
【#創作大賞2026 #恋愛小説部門】Past Love(8・終)
(8)ジュウネンカン
二〇一八年。
あの一九九七年の幻影から、そして偽りの二〇一七年から引き剥がされるようにして戻ってきた明音は、心機一転をただの言葉で終わらせないため、これまでの人生で一度も発揮したことのないような、自分でも驚くほどの猛烈な行動力で活動を始めた。
まず彼女が手をつけたのは、長年「ここにしがみつくしかない」と自分を洗脳し、怯えながら席を守っていた、あのうだつの上がらない中小企業の会社員の座を、自らの手で潔く投げ捨てることだった。
かつては、この年齢でここを辞めてしまったら次なんて絶対にない、路頭に迷って孤独死するだけだと夜中に布団の中で震えていたはずなのに、いざ自ら履歴書を書き、外の世界へ一歩踏み出してみると、世界は拍子抜けするほどあっけなく、彼女のために新しい扉を押し開けてくれたのだ。
登録した転職エージェントを介して、いくつかの企業の面接室のドアを叩く。就職氷河期という最悪の世代を生き抜き、理不尽な職場で泥水をすすりながらサバイバルしてきた明音のタフな実務経験は、現代の新しい中途採用市場においては、意外にも「修羅場をくぐってきた、図太くてメンタルの強い即戦力」として、高く評価された。
内定が決まった新しい職場は、額面の給与こそ前の職場より多少下がるものの、残業代が完全に支給され、福利厚生が隅々まで整った、風通しの良い、まっとうな会社だった。
次は、三十代の停滞期の間、ただ鏡を見るのが嫌でずっと無造作に伸ばしっぱなしにしていた、生気のない長い髪をバッサリと切り落とすことだった。
大きな駅前にある、若い女性たちで賑わう少しお洒落な美容室の白い椅子に座り、明音は鏡に映る冴えない自分を見つめながら、「ショートカットに、バッサリいっちゃってください」と静かに告げた。
サクリ、サクリ、と耳元で響くハサミの硬質で冷ややかな金属音が、心地よく鼓膜を震わせる。ケープの上に、そして床の上に、バサバサと中途半端に毛先だけ色の抜けた毛束が落ちていく。
それはまるで、過去への見苦しい執着や、あのスマートフォンの奇妙な世界で過ごしてしまった篤との濃密すぎる想い出たちを、一本ずつ丁寧に、二度と繋がらないように切り落としていくための厳かな儀式のようだった。
「髪質がすごく良いので、綺麗にまとまりましたよ。いかがですか?」
若くてお洒落な美容師の声にハッと顔を上げると、大きな鏡の中には、首筋が大胆に露出した、見違えるほどすっきりと洗練されたショートカットの自分が佇んでいた。
「すごくお似合いですよ」と美容師が鏡越しに心からの笑顔を向けてくれるのを見て、明音は少し照れくさそうに頬を染めながら、「……ありがとうございます。なんだか、すごく新鮮な気持ちです」と答えていた。
たとえそれがマニュアル通りの営業用のお世辞だったとしても、その言葉が、今の新しい一歩を踏み出した自分には、輝かしい勲章に思えた。
現実の二〇一八年で、目に見える失恋をしたわけではない。けれど、あの光の渦の中で篤に「さよなら」を告げてリセットボタンを押し込んだあの瞬間の胸の痛みは、人生のどんな別れよりも深く、明音の心に消えない傷痕として刻まれていた。
マフラーの隙間をすり抜けて首筋を撫でていく、冬の冷たい夜風に身を小さくすくめながら、明音はこれが甘い感傷を完全に断ち切るための、自分自身への厳かなケジメなのだと確信していた。
きっと、私は長くて都合が良くて、そして悲しい夢を見ていたのだ。
人生に行き詰まり、三十代の終わりに疲れ果てた孤独な自分が、寂しさに耐えかねて一瞬だけ脳内に見せた、よく出来た白昼夢。1LDKの城に戻ってから、あの不気味なスマートフォンアプリ『Past Love』のことを、いくらネットの掲示板や検索エンジンの奥深くまで探しても、怪しい都市伝説やオカルトの書き込みすら、何一つとしてヒットしなかった。
本当に、よくできた夢だったのだと自分に何度も言い聞かせ、明音は新しい職場の、まだ慣れないまっさらなデスクに向かった。
新しい会社で、SEとして必死にコードを書き換えていく日々。前のブラック企業では「怒鳴られないための防衛」として死んだ魚の目で仕事をしていた明音が、会社で「システムをより良くするための提案」をしたり、仕事に対して積極性を出してみた。
提案するまでは怖かったが、それが周囲の優秀な若手たちに認められ「時任さんは、かなりのやり手らしい」と噂が流れたこともある。
若い生え抜きのプログラマーたちのような最先端のスピードはなくても、前のブラック企業で嫌というほど叩き込まれた、泥臭いトラブルシューティングのタフさと、炎上案件を冷徹に捌く調整力は、驚くほど重宝された。周りの技術についていくため、あの1LDKの殺風景なデスクの前に座り、夜中まで必死に新しい開発環境の勉強をし直した。泥臭くても「裏の努力」をしなければ、また「うだつの上がらない自分」に戻ってしまう。
