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『誰かの半生ー反省ー』上巻~未熟~第1章

第1章歩く男

春も近づく三月初旬の夜、凍える体を急がせ、〝その人〟は途方もなく歩いていた。

 街灯の間隔だけが、やけに長く感じられた。

息を吐くたび、白い塊が夜の中に溶けて消えていく。

ポケットの中を探ると、指先に触れたのは小銭が数枚だけだった。

財布は、もう自分のものではなかった。
 

携帯電話は、とうに電源が入らなくなっていた。

連絡を取る手段は、もうどこにもない。
歩きながら、頭の中で同じ言葉が繰り返された。

――終わった........

 何もかも、終わった。

このまま歩き続けて、どこかで力尽きればいい。

そんな考えが、抵抗もなく浮かんでは消えた。

死ぬということが、今は不思議なくらい近くにあった。

それでも、足は止まらなかった。
どれくらい歩いただろうか。
県境を越えたあたりで、赤い公衆電話のランプが目に入った。

〝その人〟は吸い寄せられるように受話器を取った。
ポケットの小銭を全て投入口に落とし、震える指で、覚えている数少ない番号を押した。
呼び出し音が、やけに長く感じられた。

「……もしもし」
 母の声だった。

その瞬間、張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ。

「ごめん……お金、振り込んでもらえないかな」

それだけを言うのが、精一杯だった。

理由も、経緯も、うまく言葉にできなかった。

ただ、情けなさだけが喉の奥にこびりついていた。

母は、多くを聞かなかった。

「わかった。今からすぐ手続きするから」

その一言に、〝その人〟はその場に崩れ落ちそうになった。
 

母はいつもそうだった。深くは聞かない。
理由も、経緯も問い詰めず、ただ「わかった」とだけ言って、受け止めてくれる。

中学時代、不登校だった頃の朝を思い出した。学校に行きたくなくて、腹が痛いと言ってトイレに閉じこもり、母が仕事に出かけるのをやり過ごしていた、あの毎朝。あの時も、母は深くは聞かなかった。

初めて自死を考えたのも、あの頃だったな。

あの頃と、今と。
何も変わっていないと、〝その人〟はぼんやり思った。

受話器を置き、公衆電話の前にしばらく立ち尽くした。
指先の感覚はとうになくなっていたが、それが寒さのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、よくわからなかった。

振り込みには少し時間がかかると母は言った。

近くに、まだ開いているコンビニがあった。

〝その人〟はガラス扉を開け、暖房の効いた店内に逃げ込んだ。
雑誌コーナーの前で、立ったまま時間を潰した。
文字は目に入っても、頭には何も残らなかった。

一時間ほどして、ATMで金を下ろした。
出金手数料を差し引いても、地元に帰るだけの額は確かにそこにあった。

数字を確認した瞬間、安堵よりも先に、情けなさが込み上げてきた。

 コンビニを出ると、外はまだ暗かった。
駅の方角を示す看板が、遠くにぼんやりと灯っていた。

この土地に来た時のことを思い出した。あの時は、希望しかなかった。
 
   
  あれから、何年経っただろうか。

〝その人〟は、看板の光に向かって、また歩き出した。


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