『誰かの半生-反省-』上巻~未熟~第2章 18歳の街
〝その人〟が、この土地に来たのは十八歳の時だった。
料理の世界で生きていく。
そう決めていた。
本当はフランスで修行を積むつもりだった。
専門学校の教師に相談し、渡航の算段まで進めていたが、就労ビザの壁は思いのほか厚く、結局は断念するしかなかった。
気づけば、同級生たちは良い就職先を次々と決めていった。
残っていた求人の中から選んだのが、この土地の、少し名の知れた高級ホテルだった。
入社式のあと、三日間の研修があった。
新入社員は男女合わせて二百人ほど。
誰もが同じような紺のスーツに身を包み、大きな会議室に並んで座っていた。
人と話すのは得意ではなかったが、話しかけられれば愛想よく笑い、隣の席の同期とも当たり障りのない世間話くらいはした。
悪くない滑り出しに思えた。
研修二日目のことだった。
緊張のせいか、朝から胃の調子がおかしかった。
昼を過ぎた頃には、冷や汗が滲むほどの腹痛に変わっていた。
会議室は静まり返っていて、講師の声だけが響いていた。二百人の中で、自分だけが手を挙げて「トイレに行きたいです」と言う——それがどうしてもできなかった。
まだ名前も覚えていない同期たちに、初日から情けない印象を持たれたくなかった。
脂汗を流しながら、〝その人〟はひたすら耐えた。
限界が来たのは、それから間もなくのことだった。
後ろの列にいた社員に、震える手で合図を送った。
「あの……トイレに、行っていいですか」
声が掠れた。
「どうぞ」短い返事を背に、〝その人〟は会議室を飛び出し、廊下を走った。
間に合わなかった。
トイレの個室でズボンを下ろした瞬間........
すでに遅かった.......
しばらく、〝その人〟は便器の前に立ち尽くしていた。頭の中が真っ白になり、何も考えられなかった。
とにかく、今この状況をどうにかしなければいけない。
それだけはわかった。
その時、廊下の向こうから複数の足音と話し声が近づいてきた。
休憩に入ったのだろう、男性社員たちがトイレに次々と入ってくる。
個室の中で、〝その人〟は息を潜めた。
――臭いでバレる。僕がここに来たのは、みんな知っている。
「くっさっ」
誰かの声が、はっきりと聞こえた。
〝その人〟は、自分の社会人人生がここで終わったと思った。
人の気配が消えるまで、どれくらいそうしていただろうか。
トイレが静かになると、〝その人〟は便器の水でズボンとパンツを洗った。
パンツはどうしても臭いが取れず、迷った末、タンクの裏に隠すようにして捨てた。
ズボンは濡れたまま、何度も何度も絞った。
手が震えていた。
スーツの上着に臭いは移っていなかったのが、せめてもの救いだった。
だが濡れたズボンのまま、午後の研修を受けることはできそうになかった。
先ほどの社員のところに戻り、〝その人〟は言った。
「すみません、体調が悪くて……これ以上、研修を受けられそうにありません。帰らせてもらってもいいでしょうか」
「わかりました。お大事に」
それだけだった。誰も、深くは聞かなかった。
電車に揺られながら、窓の外を見ていた。
何も考えないようにしていた。
翌日、出社すると、同期の一人が声をかけてきた。
「昨日、大丈夫だった? もう体調は平気?」
「大丈夫です。なんか、昨日は調子悪くて」
笑って、そう答えた。
――バレてなかったのかもしれない。みんな優しいな。よかった。
心の中でそう思いながら、〝その人〟は誰よりも先に会議室の席についた。
研修を終え、配属されたのは、結婚式や宴会を担う調理部門だった。
本当はレストランの厨房を希望していたが、希望は通らなかった。
部門はさらにいくつかの班に分かれていた。
〝その人〟が配属されたのは、スープとソースを担当する班だった。
他の班より小さく、六人だけの所帯だった。
