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「私、薬剤師なんで。 〜桜ノ町薬局、本日も平常運転〜」第9話 柏木千晶、これからもここで

    前の話はこちらです。


    二〇二六年十二月一日の朝は、まだ暗さの底に薄い青が残っていた。

    千晶は薬局の裏口の前で立ち止まり、一度だけ息を吐く。白い息がシャッターの端に触れて、消える。昨日より深く吸えるようになったわけではない。胸の奥には、閉じたファイルの厚みがそのまま残っている。

    それでも、鍵は回った。

    いつもなら一番乗りは福田芳江で、千晶が着く頃には裏口はもう開いている。今朝だけは、誰かが開けた店に入るのではなく、自分の手でこの店を開けたかった。

    鍵を抜いて、千晶はシャッターの中の暗さへ耳を澄ます。誰の足音もしない。それを確かめてから、扉に手をかけた。

    扉を引くと、いつものにおいが流れてくる。消毒用アルコール、紙袋の乾いたにおい、夜のあいだに冷えた床。照明をひとつずつ入れていく。調剤室の蛍光灯が瞬きを終えるまでの半秒、棚に重ねた白カゴだけが薄闇に浮かんで見えた。

    ロッカーを開ける。

    白衣は昨日と同じ場所に掛かっていた。袖を通すと、右肩だけが重い。千晶は襟を直し、胸元の名札を手に取った。

    管理薬剤師 柏木。

    白地の板に黒い文字。許しでも、証明でもない。ただ、今日この場所で呼ばれる名前だ。

    ピンを留める。指が一度滑り、留め直す。滑ったところを誰も見ていないことを、確かめるみたいに待合のほうへ目をやってから、息をひとつ置く。引き出しから保険薬剤師印のケースを出し、印を定位置の小さなトレーへ置いた。

    軽い音がする。

    昨日の夜、布団の中で何度もなぞった順番だ。

    その先は、昨夜の想像では真っ白だった。けれど今朝の手は、続きを勝手に知っている。電源を入れ、レセコンの起動を待ち、薬袋プリンタの用紙残量を確かめる。コピー機の下に落ちていた輪ゴムをひとつ拾う。薬歴端末の画面が白く立ち上がった。

    画面の白さに、喉の奥がまだ硬くなる。指が止まりかけた。止まったままには、しない。

    受付側で、鍵の音がした。

    「おはよう」

    福田芳江が、淡い緑色のカーディガンを羽織って入ってくる。冬の朝には明るすぎる色で、それがかえって福田らしい。

    「おはようございます」

    千晶の声は、思ったより普通に出る。

    福田はその返事に何も足さなかった。レジの釣り銭を確認し、受付端末を立ち上げ、薬袋の束をそろえる。紙の角を打つ音だけが、誰もいない待合に小さく響いた。

    千晶は待合の椅子をひとつ直す。どの椅子も、受付と投薬カウンターのほうを向いていた。今日、ここがどれだけ埋まるのかは、まだ誰にも分からない。

    遠くで、車のバック音がひとつ。

    ノルメディス北多摩店の搬入口だろうか。

    十二月一日。

    白い看板にずっと書かれていた日付が、景色ではなく、今日になっていた。

    *

    8時45分を過ぎると、薬局は朝の速度を取り戻していく。浜口柚衣が「おはようございます」と入ってきて、OTC棚の昨日のPOPを外す。奥の事務机では、楠山啓一郎がノルメディス北多摩店の開店チラシを一枚だけ見て、すぐに伏せた。

    春日樹は、8時49分に裏口から飛び込んでくる。

    「すみません、遅刻してません!」

    「大丈夫。先に息を整えて。白衣はそれからでいい」

    白衣の端が引っかかっている。浜口が無言で指をさし、春日が「あ」と言って直した。

    いつもの朝で、いつもより空気の硬い朝でもある。

    朝のミーティングの前に、春日が珍しく自分から口を開く。

    「あの」

    その一言だけで、楠山のペンが止まった。机の端には、さっき伏せたばかりのノルメディス北多摩店の開店チラシがある。福田は受付側で、釣り銭トレーの五十円玉に指を置いたまま顔を上げる。

