薬の名を見た瞬間、千晶の視線が止まる。
新しく出ている眠りの薬と、手帳に残っている別の薬。
眠気が重なるかもしれない。
考えるより先に、指先が薬袋から離れる。何度も似た違和感を拾ってきた体だけが、先に反応していた。
千晶は薬袋から目を上げる。
投薬カウンターの向こうで、患者が椅子に座っている。千晶は顔を見ない。視界に残るのは、膝の上の小さなバッグと、その持ち手にかかった指だけ。
「沙織」
千晶は投薬準備をしている同期に声をかける。沙織は、薬袋をそろえる手を止め、顔だけこちらへ向けた。
「なに」
「ちょっと見て」
千晶はお薬手帳を開いたまま、処方箋と一緒に差し出す。
沙織は一歩近づき、手帳の該当欄に目を落とす。眉がほんの少し動いたように見える。けれど、それが何を意味するのか、千晶には読み取れない。
電話がまた鳴る。
受付のほうで、番号札の機械が短く電子音を立てる。待合の十人が、それぞれ少しずつ動く気配がする。コートの布擦れ。杖の先。紙袋を持ち替える音。年末の夕方の薬局は、誰も大声を出していないのに、ずっと急かしてくる。
沙織は白い画面をちらりと見る。
「山田先生の処方でしょ? ……うん、たぶん大丈夫。待合10人溜まってる」
言い方は荒くない。
責めてもいない。面倒がって投げたわけでもない。沙織も、同じ店の同じ時間の中にいる。患者を待たせ、電話が鳴り、薬歴が残る。その全部が見えている。
だから、千晶は頷いた。
頷いてしまった。
山田先生の処方。
沙織も、たぶん大丈夫と言った。
次の番号札が鳴る。
私の考えすぎかもしれない。
その言葉は、今でも逃げ道の形をしている。
白い薬歴画面の端に、見えない付箋を一枚ずつ貼るみたいに、千晶は理由を並べた。
山田先生だから。
同期にも見せたから。
待合が溜まっているから。
最後の一枚は、自分で貼った。
私の考えすぎかもしれない。
最終鑑査を通した。
印を押した瞬間の音は、今でも大きい。
実際には、そんな音ではなかったはずだ。調剤室の中では、電話も、プリンタも、患者を呼ぶ声も、薬袋をめくる音もしていた。印鑑の音だけが響くはずがない。
それでも千晶の記憶では、あの音だけが白い部屋に残っている。
沙織が薬袋を持って投薬カウンターへ向かう。白衣の裾が揺れる。千晶は次の処方箋へ手を伸ばす。番号札の数字が進み、薬歴画面が切り替わる。別の患者の名前。別の薬。
手だけが、次へ行こうとする。
でも。
やっぱり、確認しておいた方が。
胸の奥に残っていた引っかかりが、そこでようやく形になる。
千晶は顔を上げる。
沙織はもうカウンターに出ていた。患者の前に薬袋を置き、説明を始めている。
声は届く。けれど、言葉までは拾えない。
待合のざわめきと、電話の音と、プリンタの紙送りに紛れていく。
その中で、一言だけが千晶の耳に残る。
——最近、夜が長くてね。少し眠れれば、それでいいの。
最後の言葉が、白い音の中で止まった。
確認しなければ。
薬は、もう患者の前に置かれている。
患者に渡る前の機会は、そこで切れた。
次の番号札が鳴る。
受付から「柏木さん、これ先に見てもらえますか」と声が飛ぶ。薬歴の未入力が増えていく。白い画面の右端には、まだ処理されていないものの列。
千晶は、次の処方箋を手に取った。
仕事は続いていく。
沙織が戻ってきた時、千晶は何も聞かなかった。
手帳を返したか。
さっきの薬を、もう一度確認したい。
その二つを、口に出せばよかった。
千晶は、喉元まで上がった言葉を飲み込んでしまう。
沙織は次の薬袋をそろえ、千晶は次の処方箋を見る。
まだ、終わりではなかった。
電話はそこにある。
薬歴画面は開いたまま。
