
母のこと ー私はあなたになれますか?ー 前編
人生でたった一度だけ、
私は母を叩いた。
それでも母は、
私が人生で最も尊敬する人だ。
78歳になった今も、
私は思う。
私はあなたになれますか。
序章 78歳の母へ
帰る度に、母は小さくなっていく。
今年のゴールデンウィーク、久しぶりに大阪へ帰って、またそう思った。
78歳になった母は、昔よりずっと背中が丸くなった。
それなのに、まだ朝から晩まで働いている。
私が「もう働かんでええやん」
と言っても、
毋は「家におる方がしんどいわ」
と笑う。
母らしい。
私は51歳になった。
気がつけば、
母が離婚した36歳をはるかに越え、母が必死に私たちを育てていた年齢よりもずっと年上になっていた。
それでも今になって思う。
あの頃、
一番強かったのは母だった。
10年ほど前まで、
母は洋裁の仕事をしていた。
百貨店で5万円もするような服を仕立てていた職人だった。
けれど時代は変わり、
仕事は減り、
給料の支払いも滞るようになった。
その仕事を辞めたあと、
母が選んだのは病院の清掃員だった。
私はどうしてそんな仕事を選んだのか聞いたことがある。
母はこう言った。
「病院にいる人は暑いも寒いも天気も感じられへんやろ?
そやから、お母さんが
“今日は暑いなあ”とか
“寒いなあ”とか言いながら
掃除したるねん」
どこまでも母らしい答えだった。
5月の曇り空。
景色のいいカフェでコーヒーを飲みながら、私はそんな話を聞いていた。
カフェを出る時、母が転ばないように自然と手を差し出していた。
いつからだろう。
守られる側だった私が、
守る側になったのは。
尊敬する人は誰ですか。
そう聞かれたら、
私は迷わず母の名前を挙げる。
そんな私でも。
人生でたった一度だけ、
母を平手打ちしてしまったことがある。
78歳の母と、51歳の私。
あと何回、一緒にご飯を食べられるのだろう。
あと何回、他愛もない話ができるのだろう。
これは、私が知っている母の話だ。
そして、幸せの意味を教えてくれた、一人の女性の話でもある。
1章 「9歳 盗まれた自転車」
母が36歳、私が9歳の時だった。
父は逃げた。
仕事がうまくいかなくなり、母名義の借金をたくさん作って、そのまま消えてしまった。
36歳の母は、それでも父のことが大好きだったと思う。
それでも母は、父ではなく私たちを選んでくれた。
それからの暮らしは、とにかく貧しかった。
世の中はバブルで浮かれていたけれど、私たちは大阪の田舎の長屋で暮らし始めた。
お風呂もない家だった。
家具はほとんど貰い物か拾い物。
今思えば、母はずいぶん思い切ったことをしたんだなあと思う。
転校した小学校で、私はすぐにいじめられた。
転校生で、片親で、古い長屋に住んでいて。
友達もなかなかできなかった。
放課後になると、みんな自転車に乗って走り出す。
私だけが後ろを走る。
「待ってー!」
そう叫びながら、息を切らして追いかけた。
遊ばなければよかったのかもしれない。
でも寂しかった。
だから必死だった。
そんな私を見かねた母が、自転車を買ってくれた。
近所の自転車屋さんに頼み込んで、
月1000円の分割払いだった。
月1000円でも家計が苦しくなるのは明らかだった。
それでも母は買ってくれた。
私のために。
ピンク色で、女の子の絵が描いてある自転車だった。
嬉しくて泣いた。
宝物だった。
今でも目を閉じれば思い出せるくらい、嬉しかった。
それから1か月ほどたった9月の夜。
駅前に夜店が出ていた。
帰り道、駅の駐輪場へ戻った時だった。
宝物がなくなっていた。
鍵もかけていたのに。
私は泣きながら探した。
駐輪場の隅も。
夜店の裏も。
何度も何度も探した。
母は何も言わず、私が納得するまでずっとそばにいてくれた。
もう探す場所もなくなった頃だった。
母が言った。
「後ろ乗って帰ろか」
母の赤い自転車は、貰い物のサビだらけの自転車だった。
ギーギーと大きな音を立てながら走る。
私はその後ろで、それより大きな声で泣いていた。
「こんなん嫌や」
「もう嫌や」
「みんな嫌いや」
貧乏なこと。
いじめる友達のこと。
盗んでいく大人のこと。
私を不幸にする世界、全部が嫌だった。
母はしばらく黙っていた。
ギーギー。
ギーギー。
自転車の音だけが聞こえた。
そして言った。
「あの自転車な」