自分のスキルがアップデートされ、世界にまっとうに必要とされていく過程で、最初は「孤独で寒々しかった独りの部屋」が、少しずつ戦う大人の仕事場として機能し始めた。
時折ふとした瞬間に、あのアプリのダウンロード完了時に液晶画面の暗闇に青白く浮かび上がっていた不気味で奇妙な一節が、脳裏を掠めることがあった。
『一の後悔、十の葛藤、百の涙が揃うとき。道は拓かれ、あなたは「あるべき自分」へと還っていく』
――そう、十の苦しみなんかじゃない。あれは、より良く生きようと足掻く人間が通るべき『十の葛藤』だったのだ。たとえ、私の脳が見せた一瞬の幻覚だったとしても。あの言葉の響きだけは、間違いなく本物だったのだと思う。
私は、孤独でボロボロだったどん底の夜を越え、地に足のついた未来に辿り着くために、あの言葉が予言した通りに、これまでの人生で涙を流し尽くしたのだろう。
明音はそう自分を納得させ、今ここにある、自分の力で暮らす現実に深く感謝した。そうして、以前の職場で過ごしていた頃とは全く違う、澄み渡った心持ちで、目の前の仕事にがむしゃらに邁進していった。
そこからは、言葉通りあっという間の十年間だった。
三十代のときに完全に腐らせていた空白の時間を取り戻すかのように、ただひたすらに駆け抜けた。最初はシステムを覚えることだけに必死だった業務も、数年も経てばすっかりベテランになり、後輩を優しく指導する立場にまでなって、社内での自分の居場所と信頼を、自分の力で確実に築き上げていった。
けれど、根っからの酒好きとしてのライフスタイルは、年齢を重ねても変わることはなかった。一週間を戦い抜いた金曜日の夜には、お気に入りのコトコトと心地よい打鍵音がするゲーミングキーボードを響かせ、オンラインゲームの美麗な世界にログインし、画面の向こうにいる見知らぬ仲間たちとボイスチャットでゲラゲラと笑い合いながら、冷えた缶ビールを空けた。
休日はひとりで静かに都内の美術館へと足を運んで美しい絵画を眺めたり、映画館の暗闇でポップコーンを食べながら映画を観たり、時には気の合う職場の同僚と居酒屋の狭いカウンターで、くだらない仕事の愚痴を言い合って笑ったり。そこには確かに、以前の彼女が絶望の中で見失っていた、笑いの絶えない、ささやかで豊かな、独立した女性としての日々が確立されていた。
それでも、彼女の心から、あの過去の出来事が完全に消え去ったわけでは決してなかった。
一歩間違えれば、心を病んでいたかもしれない、あの二〇一七年の夜。マンションの部屋で孤独にすり潰されそうだった、過去への恐怖。そして、あの時自らの手でリセットして消し去った、篤の優しい体温と匂いが残る、パラレルワールドの切ない記憶。
時折、雨の降る静まり返った夜や、ふとした休日の夕暮れに、胸の奥が鋭いナイフで刺されたように痛むこともある。けれど、今の明音には、明日行くべき職場があり、守るべき生活があった。
次の日の朝、オフィスの明るい光の中で、仲間たちから「明音さん、おはようございます!」と声をかけられれば、その胸の痛みは、日々の心地よい忙しさの中に優しく溶けて、忘れることができた。
そうやって、明音は過去の亡霊から逃げることなく、一日一日を、一歩一歩を丁寧に生きてきた。
泥臭くても、自分の力でちゃんとお金を稼ぎ、自分の力でおいしいお酒を飲み、自分の力で静かに眠る。仕事が上手くいけば、週末のご褒美のビールが格段に旨くなり、プライベートが充実すれば、また月曜日からの仕事の成果も上々になる。
そんな、かつての自分がずっと憧れて、けれど手に入らないと諦めていた「豊かな人生の循環」の中に、今の明音は、確かにしっかりと存在していた。
◇
プチ残業をした金曜日の仕事帰り。
いつものように、週末の買い出しのために二十四時間営業の大きなスーパーへと向かった。
――よし、今日は一週間頑張った自分へのささやかなご褒美に、ちょっとだけ贅沢なクラフトビールか、いい日本酒でも選ぼうかな。
頭の中で週末の完璧な酒盛り計画を立てながら、明るく照らされた酒類コーナーの前で、真剣な目付きで缶の裏面を吟味していると、不意に、背後から肩をトントンと、戸惑うような手つきで軽く叩かれた。
誰だ、私の今週一番の至福のひとときを邪魔するやつは、と明音が少しムッとした表情で振り返る。
「……明音? やっぱり、明音だよな」
「えっ……あ、あっちゃん……?」
そこに立っていたのは、歳月を経て、自分と同じように四十七歳という大人の年齢になり、目元に渋い男の皺を刻んだ、スーツ姿の篤だった。
――今日、あんな都市伝説を後輩たちが話していたから?
