第六章 雑誌に載った日
厨房には、プロデューサーの坪倉さんがいた。他社から一年契約で送り込まれ、このホテルの料理部門を軌道に乗せるのが役目だった。
残りのメンバーは、大学生でアルバイトの和田と、元パティシエのシゲ、そして〝その人〟の三人だった。
〝その人〟は、目指した料理の道に戻るために、この職場に就職した。
ようやく手にした厨房だった。
シゲさんは少し年上で、プライドの高い男だった。
坪倉さんが席を外すと、決まって聞こえよがしに言った。
「あの人、あんな肩書きだけどさ、大した腕じゃないよな」
〝その人〟は、そういうシゲさんが、あまり好きになれなかった。
誰が何と言おうと、仕込みから提供まで、自分の手で回せるようになりたい。その一心で、開店前の厨房に一番に立ち、閉店後も誰より遅くまで残った。
入社して半年ほど経った頃、和田くんに誘われて飲み会に行った。清掃アルバイトの女性たちも数人来ていて、その中の一人がヒロミだった。
「和田くんから聞いてたより、ずっと真面目そうな人ですね」
「そうですかね。仕事のことしか考えてないだけかもしれないです」
その時は、それだけの会話だった。
仕事場では特に意識したこともない相手だった。
ただ、サキとの関係がぎくしゃくし始めていた時期でもあった。心にできた隙間に、ヒロミの存在が、少しずつ入り込んできた。
何度か二人きりで食事をするうち、自然と付き合うようになっていた。
一年が近づく頃、和田くんが厨房に来なくなった。
最後に会った日、和田くんはぽつりと言った。
「俺、やっぱりついていけないっす。すみません」
謝る必要などなかった。それだけ、この一年の仕事は過酷だった。
同じ一年で、〝その人〟は社員となり、料理長を任された。
「なんで、こいつが」
シゲさんが、誰にともなく漏らした声を、〝その人〟は聞いてしまった。それからほどなくして、シゲさんも辞めていった。
入れ替わるように、杉田さんという男がバイトとして入ってきた。中華とインドカレーの経験がある、七つ年上の料理人だった。
「お前、盛り付け適当すぎだろ」
初めて仕事ぶりを見た時、杉田さんはそう言って笑った。
それから、暇さえあれば、包丁の使い方から皿の余白の取り方まで、色々なことを教えてくれた。厳しい時もあれば、黙って手本を見せてくれるだけの時もあった。
「味は大事だけどな、最初に目に入るのは皿の上の景色だ。忘れんなよ」
〝その人〟は、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。今の自分の腕があるのは、間違いなく杉田さんのおかげだった。
厨房はまだ人手が足りず、〝その人〟は生まれて初めて、面接というものをすることになった。
相手は、四十五歳の長谷川さん。調理経験はまったくなかった。
若く頼りない料理長だと思われたくなくて、堂々と振る舞うつもりでいた。だが、いざ向き合うと、声が上ずった。
「え、あの……調理経験は、まったくないんですね」
「はい、まったくの未経験なんですが、体力には自信があります」
断り方が分からなかった。
それに、猫の手も借りたいほど、厨房は逼迫していた。
「わかりました。よろしくお願いします」
同じ頃、中国からの留学生である張さんも採用した。
厨房のメンバーは、少しずつ形を変えながら、増えていった。
料理長としての二年目は、目の回るような忙しさだった。
グランドメニューの改訂、季節ごとのフェアメニューの考案と試作、スタッフのシフト管理。一日十六時間、厨房に立ちっぱなしの日も珍しくなかった。
同じ頃、ヒロミとの同棲も始まった。
「今日も遅いの?」
「ごめん、フェアの試作が終わらなくて」
「いいよ、待ってるから」
ヒロミは、大抵そう言って、先に眠っていた。
杉田さんの力を借りながら、〝その人〟はクリスマスの特別コースディナーや、季節ごとのフェアを次々と形にしていった。
ある日、坪倉さんが興奮した様子で厨房に飛び込んできた。
「おい、聞いたか。うちのレストラン、地元の雑誌に載るぞ。お前の顔写真も一緒に出るらしい」
誇らしかった。
発売日、〝その人〟はコンビニでその雑誌を二冊買った。一冊は自分の分、もう一冊は、実家宛てに送った。
数日後の夜、電話をかけた。
「雑誌、届いた?」
「ああ、見たよ。あなたは、こんな顔で写真撮られるようになったんだな」
電話の向こうで、父の声が、少し笑っていた。
「まあ、色々あったけど、ちゃんと料理の仕事続けられてるから」
「そうか。頑張ってるんだな」
短いやり取りだったが、電話を切ったあと、〝その人〟はしばらく携帯電話を見つめていた。
誇らしさと同時に、この誇らしさを、いつまで保てるだろうかという、漠然とした不安もあった。
厨房の外では、別の顔があった。
まだバイト身分だった一年目、時間には比較的余裕があった。空いた時間、〝その人〟はパチスロ店に通っていた。ヒロミと付き合い始めてからは、二人で一緒に行くこともあった。
「今日は俺が奢るよ、好きなもの頼んで」
「え、いいの? そんなに使って大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと稼いでるから」
見栄を張りたい気持ちが、いつも先に立った。食事も、プレゼントも、惜しまなかった。その金の出所を、ヒロミに詳しく話したことは、一度もなかった。
金が足りなくなれば、消費者金融の窓口に向かった。
二十歳を過ぎた頃には、以前ほどの緊張はもうなかった。書類に記入し、審査を待つ間も、携帯電話をいじりながら平然としていた。
料理長になってからも、最初のうちは、休みの日にたまにパチスロへ行く程度だった。だが、忙しさのピークを越えた最後の半年、その均衡は崩れた。
仕事のない日は、すべてパチスロに費やすようになった。
次第に、サボれる仕事もサボるようになっていった。
ある朝、杉田さんから電話がかかってきた。
出なかった........
夕方、留守番電話にメッセージが残っていた。
「おい、大丈夫か。今日、お前が来ないと張さんと長谷川さんだけじゃ回らないんだよ。連絡くらいくれよ」
〝その人〟は、メッセージを最後まで聞かずに、電話をポケットに戻した。何か言い訳を用意しなければ、と思いながら、結局、その日も店には向かわなかった。
数日後、久しぶりに出勤すると、杉田さんが待っていた。
「お前、最近どうしたんだよ。前はあんなに必死にやってたのに」
「すみません……ちょっと、色々あって」
「色々って何だよ。ちゃんと言えよ」
言えるはずがなかった。
パチスロで金がなくなって、身動きが取れなくなっていた、とは。杉田さんの目を見られず、〝その人〟はただ頭を下げた。
「本当にすみません。次からちゃんとします」
その場しのぎの言葉だということは、口にした本人が、一番よくわかっていた。
案の定、それからも欠勤は続いた。連絡を入れない日が増え、やがて、連絡すること自体をしなくなった。
部屋に引きこもるようにして過ごす日々の中、ヒロミが、玄関先で心配そうに聞いたことがあった。
「最近、お店大丈夫なの? なんか元気ないけど」
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけ」
そう答えるのが、精一杯だった。
二年半勤めたホテルを、〝その人〟は、逃げるようにして辞めていった........
杉田さんにも、張さんにも、長谷川さんにも、他のみんなにも、まともに挨拶をしないままだった。
※次回更新は明日か明後日。もしこの物語が心に響きましたら、スキ(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。