    「ノルメディスの前、通ってきました」

    誰も、どんなふうだった、とは聞かなかった。

    春日はそれでも続ける。

    「入口に花が並んでて、調剤カウンターの横にOTCと日用品の棚があって、番号表示も大きくて」

    そこで一度、言葉を切った。悪口にしないように、見たものを小さくしないように。不器用な慎重さが、そのまま顔に出ている。

    「広くて、明るくて、新しくて。……すごく、ちゃんとしてました」

    浜口が棚の前で小さく息を吸う。福田は、釣り銭トレーの五十円玉を一枚だけ動かした。

    少し遅れて、春日は付け足す。

    「……でも、あの前を通ってきても、ここがいいなって思いました」

    千晶は一拍遅れて、頷く。

    「うん」

    それ以上は足さなかった。

    春日は、ここがいい、と言える。その言葉は、まっすぐ店の真ん中に置かれた。千晶はうれしいと思う。思ったぶんだけ、胸の奥が少し痛んだ。

    自分が最初にそう言えなかったことを、知っている。

    白衣の袖口を親指で押さえ、千晶は顔を上げた。

    ミーティングは、それで終わりだ。受付、棚、調剤室へ、それぞれの朝が戻っていく。

    *

    9時。

    自動ドアが開く音がする。

    一人目の受付が終わっても、次の足音はすぐには続かない。

    福田がマイナンバーカードを返し、番号札を差し出した。薬袋プリンタが短く鳴り、すぐ止まる。待合の椅子は、まだきちんと並んでいた。

    開店初日。

    新しい店を見に行く人はいる。処方箋のついでに日用品まで済ませられるなら、そちらへ足が向く日もある。

    それでも、自動ドアはしばらく開かなかった。

    9時半。

    梶浦七実が入ってくる。待合の椅子へ目をやってから、黙って白衣の袖を通した。

    待合が静かなぶん、店の中の音だけが近い。

    受付で福田がキーボードを叩く。薬袋プリンタが紙を吐き、分包機が低く唸って待機に戻る。電話札が一枚、白カゴの縁に貼られて回ってきた。

    急ぎではない、と浜口の字で書いてある。

    千晶は待合を一度見て、端末の時計へ目を移した。次の受付は、まだ入っていない。

    「今、返します」

    受話器を取ると、店の静けさが少しだけ遠のいた。

    10時を回った頃。

    菅野宗明が来た。

    帽子のつばを親指でなぞり、処方箋とお薬手帳を受付へ置く。この動きはもう、受付の流れの一部になっている。福田が「菅野さん、今日は寒いですね」と言い、菅野が「冬だからな」と返す。会話というより、確認印に近い短さだ。

    商店街の東には、今日から新しい薬局がある。広くて、新しくて、処方箋のついでに日用品も買える店。それでも菅野は、自分の足で、5分の道を歩いて、ここへ来ている。

    白カゴが調剤室へ回ってくる。いつもの定期で、前回から変わりはない。

    千晶は処方箋と入力内容を照合する。患者名、日数、規格、用法。前回との差異、なし。それから棚の前に立ち、錠剤のシートを一枚ずつ数えた。30日分。箱の期限を一瞥し、指先で角をそろえ、薬袋と一緒に白カゴへ戻す。

    薬歴を開く。眠りの確認、転倒なし、次回継続。六月に別の系統へ変えた眠りの薬は、もう菅野の夜になじんでいる。寝室は2階、トイレは1階。夜中に二、三度、菅野はあの階段を降りる。薬のふらつきと、起き抜けの一歩が重なりかねない場所だ。

    転倒なし。

    画面のその四文字で、指が止まる。

    シートの数は数えた。規格も見ている。前回との差異もない。足りないのは確認ではなく、確認したという感触のほうだ。

    けれど今、手を止めさせているものは強迫だけではない。菅野を転ばせたくない。その一点は、何度確かめても減らない。

    千晶は伸びかけた手を止める。止めた手で、次の白カゴを引き寄せる。

    鑑査台の楠山が、手元を一瞥した。何も言わない。白カゴを引き取り、処方箋と薬を順に照合して、次へ押し出す。

    「菅野さん、お待たせしました」

    投薬カウンターで、千晶は薬袋をそろえる。菅野は帽子を取らない。それでも、こちらの質問を待つ顔は、六月のあの日と同じではない。

    「眠れてますか」

    「まあ、前よりはな」

    「転んでないですか」

    「転んでたら来られんだろ」

    軽口に聞こえて、そうではない。夜中、何度も階段を降りて、菅野はまだ転んでいない。転ばずに朝を迎えて、5分の道を歩いて、ここまで来た。それができている、ということだ。

    「夜中、起きてすぐ動いてませんか」

    「少し待ってから降りてる。手すりも使ってる」

    六月に渡した注意を、菅野はまだ守っている。

    「……分かりました。ふらつきが増えたら、次回を待たずに教えてください」

    菅野は返事の代わりに、帽子のつばを押す。それで終わりだった。

    深い礼も、昔話も、感動的な回想もない。菅野は福田の会計へ進み、領収書を受け取った手で、自動ドアを押して出ていく。

    千晶は投薬カウンターの端末で、そのまま薬歴を打つ。転倒なし、だけでは終わらせない。本人の返答を短く残し、次回確認継続、と置く。保存して、画面を閉じる。

    昼が近づくにつれ、処方箋は途切れずに届きはじめる。桜ノ町内科の定期が三枚、北多摩こども医院がひとつ。梶浦が小児の白カゴを引き寄せ、体重と粉薬の用量を確かめる。手は早い。順番は崩れない。いつもの手順で、店は流れていく。