明音は一瞬、心臓の鼓動が止まり、自分が飲んでもいないのにアルコールの見せる幻覚でも見ているのかと激しく我が目を疑った。現実の世界の彼は、地元で別の女性と結婚して家庭を築いているはずなのだから。
「どうして……どうして、あっちゃんが東京の、こんなスーパーにいるの?」
「ああ……急に会社から辞令が出てさ。去年の春に、東京の本社へ転勤になったんだよ。家はもうちょっと北のほうだけど。明音もこの沿線に住んでるって風の噂で聞いてたから……いや、本当を言うとさ、複数の路線が交差するこのエリアのどこかにいる、っていうそれだけのアバウトな情報しかなくて。ほら、共通の友だちのSNSの背景に、たまにこのへんのローカルな風景や、珍しいクラフトビールの写真が写り込んでただろ? あいつに明音の居場所を直接訊く勇気はなかったから、それだけをヒントにさ。だからこの一年、仕事帰りにこのへんの酒を扱ってるスーパーを、あてもなくずっと歩き回ってたんだ。もしかしたら、いつか逢えるかもとは思ったけど……本当に逢えるなんてな」
「……って、なんであっちゃん、私がお酒が好きだって知ってるの? 私たち、高校生以来まともに話してないのに」
「あ、あれ……? そう言えばそうだな。なんでだろ。なんかさ、明音は毎晩楽しそうにビールのふたを開けてるような気が、ずっとしてたんだよな。不思議だけど」
――もしかして? あの時のことを?
明音は胸の奥が、じわりと熱くなるのを感じた。
消し去ったはずの、偽りの二〇一七年の世界。あの中で二人で笑い合っていた記憶の破片が、彼の中にも、確かな温もりとして残っていたのかもしれない。知る術はないが、そう思おうと明音は複雑な笑みを浮かべた。
紺色のシックなスーツをさらりとスマートに着こなしている大人の篤は、あの高校生の頃の、そして幻の世界の頃と何一つ変わらない、周囲の空気をふんわりと和ませるような柔らかな笑顔を明音に向けていた。少しだけ混じる白髪が、彼の生きてきた時間のリアルさを物語っている。
この街の、無数にあるスーパーの中で。彼は一体、何十回、何百回、幻の私を追いかけて、空振りの夜を重ねてきたのだろう。その彼の行動が、明音の心を震わせる。
しかし。
「そっか、転勤大変だね……奥様は、お元気?」
胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じながら、意を決して、一番訊きたくて一番訊きたくなかった核心を尋ねると、篤の穏やかな表情が、ほんのわずかに陰りを見せた。
「あれ、明音にはまだ伝わってなかったか。俺……離婚したんだ」
「えっ……」
明音の口から、買い物客の行き交う店内で、思わず小さな驚きの悲鳴が漏れた。
「何年も前の話だけどな。まあ……お互いに仕事が忙しかったりさ、色々あってね。たくさん話し合って、お互いにボロボロになるまで傷ついて、それでやっと出した結論なんだ」
篤はそれ以上は深く語ろうとはせず、大人の配慮で言葉を優しく濁した。その少しはにかんだような、けれど寂しさを乗り越えてきた男の顔を見て、明音は「そっか」とだけ短く返した。元夫婦の間に流れたであろう、他人には決して踏み込めない歳月の重みが、彼の短い言葉の端々から静かに伝わってきた。
もしかしたら、私のタイムリープの残響が、巡り巡って彼の現実の選択をも歪めてしまっていたのかもしれない。そんな切ない罪悪感が一瞬だけ胸を過ったが、明音はそれを静かに飲み込んだ。
「……明音とは普通の友だちに戻ってるけど、元々は深く付き合ってた恋人同士だったからさ。なんか変な下心があるみたいに思われたら嫌だな、なんて。さっき話したあいつに連絡先を訊く勇気もなくてさ。だから、こんなカッコ悪い方法しか思いつかなかったんだよ」
そう言って、昔の自分たちを愛おしむように目を細める篤。その茶色い瞳の中に映っているショートカットの自分が、彼の中で、あの「仕様もない」別れ方をしたはずなのに、いつの間にか彼の「人生の本当に綺麗な思い出」として大切に、大切に保管されていたのだということを肌で感じ、明音の胸の奥は、不思議な、温かい自信に満たされていった。
