誰かの半生ー反省ー上巻~未熟~第0章
第0章プロローグ
それはまだ寒い、二月下旬の朝のことだった。
「ねぇ……なんかお腹が痛い」
妻の声で、〝その人〟は眠りの底から引きずり出された。
半分覚醒しない頭で、その一言の意味を理解するまでに数秒かかった。
理解した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。嬉しさなのか、不安なのか、自分でも判別がつかなかった。
いや、判別する余裕などなかった。
ただ........
両方の感情が、同時に、同じ強さで、〝その人〟の中を占めていた。
「大丈夫? じゃあ、電話してみるね」
声だけは平静を装ったつもりだった。
震えていたかどうかは、自分でもわからなかった。
病院へ連れて行く道中、いつもより信号が長く感じられた。
助手席の妻は時折顔をしかめながらも、まだどこか落ち着いていて、その表情に
〝その人〟は少しだけ安堵した。
病院に着くと、感染症対策という理由で、〝その人〟は入り口より先へ進むことを許されなかった。
自動ドアが閉まる音が、やけにはっきりと耳に残った。
あとに残されたのは、スマートフォンの画面と、そこに浮かぶ既読の数字だけだった。
迷ったが、〝その人〟はそのまま仕事へ向かった。
何もできることがないなら、せめて普段通りでいようと思った。
実際には、何一つ普段通りにはならなかった。
手元の画面を何度も確認しながら、上の空で一日をやり過ごした。
妻からのメッセージは、途切れ途切れではあったが、確かに届いていた。
その短い言葉の一つ一つに、〝その人〟はしがみつくようにして、なんとか自分を保っていた。
だが、午後一時を境に、その糸がふっと切れた。
既読はつかず、返信もない。
時間だけが、いやに粘度を増して流れていった。
十分が一時間のように感じられ、〝その人〟は仕事の手を止めては画面を見る、ということを何度も繰り返した。
何かをしているようで、実際には何もできていなかった。
そうして迎えた十六時。
スマートフォンが震えた。
『生まれたよ。』
たったそれだけだった。
句読点も、絵文字も、説明も、何もない。
その素っ気なさが、かえって現実感を奪っていった。
生まれた、という事実だけが宙に浮かび、〝その人〟はその意味を掴みかねていた。
喜ぶべきなのか、まだ何かを心配すべきなのか、自分の感情がどこにあるのかさえわからなかった。
戸惑いのまま、数分が過ぎた。
電話が鳴った。
「病院に来て」
妻の声だった。
それだけを聞いて、〝その人〟は返事もそこそこに立ち上がっていた。
※次回更新は9月12日予定です。 もしこの物語が心に響きましたら、スキ(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。
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