    11時前。

    自動ドアが開いて、徳田拓実が入ってきた。紺の量販店スーツに、曲がったネクタイ。くたびれた革のビジネスバッグを肩に掛けている。

    コートの胸ポケットから、白いポケットティッシュがのぞいていた。袋の端に、水色のロゴが見える。朝から商店街のあちこちで揺れていた色だ。

    「処方箋、お願いします」

    徳田は処方箋を置き、それから受付の中を覗くように首を伸ばす。いつものように急かす顔を作りかけて、眉間の皺だけが残る。

    「柏木さんは」

    福田は驚かなかった。

    「呼びますね」

    千晶は調剤室から受付へ出る。カウンター越しに見る徳田の鼻の頭は、外気で薄く赤い。商店街の東の端から、ここまで歩いてきた顔だった。

    徳田はバッグの内ポケットを探る。以前ならそこから、色違いの手帳が二冊も三冊も出てきた。今日、処方箋の横に置かれたのは、緑のカバーの一冊だけだ。

    「手帳、一冊にしたよ」

    千晶は両手で受け取る。緑のカバーはまだ新しい。

    表紙を開くと、内科と耳鼻科のシールが日付の順に並んでいる。端が少し波打っているものがあった。剥がした跡に、前の台紙が薄く残ったままのものもある。途中で破れたのだろう、番号の端がわずかに欠けていた。

    きれいではない。

    それでも、三冊に散っていた日付が、一冊の中で同じ向きに並んでいる。

    千晶は、その厚みの分だけ、息をひとつ置く。

    「お預かりします」

    余計な礼は足さなかった。足したら、徳田はたぶん鼻を鳴らして座ってしまう。

    徳田は座る前に、ティッシュの差さった胸ポケットを一度だけ叩く。

    「向こう、開店でこれ配ってた」

    「もらったんですね」

    「もらうだろ、配ってれば」

    配られたティッシュをポケットに差したまま、徳田は白い灯りの前を通り過ぎて、ここまで歩いてきている。

    「……あんたが言ったんだろ。一冊にまとめろって」

    徳田は待合の椅子へ座る。長い感謝はない。薬局への理解を語る言葉もない。けれど、三冊だった手帳が一冊になって、処方箋の横にある。

    待合で名を呼ばれるまでのあいだ、徳田はスマートフォンをいじりながら、二度だけ顔を上げて調剤室の中を見る。何かを言うためではなく、進み具合を確かめる目だった。

    会計を終えると、徳田は来た道を東へ戻っていく。自動ドアの外で、白い灯りがまだ明るかった。

    *

    昼の処方箋が途切れる。

    福田が受付端末の画面を閉じ、千晶は薬歴画面を保存した。調剤室では、梶浦が次の白カゴを鑑査台へ寄せている。

    「柏木、福田さん。休憩、先に入ってくれ」

    楠山の声に、千晶は小さく頷いた。

    休憩室の小さなテーブルに、福田が弁当包みを置く。千晶は椅子に腰を下ろし、コンビニの袋からおにぎりをひとつ出した。包装の角が、まだ冷たい。

    福田は弁当の包みを解く前に茶筒を開け、急須に湯を落とした。茶葉が開くまでの短い沈黙のあいだ、調剤室の音が薄く届いてくる。梶浦が白カゴを動かす音。浜口の「お大事にどうぞ」。店は、回っている。