班長は坂本といった。普段は温和な顔をしている人だった。
だが、〝その人〟が仕事を覚えられず気を利かせられずにいると、坂本班長は本人ではなく、面倒を見ている中山と遠藤——一つ上と二つ上の先輩を叱った。
「お前ら、ちゃんと教えてやってんのか」
その場に自分がいるのに、自分には何も言わない。
陰で、中山さんと遠藤さんだけが咎められる。
それが、いたたまれなかった。
二人は二人で、坂本班長の派閥に属していた。
逆らうことはなかった。
もう一人、木村という十二歳上の先輩がいた。
木村さんは坂本班長の派閥には入っていなかった。
むしろ、坂本班長から疎まれているようなところがあった。
木村さんは厳しかった。
仕事の手順を間違えれば、その場ではっきりと指摘された。
「それじゃ客に出せねえだろ。もう一回」
言葉に容赦はなかったが、少なくとも、陰で言われることはなかった。
目の前で叱られる方が、まだ楽だった。
仕事が終われば、木村さんはよく〝その人〟を連れ出した。
安い焼肉屋や、深夜までやっている定食屋に連れて行かれ、仕事の話も、それ以外の話もした。
厳しさと親しみが、同じ人の中に同居していた。
働き始めて半年が経った頃、事故が起きた。
仕込みの最中、手元が狂い、包丁が指を二本切った。傷は深く、病院で十六針縫うことになった。
長い休みの間、木村さんから連絡が来ることは一度もなかった。
心配していないはずはなかった。ただ、休んでいる人間に連絡を入れて、余計なプレッシャーを与えたくなかったのだろうと、後になって思う。
数日休んだ。
だが、いつ出勤していいのか、自分では判断がつかなかった。
片手が使えない状態で、厨房に立って何ができるのか。
誰かに聞けばよかったのかもしれない。
だが、電話をかけることすら、なぜかできなかった。
休みは一週間近くに及んだ。
久しぶりに出勤すると、坂本班長に呼び出された。
「手が故障してても、できることはあったろう。何で来なかったんだ」
その言葉に、返す言葉がなかった。
できることを探す、という発想そのものが、その時の自分にはなかった。
十八歳の頭では、状況を整理して、誰かに相談して、落としどころを探る、ということができなかった。ただ、判断できないまま、時間だけが過ぎていった。
その日の夜、木村さんに呼ばれた。
「怪我のことは、お前が悪いわけじゃない。けどな、休むなら休むで、ちゃんと連絡しろ。それだけはお前の問題だ」
厳しい言葉だったが、それだけを言うと、木村さんは焼酎を注いでくれた。
何かを諭すでもなく、ただ黙って隣に座っていてくれた。
それからというもの、少しずつ、出勤する足が重くなっていった。
休む理由は、その都度違った。
「熱があります」と言う日もあれば、「親戚の葬儀で」と言う日もあった。
その葬儀は、遠い親戚のものだったり、母方の誰かのものだったりした。
誰の葬儀かと聞かれれば、その場ですぐに作れるだけの嘘を、〝その人〟は用意していた。
理由らしい理由がない日もあった。
休みは徐々に増え、やがて連絡さえ入れずに休む日が出てきた。
無断欠勤が続いた頃には、部署の空気はすでに変わっていた。
誰も、多くを聞かなくなっていた。
木村さんだけは、たまに声をかけてきた。
「お前、ちゃんと食えてんのか」
その一言に、いつも何も答えられなかった。
一年が経つ頃、〝その人〟はホテルを辞めた。
辞める、というよりは、辞めさせられる、という形に近かった。
部屋の鍵を、返すことすらしなかった。制服だけを紙袋に入れて、〝その人〟は静かに部屋を出た。
最後まで、木村さんに何も言えなかったことだけが、心のどこかに引っかかっていた。
※次回更新は日曜日予定です。 もしこの物語が心に響きましたら、スキ(♡)やフォロー、サポートで応援していただけると執筆の励みになります。