処方箋も、手元に残っている。
患者の一言も、千晶の中から消えない。
それでも、千晶は受話器を取らなかった。
三日後、電話が鳴った。
千晶が取った電話ではない。バックヤードの奥で、管理薬剤師が子機を耳に当てている。白衣の袖口が、机の角に触れて、紙の束を一センチほどずらす。
「はい。……はい」
その声だけが、調剤室に落ちてくる。
夜中。
転んだ。
骨折。
眠剤。
単語は文章にならない。文章にならないまま、白い蛍光灯の下で乾いていく。
千晶は、手の中の薬袋を見る。印字された名前は別の患者のものだ。角が指の腹に食い込み、文字が一度、全部離れた。
管理薬剤師は子機を置き、机の上に処方箋を広げた。薬歴画面が開かれ、調剤録の束が横に置かれる。
処方医の名前。投薬日。お薬手帳。
確認する声が、ひとつずつ低くなる。電話は別の番号へ回り、プリンタから事故報告書のひな形が吐き出された。
そこから先は、事実だけが進んでいく。
原因。
経過。
対応。
再発防止。
欄は、順番に埋まっていく。
当事者。確認者。投薬者。
千晶の名前が入り、香坂沙織の名前も入る。名前の横には、未確認、判断不十分、連携不足という言葉が並ぶ。
そこに、千晶の声は入らない。
患者と家族への説明の席には、管理薬剤師とエリアマネージャーが入った。
店舗で起きたことは、店舗と会社の名前で説明される。
千晶と沙織は、別の部屋にいた。
机の上には、聞き取り用の紙が置かれている。
時刻。確認したこと。確認しなかったこと。
聞かれたことに答える。
覚えていることを答える。
覚えていないことは、覚えていないと言う。
患者の家族の声は、そこまでは届かなかった。
「すみません」と、千晶は何度も言った。
何に対して謝っているのか、自分でも追いつかない。
患者に対して。
家族に対して。
店に対して。
管理薬剤師に対して。
沙織に対して。
薬剤師である自分に対して。
どれも本当で、どれも足りない。
出勤停止が決まった。数日なのか、数週間なのか、説明の輪郭は頭に残らない。ただ、店に来てはいけない期間だけができて、白衣を着ない時間だけが先に分かる。
謹慎が明けても、千晶と沙織は内藤東口店には戻らなかった。
二人の名前は、別々の店舗のシフト表に入る。
理由は短かった。
患者の家族が来るかもしれない場所に、当事者は置けない。
千晶は頷く。
沙織も、隣で頷いた。
それだけで、朝の行き先が変わる。ロッカーは別の場所になり、端末の癖も、処方箋を置く台の高さも、前の店とは違っていた。
それでも、薬袋は白い。
新しい店でも、白い薬袋がカウンターに置かれる。
沙織は、残った。
別の店舗で、同じ白い薬袋の前に立ち続けた。
千晶は、異動先でしばらく働いた。
鑑査に時間がかかる。投薬前に手が止まる。薬歴は遅れ、確認したいことだけが増えていく。
誰かが間違えているわけではない。
それでも、最後の印鑑だけが押せなくなっていた。
一日が終わるたび、明日も同じ場所に立てるのか分からなくなる。
退職届を書いた。
そのあと、朝の時間だけが残る。
起きる。洗濯機を回す。母からのメッセージに短く返す。奨学金の引き落とし予定日を見る。
口座残高。家賃。電気代。
休んでいるあいだも、返済日は来る。
口座から金が減っていく。家賃も、電気代も、待ってはくれない。
薬剤師を辞める、と決めたわけではなかった。
けれど、薬剤師として働く自分を、うまく思い浮かべられない。
求人票を見るようになる。
桜ノ町薬局の名前を見つけたのは、その頃だった。
楠山が、あの時の自分をなぜ採ったのか。今でも、分からない。
履歴書の退職理由だけで、何かを察したのか。面接で、千晶が隠しきれなかったものがあったのか。それとも、ただ人手が足りなかっただけなのか。
