第五章 頬
サキのもとに戻った〝その人〟は、料理の世界でしか生きていけないと思っていた。
生計を立てるため、すぐに就職先を探した。程なくして見つかったのは、リニューアルオープンしたばかりの小さなホテルだった。
働く人間の九割が、オープニングスタッフだった。誰もが一から始める立場で、自然と距離が近くなった。
厨房は四人、二十四時間体制で回していた。
フロントの女性が三名、清掃を担当するスタッフが数十名。二十四時間動いている職場だったから、いつしか全員が互いの顔を覚えていた。
新しい生活は、悪くない滑り出しに見えた。
だが、サキとの間には、少しずつ隙間ができていった。
サキは同棲を始めた頃から、ずっと同じパン屋で働いていた。その職場に、少し年上の男性がいた。
ある晩、サキの携帯の画面に、その名前が表示されているのを見てしまった。
「それ、誰?」
「お店の人。ちょっと相談乗ってもらってただけだよ」
「連絡先、いつ交換したの」
「別に、隠すようなことじゃ……」
「隠してるじゃん、今まで一回も言ってなかったし」
声が、次第に尖っていった。
サキが浮気をするような人間ではないことは、頭のどこかでわかっていた。実際、何も起きてはいなかった。それでも、一度湧いた疑いは、消えるどころか膨らむ一方だった。
この手の言い合いは、それから何度も繰り返された。
原因の多くは、〝その人〟のパチスロや金のことだった。
分が悪いのはいつも自分の方だとわかっていながら、苛立ちの矛先は、なぜかサキに向いた。
その夜も、些細な一言から始まった喧嘩が、いつの間にか声を荒げ合う喧嘩に変わっていた。
「もういい加減にしてよ! いつもいつも人のせいにして!」
「別に人のせいになんかしてないだろ!」
「してるじゃん! 何回目だと思ってんの、これ!」
サキの声が裏返った。
次の瞬間、サキはキッチンに走り、包丁立てから一本を掴み取った。
「私、もう死ぬ!」
刃先が、サキ自身の首元に向けられた。
その一瞬、部屋の中の空気が固まった。
時間の流れ方がおかしくなったように、〝その人〟には感じられた。
――刃物。
――首。
――血。
頭の中で、何かが弾けるように、別の記憶が割り込んできた。
高校三年の冬、正座をしたまま何時間も頭を下げ続けた、あの畳の部屋。
産んでほしいと言ったのに、それが叶わなかったあの日。
あの時も、自分は何も守れなかった。何もできなかった。
――また、失う。
その考えが浮かんだのは、ほんの一瞬だったはずだ。
だが、その一瞬が、体を動かした。
〝その人〟はサキに飛びつくようにして手首を掴んだ。
力任せに包丁をもぎ取り、床に叩き落とした。
金属が畳に転がる、鈍い音がした。
「離してよ!離して!」
サキは泣き叫びながら、腕の中で暴れ続けた。
爪が腕に食い込んだ。
押さえつける力を緩めれば、また包丁に手を伸ばしかねなかった。
「落ち着けって! 落ち着け!」
何度呼びかけても、サキは止まらなかった。
嗚咽と、意味を成さない言葉が、代わる代わる漏れてきた。
どれくらいそうしていただろうか。腕の中で暴れ続けるサキを前に、〝その人〟の頭には、テレビか何かで見た場面がふと浮かんだ。
――こういう時、頬を叩いて「いい加減にしなさい」って言えば、止まるんじゃないか。
深く考えている余裕などなかった。
気づいた時には、右手が振り上がっていた。
パン........
という乾いた音が、部屋に響いた。
女性に手を上げることだけは、〝その人〟なりに守ってきた一線だった。数少ない、譲れないもののつもりだった。これより前にも、これより後にも、女性に手を上げたのは、この時だけだったと思う。
叩いた直後、サキの動きが止まった。
呼吸が、少しずつ整っていく。涙は止まらないままだったが、目の焦点が、ゆっくりと戻ってきた。
それが良かったのか悪かったのか、〝その人〟にはわからなかった。
ただ、部屋の中は、嘘のように静かになっていた。
落ちた包丁を、〝その人〟はキッチンの棚に戻した。
サキは、畳の上に座り込んだまま、しばらく動かなかった。
その夜は、それ以上何を話す気力も残っていなかった。
二人とも、疲れ果てるようにして眠りに落ちた。
翌日、仕事中もずっと、昨夜のことが頭から離れなかった。
――悪いのは、俺の方だよな。パチスロも、金のことも、全部。だけど、包丁を持ち出して死のうとするなんて……そこまで追い詰めてたのか、俺は。
鍋を混ぜながら、〝その人〟は昨夜の光景を何度も反芻した。サキの目、刃先、自分の右手の感触。
――いや、待てよ。サキの母親、重度の精神疾患だったよな。もしかして、追い詰められたからっていうより……血、なのか?
一度浮かんだその考えは、次の日になっても、その次の日になっても、頭から離れなかった。仕事の合間に、ふとした瞬間に、同じ問いが繰り返し浮かんだ。
――もしそうなら、この先もまた同じことが起きるかもしれない。俺に、支えていけるんだろうか。
考えれば考えるほど、答えは出なかった。
ただ、そうして考え続けているうちに、〝その人〟の心は、少しずつサキから離れていった。まだ二十歳だった〝その人〟には、その重さが、どうしようもなく大きく感じられた。
そんな矢先、職場の飲み会があった。
男女二人ずつの、合コンのような集まりだった。
誘われるまま顔を出すと、〝その人〟はヒロミという女性と知り合った。
話は、思いのほか弾んだ。
それから、サキとの別れは、坂道を転がるように早かった。
※次回更新は、明日か明後日。もしこの物語が心に響きましたら、スキ(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。
