
【#創作大賞2026 #恋愛小説部門】Past Love(7)
(7)サヨナラ
冬の母校は、世界の果てに取り残されてしまったかのような、どこか寂しげな空気にすっぽりと包まれていた。
二人は、かつて毎日のように通った正門へとまっすぐに続く、長い桜並木の坂の下を静かに歩いていた。春になれば見事な桃色のアーチを描いて生徒たちを迎え入れるはずの太い枝たちも、今はすべての葉を落とし、厳しい冬の眠りの中にある。
しかし、隣を歩く篤はその枯れ木のような無骨な枝をそっと見上げながら、まるで今まさに満開の花びらが舞い散っているかのように、どこまでも穏やかで優しい笑みをその表情に浮かべていた。
「懐かしいな。俺、ここの桜並木が本当に好きだったんだ。春になると、毎日ここを通るのが楽しみでさ」
「……うん、私も、ここが本当に大好きだったよ」
明音もまた、自分の記憶の底に眠っている、制服姿の二人が歩いたあの眩しい景色を重ね合わせるようにして、切ない微笑みを返した。
出会った頃、二人はまだ、何色にでも染まれる制服に身を包んだだけの、ただのどこにでもいる高校生だった。
あの日の光景は、二十年が経った今でも、目を閉じれば昨日のことのように、胸の奥で温かく、鮮明に甦る。舞い散るピンクの花びらのシャワーの中、この大きな桜の木の下で、私は彼を見つけて、まるで重力に吸い寄せられるみたいに、駆け寄ったのだ。
「ねえ、あっちゃん。覚えてる? 私があの日、ここで初めてあっちゃんに声をかけたときの、最初のセリフ」
「え? えーと……」
篤が少しだけ歩調を緩め、眉をひそめて記憶の細い糸を手繰り寄せるようにして、ゆっくりと唇を開く。その愛おしい唇の動きに合わせるように、明音もまた、自分の記憶の声をぴったりと重ね合わせた。
「――『私の名前、絶対に覚えてください!』」
完全に重なり合った二人の声が、人通りのまばらな、冬の冷え切った正門前に小さく響き渡る。
直後、どちらからともなく同時に吹き出し、子供のように声を上げて笑い合った。その瞬間だけは、二十年の歳月も、歴史の歪みも、すべてが消え去ったかのように思えた。
「いやあ、本当に懐かしいよ。あのときは、いきなり女の子が突っ込んできて何を言い出すのかと思ったら、それだったからな。本気で戸惑ったし、固まったんだから」
「ふふ、そうだよね。あっちゃん、目が点になって完全にフリーズしてたもんね」
「でもね、実は……あのとき、すごく嬉しかったんだよ。ずっと前から密かに気になっていた可愛い子が、まさか向こうから話しかけてくれるなんて思ってもみなかったから」
それは、付き合い始めてから随分と時間が経ったある日に、彼が照れくさそうに教えてくれた、二人だけの小さな秘め事だった。
クラスの違う、学年でも目立つ存在だった篤もまた、自分と同じように、ずっと私を目で追ってくれていたのだと知ったあの日。嬉しさに胸が激しく震え、こらえきれずに放課後の教室で涙をこぼしたことを、明音はまるで昨日のことのように思い出す。
「明音は本当に可愛くて、奔放で……俺にとっては、いつだって眩しすぎるくらいの、もったいない存在だったよ」
篤はそう静かに告げると、これまでのどこか泳いでいた視線をピタリと止め、誤魔化すことなく真っ直ぐに明音の瞳を見つめた。冬の澄んだ光が、彼の瞳を茶色く透き通らせている。
「明音。……ちょっと、真面目な話があるんだ」
「うん。……実はね、私もあるの」
予感は、確信となって胸の中にあった。篤が次に何を口にするのか、明音にはもう痛いほど分かっていた。