面接の日、楠山は前職の退職理由を細かく聞かなかった。
「調剤は続けたいのか」
聞いたのは、それだけだった。
千晶は、はい、と返す。
楠山は履歴書を伏せた。
「うちは、さばくのが早い店じゃないぞ」
そう言って、少しだけ店の奥を見る。
「待たせる分だけ、見る。そこは譲らない」
その言葉で採用が決まったのかは、今でも分からない。
千晶が何を見せたのかも。
楠山が何を見たのかも。
分からないまま、その問いだけが残っている。
*
部屋のテーブルで、千晶は事故後対応記録を開く。
名札は薬局のロッカーにある。保険薬剤師印も、所定の引き出しの中だ。
手元にあるのは、この記録だけ。
それでも、胸元が重い。
ノートには、乾いた文字が並ぶ。
事故後初回連絡、未実施。
面会要請への返答、未実施。
謝罪同席、未実施。
退職、実施。
転居、実施。
千晶はペン先を止めた。
未実施。
便利な言葉だった。怖かった、行けなかった、言えなかったを入れずに済む。
違う。
未実施じゃない。
私は、逃げた。
声には出さない。
それでも、胸の奥からその一行が消えない。
会社の手続きは、間違っていなかった。
患者家族への説明は、管理薬剤師とエリアマネージャーが担う。処分対象者の千晶が同席しないことも、おかしくはない。
それでも。
行かせてください、と申し出ることさえしなかった。
一度だけでも頭を下げたい、とも。
許されなかったかもしれない。
相手の負担を増やしただけかもしれない。
それを確かめることさえ、千晶は誰かの判断に預けた。
千晶は、もう一行を書く。
確認したんじゃない。
責任を預けた。
確認はした。けれど、止めるところまで、自分の足では行かなかった。
目の前のノートが、少しだけにじむ。泣いているのかと思っても、涙は落ちない。息を吸おうとして、一度だけ失敗する。喉だけが痛い。
あの患者に、会いに行くことはできない。
退職した千晶の手元に、住所は残っていない。
仮に知っていたとしても、使うべきものではなかった。
無断で訪ねれば、謝罪ではなくなる。
自分が楽になるために、相手の扉を叩くだけだ。
あの人がその後どうなったのか、千晶は知らない。
知る資格も、もう失っている。
会えない。
返せない。
清算できない。
すみません、と口の中だけで形にする。声にはならない。
千晶はペンを置く。
小さな音が、テーブルに残る。
管理薬剤師 柏木。
薬局のロッカーにある名札には、明日もその文字が入っている。
許しではない。
免罪符でもない。
それでも、明日その名前で働く。
スマートフォンは、テーブルの端で暗いままだ。
過去は軽くならない。
普通に立てる保証もない。
薬剤師なら安定。
昼に浮かんだ言葉が、まだ耳の奥に残っている。
そのために戻るのではない。
次の返済日も、明日の生活も、患者が薬を飲む朝も、千晶を待たない。
それでも、千晶は事故後対応記録のファイルを閉じた。
未実施、ではない。
逃げた。
責任を預けた。
名札をつける時にも、保険薬剤師印を出す時にも、その言葉は残る。
消えないまま、持っていくしかない。
明日の朝、ロッカーを開ける。
名札をつける。
保険薬剤師印を所定の引き出しから出す。
白衣に袖を通す。
そこまで思い浮かべても、息は深くならない。
浅い息のまま、千晶は言った。
「……明日も、ここに、行く」
続きはこちら。
最終話では、過去を抱えたまま桜ノ町薬局に立つ柏木千晶の「これから」を描きます。
逃げたことは消えない。それでも、明日の店を開けるための話です。
「私、薬剤師なんで。」は、こちらのマガジンにまとめています。