「きっと大事にしてもらえるよ」
私は泣きながら聞いていた。
「だって盗みたいぐらい欲しくて、きっと買えへん人が、自分の子どものために鍵壊して持っていったんやもん」
「役に立てたね」
「その子、喜んでたらええなぁ」
私は泣きやんだ。
そんなふうに思えなかった自分が、少し恥ずかしくなった。
母は続けた。
「またええの買うわ」
「ちょっと待ってよ」
そう言って、またギーギーと自転車を漕ぎ出した。
大人になってから母は笑いながら教えてくれた。
「あの自転車な、分割払い終わるの2年ぐらいかかったんやで」
中学になるまで新しい自転車は買えなかった。
でも私は、それでよかった。
盗まれた自転車を、誰かの幸せに変えてしまう。
母はそういう人だった。
36歳のあの日も。
78歳になった今も、ずっと。
2章「貧乏でも いつも笑ってた 爆弾おにぎりの夜」
9歳と8歳の姉弟をかかえ、母はボロ長屋に引っ越した。
貰い物の家具。
和式の汲み取り式トイレ。
玄関には鍵と呼べるようなものもなく、本当にボロボロの長屋だった。
母はパートを始めた。
洋裁が得意だった母は、近くの洋裁屋で働くようになった。
家から徒歩3分ほど。
私たちのそばにいるためにも、きっとその仕事を選んだんだと思う。
世の中はバブル景気だった。
それなのに母の給料は月9万円ほどだったらしい。
母が作った服は、当時デパートで5万円ほどで売られていたという。
皮肉なものだと思う。
家賃1万円。
学費。
光熱費。
そして父が残した借金。
払ってしまえば手元に残るお金はわずかだったと思う。
だから夕食はいつも質素だった。
母の友人や職場の人たちが、時々食材を分けてくれた。
その中でも魚屋のおばちゃんは、よく焼き海苔をくれた。
20センチ四方ぐらいの焼き海苔が10枚ほど入ったものだった。
お腹が空けば、おやつ代わりに食べた。
今思えば恥ずかしい話だけれど、それすらない時期もあった。
そんな日は塵紙に醤油を染み込ませて啜った。
子どもだった私には、それでも醤油の味が嬉しかった。
その日も夕食のおかずはなかった。
残り少ないお米と焼き海苔だけ。
子どもたちにおかずも出せない夜。
母はどんな気持ちだったんだろう。
今なら少しわかる気がする。
でも母は、人生を楽しもうとする天才だった。
突然、母が声を張り上げた。
「今日の晩ご飯は、なんと!」
私と弟は顔を見合わせた。
「爆弾を作って食べます!」
「えーーーー!」
「爆弾?!」
「なにそれ!なにそれ!」
私たちは大興奮だった。
母は得意げに言った。
「ではー、作っていきます!」
焼き海苔を広げる。
茶碗のご飯をひっくり返す。
そして、
「ここで隠し玉!!」
そう言って醤油をかけた。
「そしてーーーー!」
海苔でご飯を包む。
ぎゅっ。
ぎゅっ。
大きな大きなおにぎりができあがる。
母は高らかに宣言した。
「爆弾完成!!!」
「おおーーー!!」
「すごい!!」
「やるやる!!」
私たちも真似をした。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
気がつけば、爆弾が山のように並んでいた。
「爆弾いっぱいできたね!」
そう言いながら、3人で笑った。
おかずもない。
お茶もない。
ただの大きな海苔おにぎり。
でも私たちには爆弾だった。
自分たちで作った、特別な夕食だった。
食卓が華やぐことは、本当に少なかった。
小麦粉とたくわんしかない日は、小さく切ったたくわんと小麦粉を水で練り、
薄く焼いて醤油で食べた。
母はそれを、
「しきしき焼き」
と名付けていた。
たくわんさえない日は、80円の片栗粉を買ってきて、
お湯で溶き、砂糖を入れて食べた。
ゼリーのようなそれも、私たちにはご馳走だった。
今でもたまに作る。
懐かしい味だ。
幸せは、お金の額じゃない。
豪華な食事でもない。
そんなことを教えてくれたのは母だった。
貧しかった。
本当に貧しかった。
それでも食卓には、いつも笑い声があった。
母は何もない夜に、
爆弾を作った。
そして私たちの家には、その夜もちゃんと幸せがあった。
3章「12歳・学校に行かない私」
ただ、私へのいじめは酷くなっていた。
相変わらず自転車はなく、友達の後を走って追いかける日々だった。
置いていかれたくなかった。
仲間外れになりたくなかった。
だから必死で走った。
でも、いじめはなくならなかった。