「俺と……結婚なんて、しなくていい。籍も入れなくていいし、式も挙げなくていい。明音がそれを拒むなら、俺は一生、今のままでいい。だから……お願いだから、ずっと俺の傍にいてほしい」
それは少し意外な、歪な形ではあったけれど、彼がこの世界で悩み抜いた末に導き出した、限りなくプロポーズに近い、切実で悲痛な願いだった。
明音の予想を裏切らない、どこまでも自分を後回しにする、彼らしい誠実すぎる言葉。この世界でも、彼は明音の頑なな拒絶に傷つきながら、それでも明音と一緒にいることを選ぼうとしてくれている。
「……ごめんね、あっちゃん。本当に、ごめんね。それは、できないの」
「どうして……! 何がだめなんだよ!?」
篤の絞り出すような問いに、明音はただ、静かに涙を浮かべながら頭を振った
「私があっちゃんを縛って、あっちゃんが本来歩むはずだった、本当の自由な幸せを奪うことなんて……私には、これ以上できないから」
その瞬間、普段はめったに声を荒らげることのない、温厚そのものだった篤が、珍しく激しい感情を剥き出しにして叫んだ。彼の目から、大粒の涙が溢れ落ちる。
「俺の幸せが何かなんて、他のみんながどう言おうと、俺自身が決めることだ! 俺は明音といるのが、今だって幸せなんだよ!」
「でもね……この現実は、違うの。あっちゃんが自分で選んだ歴史じゃないの」
あまりにも自分に都合よく、私のエゴだけで書き換えられてしまった、美しすぎる偽物の世界。
けれどこれは、あの日、孤独に耐えかねた明音が過去の「十七歳の私」に身勝手な干渉をしてしまったがゆえに生じた、歪な砂の城の奇跡に過ぎない。このまま彼と生きていけば、あの十七歳の少女は、ずっと自分を呪いながら生きていくのだ。そんなことは、絶対にさせてはいけない。
明音はコートのポケットから、すべての元凶であるスマートフォンを取り出し、液晶に浮かぶ『Past Love』のアイコンを強く長押しした。やはり、通常のアプリのように削除マークは現れない。想定内の、冷ややかなシステムからの拒絶。
けれど、今の彼女の心に迷いなど一ミリもなかった。
明音は驚くほど冷徹で素早い指捌きで設定画面の深部を開き、最下部に隠されていた青い文字列――『スマートフォンのリセット』を選択した。
この画面のボタンを押し込めば。
書き換えられた今の贅沢な同居生活も、篤と紡いできた新しくて愛しいすべての日々も、何もかもが光の中に消えて失われてしまう。二度と、彼の体温に触れることはできなくなる。
それでも、明音の覚悟は、冬の氷のように冷たく、そして強固に揺らがなかった。
「あのね、もし……もしもまた、全然違う、お互いに何も縛られていない本当の未来で出会えたときは、今度は絶対にその手を離さないから。……だからそれまで、ほんの少しだけお別れね」
「明音? さっきから何を言ってるんだ……? そのスマホはなんだよ?」
「ありがとう、あっちゃん。……世界で一番、大好きだよ」
ほんの少しの間だけ、孤独だった私に、叶わなかったはずの甘い夢を見せてくれて、本当にありがとう。
明音は祈るようにそっと両目を閉じ、液晶画面の上の『リセット』のボタンを、親指で静かにタップした。
タップした瞬間、液晶の奥で無数の幾何学的な光のラインが静かに走り、まるで回路が彼女の覚悟を承認したかのように、青白いゲージが滑らかに満ちていく。
液晶の放つ白い光が、明音の視界を文字通りに染め上げた。周囲の空間がバチバチと歪み始める。次の刹那、冬の枯れ木だったはずの桜の枝が一斉に狂い咲き、二人の境界線をかき消すような、凄まじい桜吹雪の嵐が頭上から降り注ぐ。
「さよなら、私の愛したあっちゃん」
