第三章 裏物と消費者金融
ホテルを辞めたあと、〝その人〟はサキと暮らし始めた。
サキとは、高校からの付き合いだった。
大阪のホテルでパン職人として働いていたサキを、〝その人〟のわがままで呼び寄せた形だった。
夢だった仕事を辞めてまで、こちらに来てくれた。
二人で暮らす部屋の片付けをしていた時、サキが古い写真を見つけて笑った。
制服姿の、高校時代の二人が写っていた。
サキは、高校一年の頃から〝その人〟のことを好きでいてくれていたらしい。
二年の終わり、告白を受けたことがあった。
あの時は、返事をするのに時間がかかると言って、はっきり答えなかった。
振ったつもりも、保留にしたつもりもなかった。
ただ、部活動のキャプテンで県のベスト4の成績を残していた〝その人〟は部活に打ち込んでいて、それどころではなかった。
三年の夏、今度は〝その人〟からサキに告白した。
「貴女のことを、百パーセントに近いくらい好きになりました。付き合ってください」
返事は、迷いのないイエスだった。
付き合ってからは、サキと過ごす時間ばかりだった。デート代を稼ぐためにバイトを増やし、休みの日にはバイクでサキの地元まで会いに行った。
その年の十二月二十五日、クリスマスをサキと過ごしていた。
「あの……
妊娠、したかもしれない」
サキが、ぽつりと言った。
「................」
嬉しさと戸惑いが、同時に押し寄せた。
二人で薬局に走り、検査薬を買った。
ホテルの部屋で、震える手でそれを使った。
線は、はっきりと二本、浮かび上がった。
「産んでほしい」
〝その人〟は、迷わずそう言った。
サキは、不安そうな顔のまま、何も言わなかった。
年が明けてすぐ、それぞれの親に話した。
〝その人〟の両親は、怒らなかった。
ただ、相手の家族と、きちんと話し合う必要があると言われた。
「お前はどうしたいんだ」
父に聞かれ、答えは一つしかなかった。
「生まれてきてほしい」
両親は、それを受け止めてくれた。
三が日が明けて間もなく、サキの父親と話す機会を持った。サキの母親は、長年精神を患い入院していたため、話し合いの場にいたのは父親だけだった。
こちらの意向と、あちらの意向は、正反対だった。
サキの父親は、妊娠が明るみに出て、卒業前の学校を中退することになるのを嫌がっていた。
サキ自身も就職が決まっていた。その将来を、ここで奪うわけにはいかない——それが、サキの父親の考えだった。
〝その人〟は、頭を下げ続けた。
謝りながら、涙が止まらなかった。
生まれて初めて流すような涙だった。
正座を続けていた足はいつしか痺れ、話し合いが終わる頃には、自分の足で立つことも歩くこともできなくなっていた。
両親に支えられ、その場を後にした。
二人は別れなかった。
それだけは、双方の親も反対しなかった。サキの父親は、娘の未来を奪いたくなかっただけなのだと、今になって思う。
卒業式のあと、二人はそれぞれ別々の県へと進んだ。
離れていても、関係は続いた。そして今、こうして同じ部屋で暮らしている。
サキとの暮らしは、穏やかに始まった。
朝、サキが焼いてくれるトーストの匂いで目が覚める日が続いた。
休みの日には、二人で近所のスーパーに買い物に行き、夕飯の献立を相談した。ささやかだが、確かに温かい暮らしだった。
その暮らしを支えていたのは、ほとんどがサキの給料だった。
ホテルを辞めたあと、〝その人〟は洋服屋でアルバイトを始めたが、半年ほどで辞めた。次に始めた風俗店のボーイの仕事も、長くは続かなかった。
仕事を辞めるたびに、次の仕事を探すと言いながら、実際には家でごろごろと過ごす日が増えていった。
サキは、それでも何も言わなかった。
朝、仕事に出かける前に、こう言うだけだった。
「今日もお就活、頑張ってきてね」
〝その人〟は就活になどせず、サキが家を出たあと、パチスロ店へ向かった。
朝、開店前から並ぶのが習慣になっていた。
裏物と呼ばれる、裏ロムが入っている台を求めて、シャッターの前で待った。
台が開いた瞬間、走り出す人の波に混ざって、目当ての台へ急ぐ。座った瞬間の高揚感だけは、いつも変わらなかった。
勝つ日もあった。そういう日は、友人を呼んで焼肉に行き、気前よく奢った。財布の中身がどれだけあるかより、今この瞬間に景気よく振る舞うことの方が大事だった。
負ける日の方が、圧倒的に多かった。
朝の時点で持っていた金が、昼過ぎには半分になっている。それでも、台の前を離れられなかった。
――まだいける。この台、そろそろ来るはずだ。
根拠のない確信だけが、頭の中で膨らんでいく。残りの金を全部注ぎ込み、それも尽きる頃には、次の一手を考えていた。
――今日はダメでも、明日また来れば取り返せる。今日の分は、明日の勝ちで帳消しにすればいい。
その「明日」が、勝った試しは、ほとんどなかった。
それでも、負けた日の夜、その人は決まって同じことを考えた。
次はきっと勝てる。
次こそは。
根拠は、いつも自分の中にしかなかった。
台から離れ、外に出た瞬間、頭の中の空気が変わることがあった。
――やばい。今月の家賃、まだ払ってない。
どうしよう........