    ふくらはぎの奥に、午前中の重さが遅れて沈む。

    福田が湯呑みをふたつ置き、ひとつを千晶の前へ寄せた。千晶のおにぎりは、まだ開かれないままだった。

    「柏木さん、覚えてる? 四年前の夏」

    千晶は湯呑みに触れた。熱い。

    「四年前……」

    「青木さん」

    その名前で、指先が先に思い出す。

    残薬の袋。曜日のずれたメモ。週に一度しか来られないと言った家族の声。薬局の棚に残っていたお薬カレンダー。

    朝、夕。

    ポケットへ一包ずつ入れていった、あの時の手つき。

    「お薬カレンダーを入れた時の」

    「そう」

    福田は湯呑みを両手で包んだ。飲まない。温度だけを確かめる持ち方だった。

    「あの日、桜希(さき)が受付の奥にいたのよ。夏休みで、私を迎えに来てて」

    福田の娘で、いまは薬学部にいる。

    「見てたんですか」

    「見てた。柏木さんが青木さんに、薬を管理するんじゃなくて、青木さんが明日の朝に迷わない形にしましょうって話してたところ」

    そんな言い方をしただろうか。覚えていない。

    「桜希がね、帰り道で言ったの」

    福田は笑う。口元だけだった。

    「私、薬学部に行きたいって。こういう人になりたいって」

    湯気が、千晶の目の前を横切る。

    端末のファンも、冷蔵庫の唸りも聞こえている。それなのに、湯呑みの縁だけがやけに近かった。

    「桜希ちゃんが決めたんですよ」

    言葉は、すぐに出た。

    福田は頷く。

    「うん。桜希の進路を決めたのは、桜希よ。そこは間違えない」

    受付でいくつもの名前と日付を間違えずに扱ってきた人の声だった。

    湯呑みの中で、茶葉の欠片がゆっくり沈んでいく。

    「でも、あの子の背中を押したのは、私じゃなくて。柏木さんだったの」

    千晶は返事をしなかった。

    昨日閉じたファイルの重さは、まだ胸の底にある。未実施の二文字は、湯気の向こうでも薄くならない。朝が来て、店が回り、福田が向かいに座っていても、消えるものではなかった。

    それでも、湯呑みを包む指に、知らなかった重さが加わる。

    「福田さん」

    「なに」

    「お茶、熱いです」

    福田は目を細める。

    「淹れたてだもの」

    千晶は湯呑みを持ち上げ、ひと口だけ飲んだ。熱は少し落ちていたのに、舌の奥に渋みが残る。

    福田が先に立ち上がり、急須を流しへ運んだ。水の音が短く鳴る。千晶は湯呑みを両手で包んだまま、開けていないおにぎりへ目を落とした。

    休憩を終えて持ち場へ戻ると、春日が入れ替わりに休憩室へ向かう。

    10分ほどして、休憩室のほうから足音が小走りに近づいてきた。春日が調剤室の入口で止まり、息を整える前にスマートフォンの画面をこちらへ向ける。

    「記事、出てます」

    手の空いた者から、順に画面を覗く。地域情報サイト「タマっこ」。写真は薬局の外観ではなく、商店街の通りを斜めから撮ったものだった。ノルメディス北多摩店の白い看板と、桜ノ町薬局の緑の看板が、同じ道の上に小さく入っている。

    見出しは黒い太字で組まれていた。

    町の薬を、生活ごと見ている場所——桜ノ町薬局の一日

    梶浦が画面を少し傾ける。福田は受付から首だけ伸ばした。誰も読み上げない。楠山は見出しだけ見て、黙って次へ回す。

    千晶の番になり、画面を受け取る。本文を最後まで送った。

    記事に、病名も、処方の中身もなかった。写真に患者の顔も写っていない。通りと、ふたつの看板と、薬局の一日だけがそこにあった。

    結びに、一行だけ、千晶の言葉が残されている。

    ——管理薬剤師の柏木千晶さんは「今日も平常運転です」と話す。

    自分の名前が、記事の中で肩書きと並んでいる。口にした時はただの返事だった言葉が、画面の上では別の重さを持っていた。千晶は親指を離し、スマートフォンを春日へ渡す。

    誰も声には出さない。福田は受付へ、梶浦は投薬カウンターへ、楠山は鑑査台へ散った。感想の代わりに、白カゴがひとつ動く。

    自動ドアが開き、午後の処方箋が二枚続けて入る。

    一段落しても、春日はまだ自分のスマートフォンを見ていた。親指は止まっているのに、画面だけは消さない。

    「春日くん、顔、ちょっと得意げ」

    梶浦が投薬カウンターから言う。

    「桜ノ町薬局の記事だものね」

    福田は受付から顔も上げずに足した。

    春日は、口を開きかけて、画面を消した。

    「……僕、薬剤師なんで」

    楠山が鑑査台から目を上げた。

    「薬剤師なら、休憩も仕事のうちだ。戻れ」

    浜口は棚へ向き直り、福田の前に新しい処方箋が差し出される。春日は白カゴへ伸ばしかけた手を止め、スマートフォンを胸の前で握り直した。休憩室へ引き返す足取りは、来た時より少し遅い。