公園の真ん中に正座させられたこともある。
私を囲むように10人以上が円陣を組み、足で砂を蹴る。
顔にも服にも砂が飛んできた。
泣いたら負けだと思っていた。
だから下を向いて耐えた。
それでも一人だけ友達がいた。
京子ちゃん。
近所に住む女の子だった。
毎日のように一緒に遊んだ。
漫画を描いたり。
田んぼで遊んだり。
私の家が貧乏でも、おやつがなくても、そんなことを気にしたことは一度もなかった。
今でも年末になるとお茶をする。
私にとって、本当の友達だ。
小学校卒業間際、その事件は起きた。
京子ちゃんが、私をいじめていたグループのリーダー格だったリカちゃんに責められていた。
「なんであんなんと遊ぶん?」
「気持ち悪い」
そんな言葉だったと思う。
怖かった。
だから先生を呼んだ。
その先生は弱いものいじめを絶対に許さない人だった。
先生は言った。
「人の痛みはな、叩かれる痛さより心の方が痛いんや」
そしてリカちゃんを平手打ちした。
「謝りなさい」
その場で謝り、仲直りをすることになった。
それで終わった。
私はそう思った。
終わるわけがなかった。
中学に入った。
他の小学校からも生徒が集まる。
もういじめはなくなる。
そう期待していた。
でも最悪なことに、私はまたリカちゃんと同じクラスになった。
教室でリカちゃんが言った。
「私、この子のチクリのせいで先生に叩かれてん!」
たった一言だった。
それだけで十分だった。
無視。
陰口。
物がなくなる。
壊される。
それがまた始まった。
夏休みに入る前、私は学校へ行くのをやめた。
ある朝、母に言った。
「学校に行かない」
母は振り返りもせずに言った。
「あっそ。ご飯どうする?」
それだけだった。
理由も聞かなかった。
誰に何をされたのかも聞かなかった。
でも私は救われた。
心配されるのも嫌だった。
いじめられていることを知られるのも嫌だった。
だから何も聞かれないことがありがたかった。
それから毎朝、母は同じことを聞いた。
「今日は?」
「行かない」
「そう。ほないくわな、母さん」
昼頃になると仕事の合間に帰ってくる。
小さなお菓子を机に置いて、
「ほないくわー。お米炊いといて1合」
そう言ってまた仕事へ戻る。
毎日そんな感じだった。
責めない。
励まさない。
無理に学校へ行かせようともしない。
ただ、いつも通りだった。
夏休みに入った。
学校も休みになった。
その頃には少しずつ焦りが出ていた。
みんな前へ進んでいる。
私だけ置いていかれている。
そんな気持ちだった。
ある日、母が聞いた。
「どうしたい?」
驚いた。
見透かされたようなタイミングだった。
本当は学校へ行きたかったから。
本当は友達と同じように過ごしたかったから。
私は小さな声で答えた。
「行きたいけど、怖い」
母は何も言わなかった。
しばらくして先生が家へ来た。
「リカちゃんと話せる?」
私は黙ったままだった。
「謝ってもらおうね」
それでも黙ったままだった。
その時、母が口を開いた。
「謝ってくれたら、あんた学校行きよ」
そして続けた。
「謝る方も勇気いるんやで」
それだけだった。
夏休み最終日。
リカちゃんと先生が家へ来た。
リカちゃんは小さな声で言った。
「ごめんなさい」
正直、不服そうに見えた。
でも母の言葉が浮かんだ。
謝る方も勇気がいる。
だから私は言った。
「謝ってくれてありがとう」
その夜、久しぶりに教科書をカバンへ入れた。
翌朝。
母はいつも通りだった。
「今日は?」
「行く」
母はうなずいた。
「そう。いってらっしゃい」
それだけだった。
母は信じて待ってくれた。
急かすこともなく。
責めることもなく。
そして最後まで、私だけじゃなく相手の気持ちも考えていた。
今になって思う。
あの時母が教えてくれたのは、許すことじゃなかった。
人は誰でも傷つくし、誰でも間違う。
でも謝るにも勇気がいる。
そんな当たり前のことだったのかもしれない。
4章「30歳 離婚 母との決別」
20歳で結婚した。
授かり婚ではなかった。
会社の同僚だった8歳年上の彼と結婚した。
母は反対だった。
「顔で選んだんちゃうん?」
冗談っぽく笑いながら言っていたけれど、本気で心配しているのはわかった。
それでも私は結婚した。
交際3か月だった。
若かったし、自分の決断に絶対の自信があった。
結婚式も挙げた。