携帯のカレンダーを見て、支払日が数日後に迫っていることに気づく。手元にはもう、財布の中に小銭が数枚あるだけだった。
血の気が引く感覚を覚えながら、それでも、〝その人〟は次の日もまた同じ場所に向かった。
――今日勝てば、家賃も、借りてる分も、全部いっぺんに返せる。今日さえ勝てば。
結果は、大抵同じだった。
負けて、また同じ焦りを抱えて店を出る。
学んだはずのことを、次の朝にはきれいに忘れていた。
最初のうちは、サキに正直に言えた。
「ごめん、今月ちょっとピンチで……少し貸してくれない?」
「いいよ。ちゃんと仕事、見つかりそう?」
「うん、頑張るよ」
サキは、財布から一万円を出してくれた。
その一万円が、その日のうちにパチスロ店で消えることを、サキは知らなかった。
同じことが、何度も繰り返された。
貸してほしいと頼む回数が増えるたび、サキの表情から、少しずつ屈託のない笑顔が消えていった。
それでも、サキは断らなかった。
やがて、頼むことすら、しなくなった。
サキが風呂に入っている間、財布を開くようになった。
千円札を一枚、二枚。全部は抜かない。
全部抜けば、さすがに気づかれる。
そう自分に言い訳をしながら、指先だけは迷いなく動いた。
風呂から上がったサキが、財布の中身を数える素振りを見せることがあった。
〝その人〟は、何食わぬ顔でテレビを見ていた。
「あれ、なんかお金、思ったより減ってるな……」
「そう? 使いすぎたんじゃない?」
そう言いながら、心臓が音を立てていた。サキは、それ以上は追及してこなかった。
金が足りなくなると、実家にも電話をかけた。
「ちょっと今月、生活費が足りなくて」
理由はいつも生活費だった。パチスロで使った、とは一度も言わなかった。
母は、多くを問い詰めずに振り込んでくれることが多かった。それに甘えて、同じ電話を何度もかけた。
母からの援助と、サキから借りる金だけでは、足りなくなった時期があった。
〝その人〟は、消費者金融の看板を見上げていた。
自動契約機のブースの前で、しばらく動けなかった。
中に入る勇気が出ず、何度もその場を離れては、また戻ってきた。
意を決して機械の前に座ると、心臓が耳の奥で鳴っているのがわかった。
書類を出し、名前を打ち込む。
審査の結果を待つ数分間が、やけに長く感じられた。
「ご利用可能です」
画面にその文字が出た瞬間、安堵と、何かを失ったような感覚が同時に押し寄せた。
金は、翌週にはもうなくなっていた。
ある夜、負けが込んで、手元に交通費すら残らなかった日があった。
〝その人〟は、パチスロ店から自宅まで、二時間近くかけて歩いた。
ネオンの消えた繁華街を抜け、住宅街に入る頃には、足の裏が痛み始めていた。
何のために歩いているのか、途中から分からなくなっていた。
ただ、歩き続けるしかなかった。
部屋に着くと、サキはまだ起きていた。
「遅かったね。ご飯、あるよ」
その一言だけで、〝その人〟は何も言えなくなった。
温めてくれたご飯を、黙って食べた。サキは、それ以上何も聞いてこなかった。
消費者金融からの借入は、いつの間にか四十万円近くに膨らんでいた。
生活費と称して親から借りた金、サキから抜き取った金、それに加えての額だった。
サキは、隣にいながら、その全てには気づいていなかった。あるいは、気づかないふりをしてくれていたのかもしれない。
日に日に痩せていくその人を見て、何かを察していたのかもしれない。それでも、朝には必ず「行ってきます」と言って仕事へ向かった。
ある晩、実家から電話がかかってきた。
父からだった。
「お前、いくら借りてるんだ!」
声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。母がどこかで金の流れに気づき、父に伝えたのだろう。
〝その人〟は、正直に答えるしかなかった。
「消費者金融で、四十万くらい……」
「馬鹿野郎! いい加減にしろ!」
電話越しに、父の怒鳴り声が響いた。それからしばらく、父は説教を続けた。金のことだけでなく、生活のこと、サキのこと、この先どうするつもりなのか。
〝その人〟は、ただ「はい」「すみません」を繰り返すことしかできなかった。
最後に、父は言った。
「とにかく、一回こっちに帰ってこい。話はそれからだ」
電話を切ったあと、その人はしばらく畳の上に座り込んでいた。
サキには、まだ何も話していなかった。
数日後、その人は荷物をまとめた。
玄関で靴を履いていると、サキが後ろから声をかけた。
「いつ戻ってくるの?」
その人は、振り返れなかった。
「……ちょっと、分からない」
それだけ言って、その人は部屋を出た。
サキを、その部屋に残したまま。
※次回更新は火曜日です。もしこの物語が心に響きましたら、スキ(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。