    千晶は薬歴端末の前で、春日の言葉だけを受け取った。

    次の画面を開く前に、待合へ目をやる。自動ドアは開かない。記事の一行は画面の中に残っている。椅子の空き方は、午後になっても変わらない。千晶は薬歴を開いた。

    *

    午後の日が傾いて、待合の床を浅く照らしはじめる。椅子の影が、いつもより少し長い。

    4時を回った頃、受付の電話が鳴った。

    「お電話ありがとうございます、桜ノ町薬局——」

    浜口の声が途中で一段下がる。受話器を押さえて、千晶を呼んだ。

    「翼在宅医療クリニックの看護師さんです。森脇さんの件で」

    森脇清嗣。常葉庵の二階。初回訪問から、まだ何日も経っていない。薬は予定どおりに動いているはずだった。

    「お電話代わりました。柏木です」

    昨夜から、痛みの波が強くなっている。

    翼健司は今、森脇宅で診ているという。痛い時だけ使う薬を切り替える。処方箋はこのあとFAXで送る。可能なら、今日中に届けてほしい。

    千晶は受話器を耳に当てたまま、メモ欄を埋めていった。痛みの変化。訪問中。処方変更。FAX待ち。本日中。

    切る前に、ひとつずつ復唱する。声だけは、いつもの業務の高さに置いた。

    「承知しました。FAXを確認して、準備でき次第お届けします。処方箋の原本は、お宅で先生から受け取ります」

    受話器を置くと同時に、FAX機が紙を吐きはじめた。楠山が奥から出てくる。

    「確認するぞ。柏木は在庫と帳簿を」

    「はい」

    特別な管理の要る薬は、手つきまで静かにする。

    金庫の鍵を開け、実在庫を数える。帳簿を開くと、薬品名ごとに分かれたページの端が指に当たった。該当するページまでめくり、今日の日付、森脇清嗣の名前、払い出す数を書き込む。最後に、いま数えた残りの数。隣で楠山が処方FAXと照合し、低い声で品名と規格を読んだ。千晶は復唱する。紙の上に、今日の一行が増えた。

    数え終えた指が、もう一度だけ金庫へ戻りかける。

    千晶はそこで止めた。帳簿を閉じる。金庫に鍵をかけ、施錠したことを声に出して楠山へ伝える。

    「施錠しました」

    声は低い。乱れてはいない。

    楠山は千晶の手元を一度見てから、壁の時計へ目を移した。

    「俺が行く」

    千晶の手が、訪問バッグへ伸びかけて、止まる。

    常葉庵。

    その名前が、胸のどこかに硬く当たる。

    一拍、あった。

    それでも。

    「私が行きます」

    楠山は千晶を見たあと、待合へ目をやった。

    今日ずっと残っていた空席が、まだそこにある。壁の時計を確かめ、鑑査台の白カゴへ視線を戻す。

    数秒だけ、店の音が空いた。

    「……頼む。鑑査は俺が見る」

    薬剤情報提供文書に、明細と領収書、お薬手帳シールを挟む。それを薬袋と一緒に訪問バッグの底へ立てた。揺れて袋が傾かないよう、畳んだタオルをひとつ詰める。常葉庵までは、歩いて10分足らず。

    千晶は領収書をもう一度だけ確かめ、裏口を出た。

    はじめの数歩は、仕事の速さだった。商店街を東へ進む。夕方前の冷気がコートの襟から入り、自転車を押す人と、ランドセルを背負った子どもが行き交っている。惣菜屋の油の匂いが、角の手前で薄く残っていた。

    角を曲がる。常葉庵までの道が、まっすぐ見えた。

    歩幅が、狭くなる。

    進んではいる。けれど靴底が地面を離れるまでに、ほんの少し間があく。息は浅い。バッグの持ち手を握る指に、冷えた汗がにじんだ。

    途中の信号で立ち止まった。青になっても、すぐには渡れない。すれ違う買い物客の袋に、水色のロゴが揺れる。今日の町は、少しだけ向こうを向いていた。

    引き返す理由なら、ある。

    数えはじめると、どれも正しい顔をして並んだ。店は開店初日で空いている。自分でなくても届けられる。昨日早退した人間が、よりによってこの家に——

    三つ目を終える前に、千晶はそこで切った。

    息を吐く。白くなったそれが前へ流れて消える。バッグの持ち手を握り直すと、指先に少しだけ感覚が戻った。

    行く理由は、一つでいい。

    あの席。湯呑みが先に置かれる音。出汁の匂いの中で、何度も見てきた場所。今日、その奥の部屋へ薬を届けるのは、桜ノ町薬局の柏木千晶だった。

    重さは残ったまま、店先が近づいてくる。

    常葉庵の前には、翼在宅医療クリニックの軽自動車が停まっている。シャッターは半分ほど上がり、白い貼り紙はガラス戸の内側に残っている。昼どきの暖簾も、店先の鉢植えもない。

    ガラス戸を開けたのは森脇美緒だった。初回訪問の時より、目の下の影が少し薄い。

    「すみません、急に」

    「いえ。お薬、お持ちしました」

    土間で、訪問を終えたばかりの翼から処方箋の原本を受け取り、FAXの内容と照らし合わせる。数量、規格、日付。間違いはない。翼は「あとはお願いします」とだけ言って、次の訪問先へ出ていった。