関西国際空港の近くのホテルだった。
立派な式だった。
今になって思う。
あのお金を母はどうやって工面したんだろう。
聞けないままになっている。
きっと色んな人に頭を下げたんだと思う。
23歳で長男が生まれた。
27歳で次男が生まれた。
母は初孫を本当に可愛がった。
里帰り出産で帰るたび、私より先に子どもたちを抱き上げていた。
いや、違う。
子どもだけじゃなかった。
母は私も大事にしてくれた。
「無理したらあかんで」
そう言いながら、ご飯を作り、洗濯をしてくれた。
母は私を産んだ時にリウマチになった。
だから私の体を必要以上に心配した。
そして私はずっと言えないでいる。
母を病気にしてしまった気がしていることを。
29歳になった頃だった。
結婚生活が少しずつ壊れ始めた。
会話がなくなった。
病気になっても心配されない。
返事は短くなった。
夜になると夫はパソコンの前に座り、ほとんど動かなくなった。
キーボードを叩く音だけ響くリビング
そこに存在がないかのような自分
果てしなく遠くなった夫の背中があった
そして決定的な出来事が起きた。
友人から聞いた。
「一晩一緒にいた」
それだけだった。
もう終わりだと思った。
毎日喧嘩になった。
長男は喧嘩が始まると2階へ逃げた。
耳を塞いでいた。
その姿を見るたびに思った。
離婚しよう。
私は決めたら早い。
それが長所でもあり短所でもある。
気がつけば父や弟と連絡を取り始めていた。
父は離婚後
横浜で工務店を経営していた。
成功しているように見えた。
私は離婚して、自分で稼げるようになりたかった。
誰にも頼らず生きていける力が欲しかった。
30歳。
私は母に言った。
「横浜へ行く」
「建築を勉強する」
「2年で資格取って帰ってくる」
母は黙っていた。
そして今まで見たことのない顔をした。
悲しそうで。
寂しそうで。
怒っていて。
全部が混ざった顔だった。
母は忍耐の人だった。
どんなに苦しくても耐える人だった。
でも私は違った。
決めたら進む。
壊してでも進む。
そういう人間だった。
母は言った。
「なんでなん」
「横浜にいくて、あんた あんなオヤジなんか!って嫌ってたやろ」
私は言い返した。
「でも、生活せなあかんもん お金稼がんと育てていかれへん」
母も言い返した。
「もっと 考えなさいよ! 自分勝手なことばっかり!」
お互い一歩も引かなかった。
今ならわかる。
母は離婚に反対していたんじゃない。
私が父の元へ行くことが許せなかったんだ。
自分を裏切り、
借金を残し、
子どもを捨てた人のところへ。
弟に続いて、私まで行こうとしている。
母には耐えられなかったんだと思う。
そして とても心配をしたんだと思う
また同じようにこの子達も苦しめられるのではないかと・・・
でも当時の私はわからなかった。
理解してほしかった。
応援してほしかった。
ただそれだけだった。
そして。
人生で一番後悔することをした。
「そんなことしても幸せになんかならへん!」
そう叫んだ母に、
私は平手を振り上げた。
パシン。
乾いた音だった。
一瞬で静かになった。
母は何も言わなかった。
私は母の顔を見られなかった。
人生でたった一度。
私は母を叩いた。
母は何も言わなかった。
ただ私を見ていた。
怒りもなかった。
泣きもしなかった。
その顔を見た瞬間、私は崩れた。
床に座り込んで、
子どもみたいに泣いた。
ぐしゃぐしゃだった。
理解してほしかった。
応援してほしかった。
ただ、それだけだった。
母が嫌いだったわけじゃない。
母が大好きだった。
だから苦しかった。
いつもみたいに、
「そっか。行っておいで」
そう言ってほしかった。
でも今ならわかる。
母も苦しかったんだ。
私が大事だったから。
私が父の元へ行くことが怖かったから。
また傷つくんじゃないかと、
また泣くことになるんじゃないかと、
誰よりも心配していたから。
お互いに大好きだった。
その日から私たちは口を聞かなくなった。
そして私は母を残し、
8月1日の夜、
横浜へ向かった。
振り返らなかった。
振り返ったら、
行けなくなる気がしたから。
後編
父の事ーあなたの事は嫌いですー(無料記事)
を読んでいただけると
登場する父の事を
私がなぜ嫌いなのかを
知っていただけます。
これまでの話はマガジンにまとめました
一部同じ内容がありますが
よかった読んでください