「……そっか。そうだね。私たちは大昔に恋人同士だったし……今は、お互いに色んな荒波を越えてきた、お友だち、だもんね」
それって、失いかけた関係の果てに辿り着いた、なんて贅沢で、なんて重みと信頼のある大人の関係なのだろう。明音は今、この四十七歳という年齢になって初めて、その事実が持つ本当の尊さに気づいた気がした。
「でさ、明音。そのカゴの中に山積みになってる大量の缶ビールとハイボールは、もしかして今日一日で全部飲むやつ? あと日本酒も」
「えっ? あ……」
篤が、明音の手元にある買い物カゴの中身を覗き込み、偽りの二〇一七年の時と全く同じ、呆れたような、けれどどこか嬉しそうな苦笑いを浮かべている。
「うん、そうだよ! 悪かったわね、金曜日の夜に自宅で酒浸りになるのが生きがいの、独身会社員なんだから!」
「ははは! 面白いな、明音は。本当に何も変わってなくて安心したよ。……じゃあさ、その自宅の缶ビールを開ける前に、もしよかったらどこかで軽く飯でも食わないか? 逢わなかった長い間、お互いにどういう風に過ごしてきたのか、泥臭い話を軽く吐き出し合おうよ」
「あはは、いいよ、喜んで! その代わり、急に私を誘い出したんだから、あっちゃんの奢りね?」
「はいはい、分かったよ。そのノリも学生時代のまんまだな」
明音は、照れくさそうに頭を掻く大人の篤の背中を、景気づけにバシバシと力強く二回叩いた。叩いた手のひらに残る彼の背中の厚みが、幻なんかじゃない、今を生きる本物の男の質感を伝えていた。スーパーの自動ドアを出ると、二〇二七年の暮れの、ひやりとした夜風が、新しく切り揃えた明音のショートカットの首筋を優しく撫でていった。
明音は微笑みながら、胸の奥で静かに思った。
過去の後悔をシステムで無理やり塗り替えた世界には、どこか血の通っていない、色の足りない虚構の夢しか転がっていなかった。
どれほど傷ついてものたうち回ってもいいから、自分の足でしっかりと大地に立ち、今ある日常の足元から、一つずつ小さな幸せを這いつくばって拾い集めていくこと。それこそが、あの一九九七年の自分の部屋で、涙を流しながら日記を綴っていた、あの健気な「十七歳の私」への、せめてもの大人の私からの最高の返礼なのだと。
一度は自分の手ですべてを手放したはずの、一番大切だったもの。諦めて、二度と交わらないと思っていた彼の人生。
なのに、いま目の前で笑っている彼の存在は、驚くほど自然で、じんわりと温かい。
泥臭くても、どんなに格好悪くても、今の現実を必死に生き抜いたその先にしか、本物の輝かしい明日は待っていない。
明音は、篤の横顔を愛おしげに見つめながら、神様がくれた、あるいは自分が選び取ったこの奇跡のような偶然に、胸の奥で深く、深く感謝していた。
今の自分なら、三十代の頃の「死んだ魚の目をしていた」私に対して、少しだけ胸を張って「生きててよかったよ」って言える。
一足飛びに、あの頃のような若い恋人に戻るには、二人はもう、人生のたくさんの苦さと酸っぱさを知りすぎてしまった。
けれど、お互いが過ごしてきた空白の夜の答え合わせを、今すぐすべてさらけ出す必要だって、きっとないのだ。
ただ、次にまた、近所のスーパーの酒売り場で不意に鉢合わせたときに、今よりもほんの少しだけ、お互いにもっと自然に、格好つけずに笑い合うことができるなら。
そんな愛おしい未来も、これからの二人の前には、確かに、あるのかもしれない。
並んで歩く道すがら、明音と篤はふと、同時に夜空を見上げた。その先には、静かにスカイツリーがそびえ立っている。美しい光の塔は、明音がこれまでの人生で見たどの灯りよりも優しく輝いていた。かつては冷え切った硝子の器のようだったこの街も、これからの二人が生きていく愛すべき現実も――そのすべてを、光の塔はどこまでも温かく照らし出していた。
<了>
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