    美緒が、奥を手で示す。差し出されたスリッパは、客用の新しいものではなく、この家の誰かが使っているものだった。

    「上がってください。……父、薬の時間の前に、眠ってしまって」

    「お邪魔します」

    閉めた店の中は暗かった。椅子は卓に上げられ、暖簾は内側に畳まれている。窓際から二つ目の席だけが、外の街灯の光をわずかに受けていた。湯呑みが先に置かれた卓。客だった自分が、何度も座った場所。

    千晶はその前を通り、靴をそろえて、住まいへ続く廊下へ上がった。出汁の匂いが、閉めた店の空気の中にまだ薄く残っている。客として知っていた店の奥を、薬剤師としてまた通っている。

    階段が、一段ずつ鳴る。手すりの木は、店の卓と同じ色に磨かれていた。

    二階の居間には、低いテレビの音が流れていた。座卓の上には湯のみと、訪問看護の連絡ノート。窓際の木の盆も、前と同じ場所に立てかけられている。

    その奥で、森脇が眠っていた。掛け布団が、呼吸のたびに小さく上下する。痩せた頬に、廊下の灯りが浅く届く。枕元には水差しと、薬の時間を書いた紙。美緒の字だ。

    千晶は、起こさない。

    枕元から少し離れた畳に膝をつく。眠りを破らず、必要なら声が届く距離だった。声を低くして、美緒に薬を渡す。新しい薬袋と前の薬を並べ、どちらをやめてどちらを使うのか、指で示しながら分ける。使い方。間隔。続けて使っていい回数。迷ったら、使う前に電話してほしいこと。美緒は薬袋の文字を指でなぞりながら、ひとつずつ頷いた。

    それから、台所のほうを一度だけ振り返る。

    「夜の連絡先、冷蔵庫に貼ってあります。あれ、何度も見ました」

    「見るために貼ったんです。何度でも」

    言ってから、千晶は自分の声を聞いた。

    確認しに来たのではない。ここで一人にしないために、前に置いた紙がある。美緒はそれを、ちゃんと見ていた。

    美緒が小さく笑う。笑ってから、布団のほうへ目を戻した。

    「あの時の、湯呑みの話も」

    千晶は顔を上げる。

    「父の店を、そういうふうに覚えてくれてたの、うれしかったです。言いそびれてました」

    美緒はそれだけ言って、薬袋の端をそろえた。

    テレビの音の下で、森脇の呼吸が続いている。眠る人と、その娘と、薬。電話も、保留音も、ここには鳴らない。

    千晶はその部屋の音を、ひと呼吸ぶんだけ聞いた。薬袋を置いた手は、次の確認へ伸びなかった。

    布団に向かって一礼して、立つ。

    階段を下りる足音は、上がってきた時より軽く響いた。

    外はもう、夕方の色だった。

    帰り道、ノルメディス北多摩店の前を通る。白い灯り。花のスタンド。開店初日の店から、買い物袋を提げた人が出てきた。

    千晶は足を緩めなかった。空になった訪問バッグが、腕の振りに合わせて軽く鳴る。行きよりも、歩幅が少しだけ戻っていた。

    商店街の看板に、ひとつずつ灯が入る。

    桜ノ町薬局の緑の看板が見えた。ガラスの向こうで、楠山が鑑査台に立っている。春日が白カゴを運び、受付の灯りの下では、福田の口が「お大事に」の形に動いた。

    千晶は裏口の鍵に手をかける。

    *

    戻った店では、夕方の波がちょうど切れかけていた。千晶は手を洗い、白衣に袖を通し直す。白カゴを二つ流し、投薬カウンターへ一件を送る。

    最後の患者が自動ドアを出ると、受付の声が一段薄くなった。

    千晶はロッカーを開け、通勤バッグから薄いクリアファイルを抜いた。要所要所で書き足してきたメモは、三枚の紙に写し直されている。角だけが少し反っていた。

    冷蔵庫の白い紙を、美緒は何度も見ていた。

    なら、ここにも置けるものがある。誰かの記憶や、その日の余裕だけに預けない形。見れば、次の人が同じ順番で続けられる紙。

    千晶は三枚を手に、鑑査台へ向かった。

    「楠山さん。多摩いずみ苑の件、今いいですか」

    楠山は鑑査台の端を空ける。春日は投薬カウンターに残り、浜口が受付の福田の横についた。長く席を外さないための立ち話だ。

    「続けるための形を、三つにまとめました」

    三枚の紙は、どれも箇条書きだった。見出しの下に、短い矢印が引いてある。前日に聞くこと。処分していい薬。誰がどこを見るか。

    千晶は一枚目を指で押さえた。

    「前の日の夕方に、こちらから一本電話を入れます。食べにくい、眠そう、飲み込みにくい。そういう変化が先に分かれば、田代さんの時みたいに、往診の場で薬の形に慌てなくて済みます」

    「二枚目は」

    「処分していい薬を、先に決めておきます。期限の切れた塗り薬とか、開けてから時間の経った目薬とか。患者さんとご家族に、一人ずつ了承を取っておく。棚の前で迷う時間を、安西さんと話す時間に回します」

    「三枚目」

    「往診は、楠山さんメインのまま変えません。私がサブに入ります。楠山さんが熱を出した月曜でも、誰かが同じ順番で回れるようにします。春日には、薬歴と申し送りの照合から入ってもらいます」

    「春日が泣くぞ」

    「泣く前提で段取りします」

    楠山が短く笑う。

    「俺がいなくても回る形にする、ってことか」

    「楠山さんがいるうちに、作るんです」

    楠山は三枚を順に読んだ。丸もつけない。直しもしない。読む時間のあいだ、受付で番号札の声がひとつ鳴り、福田の会計の声が薄く届く。三枚目で、楠山の目の動きが少しだけ遅くなる。

    「安西さんは、困るかもしれないな」

    「困ると思います」

    千晶はうなずいた。

    「だから、先に話します。これはできません、じゃなくて、こうなら続けられますって。安西さんたちの記録の書き方も、見せてもらってから合わせます」

    楠山は紙をそろえて、短く息を吐く。

    「多摩いずみ苑、続けるぞ。その形で、まず安西さんたちに話す」

    「はい」

    千晶はファイルを閉じる。

    小さな音だった。あの時、閉じられなかったメモの音とは、もう違って聞こえる。

    楠山は三枚を自分のクリアファイルへ移し、事務机の、請求書の山とは別の場所へ置く。

    夕方の波の残りが流れてくる。千晶は白カゴへ手を伸ばす。投薬カウンターの向こうで、番号札を持った患者がひとり、立ち上がるところだった。

    *

    閉店まであと少し、待合の人影がいったん引いた。福田が会計トレーを拭き、浜口がOTC棚の箱を正面へ向ける。調剤室の奥では、春日が薬歴画面の入力欄で一度止まり、また手を動かしている。

    自動ドアが開いた。

    冷たい空気がひと筋入ってくる。夕方の外気に、開店祝いの花の匂いが薄く混じっていた。

    黒に近いネイビーのセットアップ。無駄のない肩の線。耳の下で揃えられた明るい髪。仕事用のバッグを片手に提げ、左手の薬指には細い指輪が光っている。

    千晶は、すぐに名前を出せなかった。

    知らない人ではない。知らないはずがない。けれど目の前の姿と、内藤東口店の白衣姿が、すぐには重ならなかった。

    喉の奥が固まった。

    「……香坂沙織?」

    相手は、眉をほんの少し動かす。

    「もう桐島よ」

    その声で、内藤東口店の音が戻る。電話。薬袋。待合に溜まっていく人の気配。

    胸の名札が、白衣越しに触れている気がした。

    福田が千晶を見る。春日も薬歴画面から顔を上げかける。千晶は小さく手で制した。

    「大丈夫」

    声は、乱れなかった。

    桐島沙織(きりしま・さおり)は入口で一礼する。深すぎず、浅すぎない。仕事の挨拶として過不足のない角度だった。

    「ノルメディス北多摩店を担当しております、エリアマネージャーの桐島です。本日、開店いたしました。近隣の医療機関や薬局の皆さまには、ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますので、ご挨拶に」

    言葉は整っている。棘はどこにもない。今日、商店街の何軒にも同じ挨拶で回っているのだろう。花の匂いのする夕方に、そういう顔で立っている。

    千晶はカウンターを回り、待合側へ出る。

    「開店、おめでとうございます」

    沙織は店内を一度だけ見渡した。受付、待合、OTC棚、投薬カウンター、調剤室の奥。短い。けれど、席の数も動線も、人の配置も落としていない。白衣の頃より、見る速度だけが上がっている。

    その速さの終わりで、目が待合の古い一脚に一瞬だけ残る。背もたれの角は擦れ、座面の端には何人もの体重の跡が沈んでいる。新しい店なら、たぶん置かない椅子。

    沙織は顔を戻した。バッグの持ち手を握る指だけが、一拍遅れた。

    それから、その視線が千晶の胸元で止まる。

    名札。

    「記事、見たわ」

    短い言い方だった。

    「桜ノ町薬局の管理薬剤師が、柏木千晶だって。今日、知った」

    責める声ではない。懐かしむ声でもなかった。

    千晶は入口横のOTC棚の影へ沙織を促した。待合から見える。けれど、低く話せば声は届かない。沙織はその距離の意味をすぐに理解したらしく、黙ってついてくる。

    「そう」

    千晶は頷いた。

    「ずっと、ここにいたの?」

    「七年くらい」

    「そう」

    沙織の口元が、笑う形になりかけて、止まる。

    「いい見出しね」

    手元に紙はない。画面の文字を、そのまま覚えてきた言い方だった。

    千晶は答えない。

    待合の時計が一秒進む。続けて、もう一秒。

    沙織が一歩だけ近づく。ヒールの音が床に硬く当たった。

    「私は残った。あなたは辞めた」

    言い返せる言葉は、いくつも浮かぶ。

    辞めたこと。逃げたこと。ここで積んできたこと。一冊になった緑のお薬手帳。常葉庵の階段の音。

    どれも本当だった。けれど沙織の前に並べると、少しずつ違う。

    「残ったんだね」

    それ以上は言わなかった。あの冬の音も、口にしない。

    沙織はすぐに返さなかった。バッグの持ち手が、指の形に少し沈む。今日一日、同じ挨拶を何度もしてきた手だった。

    沙織の視線が泳ぐ。自分の左手へ落ち、指輪の位置を親指で一度だけ確かめる。先に目を逸らしたのは、沙織のほうだった。

    「……それで、あなたは」

    沙織は声を落とした。

    「ここで、本当に向き合えてる?」

    すぐには答えられなかった。

    向き合えている、と言い切れる日ばかりではない。向き合おうとして、確認に逃げた日もある。できるようになったことと、まだできないことが、同じ棚に並んでいる。

    「分からない」

    千晶は言った。

    沙織の目が細くなる。

    「でも、分からないまま見てる。逃げた私が、ここまで来たから」

    沙織は何も言わない。

    「挨拶は済ませたから」

    沙織はバッグを持ち直す。

    「また来るわ」

    自動ドアが開き、冷たい空気がもう一度入った。閉まる直前、沙織の横顔がガラスに映る。内藤東口店の白衣でも、研修の同期でもない。ノルメディス北多摩店の側に立つ人の顔だった。

    ドアが閉まる。

    薬局の中に、閉店前の気配が戻ってくる。会計トレーが拭かれ、棚に箱が収まる。千晶はすぐには動けなかった。足の裏だけが、床の固さを確かめている。

    「柏木さん」

    受付側から春日の声がした。

    「不足の手配、確認お願いします」

    「見る」

    最初の音だけ喉に引っかかった。

    千晶はOTC棚の影を離れる。福田の手は止まらない。浜口は棚の箱をひとつ奥へ押し込んだ。

    カウンターを回る。

    一歩目は重い。二歩目で、白衣の裾が膝に当たる。三歩目には、調剤室の灯りが正面に戻っていた。

    春日の白カゴには、黄色い不足札が貼られている。

    千晶は手を伸ばした。

    *

    会計トレーは伏せられ、白カゴは調剤室の端に重なっていた。OTC棚の箱だけが、さっき直された向きのまま並ぶ。

    店内に、千晶だけが残った。

    今日を総括する声はない。誰かが特別な言葉をくれることもない。

    最後に、千晶が入口へ向かった。

    外はもう暗い。桜ノ町薬局のガラスには、店内の蛍光灯が映っている。古びたカウンター。使い込まれた椅子。棚の端の小さなメモ。

    千晶はシャッターのスイッチに指を置く。

    金属が、ゆっくり降りてくる。

    ここで、本当に向き合えてる?

    答えはまだ出ない。

    それでも千晶は、今日の店をこの手で閉じる。明日の朝、また開けるために。

    最後の隙間が消えると、ガラスに映っていた薬局の灯りも細く途切れた。商店街の向こうでは、ノルメディス北多摩店だけが白く明るい。

    千晶は鍵を回す。胸元の名札に一度だけ指を触れる。

    逃げたことは消えない。

    消えないまま、明日もここに立つ。

    私、薬剤師なんで。


    第9話で完結です。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

    第1話から読み返す方、途中の回をもう一度たどる方は、下のマガジンからどうぞ。

    「私、薬剤師なんで。」は、こちらのマガジンにまとめています。

    #創作大賞2026
    #お仕事小説部門

     
     
    現役薬剤師・著者。薬局の見えにくい仕事を、物語と安全な実践知にして届けています。 お仕事小説『私、薬剤師なんで。』全9話公開中(note創作大賞2026応募作)。 Kindle『薬剤師、AIはじめました』著者。 薬局の仕事、AI時代の創作、安全なAI活用について発信しています。

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