「明音、待てよ! どこに行くんだよ! 待てって、明音――っ!!」
篤が必死に手を伸ばし、彼女のコートの袖を掴もうとする。けれど、彼の悲痛な叫びは、世界を埋め尽くす猛烈な花吹雪の中に、一瞬で削り取られるようにしてかき消されていく。
明音の身体は、圧倒的な光と桜の嵐と共に、篤の目の前から静かに、けれど完全に消滅した。
◇
次に気がつくと、そこは見慣れた、けれど少しだけ味気ない、いつもの明音の自室のベッドの上だった。
背中やお尻のあたりに確かに感じていた、あのパラレルワールドにあった広いダブルベッドの、柔らかで贅沢な沈み込みはどこにもない。
今、自分の身体の下にあるのは、長年使い古してスプリングのすっかりへたってしまった、硬くて薄いシングルベッドの、あの慣れ親しんだ感触だった。
部屋を包み込んでいる空気の匂いすら、完全に違っている。
さっきまで鼻腔をくすぐっていた、篤の洗いたてのシャンプーのような柔らかな大人の男の匂いは跡形もなく消え失せ、代わりに漂ってきたのは、自分が長い間留守にしていた間の、ひやりと冷たくて、どこか埃っぽい、一人暮らしの寂しい部屋の匂い。
恐る恐る壁の安っぽいカレンダーに目をやると、印刷された数字は「2017年12月」のまま、そこにあった。
ただ、何かが決定的に失われてしまったことだけを告げるように、鼓膜が痛くなるほどの圧倒的な静寂が、重く部屋の空間を満たしていた。
本当に、すべては、元通りになったのだろうか。
明音は逸る心臓の鼓動を必死に手で抑えながら、這いずるようにしてベッドから出た。暖房の入っていないフローリングの容赦ない冷たさが、足の裏からじわじわと体温を奪っていく。けれど、そのじんわりとした痛みが、ここが私の生きるべき本物の現実なのだと告げていた。
彼女はふらつく足取りでスチールラックへと手を伸ばし、その奥深くに仕舞い込んであった、あのイエローの表紙の日記帳を引っ張り出す。
ページをめくる指先が、細かく震えて止まらない。
明音が恐る恐る視線を落とした、一九九七年のそのページ。
そこに残されていたのはインクの滲む、明音が経験した、あの日の失恋の記録だった。十七歳の自分が、未来からの警告に怯えながら流したあの生々しい涙の痕は、ページのどこを探しても、もうどこにも存在していない。
ただ、自分が傷つき、のたうち回りながらも、必死に一人で歩んできた乱暴な丸文字だけが、そこに並んでいた。
「……戻って、これたんだ」
その言葉と共に、張り詰めていた安堵感が、ゆっくりと温かい波のように明音の胸の奥へと広がっていく。
篤とのあの甘い偽りの幸せを自らの手で壊し、このうだつの上がらない、孤独で冷え切った十二月の1LDKに戻ってくるという選択が、本当に正しかったのかどうか、まだ確固たる自信はなかった。
カーテンを開けると、スカイツリーが何事もなかったかのようにそびえ立っている。遠くで冷たく無機質に輝くその光が、一人きりになった明音の孤独を余計に際立たせているようだった。けれど、不思議と窓の外を見つめる視界は、今までになく澄み渡っている。もうこれ以上、ありもしない「もしもあのとき」という、過去の亡霊や後悔に縛られることなく、私は私の足で、自分の歪な力で、前を向いて歩いていける。そう、確かに心から確信したはずだった。
もう彼のことで振り返ったりはしない。私は私の人生を、私の足で生きていくのだと、さっき静寂の中で決めたばかりだ。あの幻の二〇一七年に、未練も、篤の大きな温もりも、すべてを綺麗に置いてきたはずだった。なのに。なのに、どうして。
「……あれ、おかしいな……。なんでだろ」
十二月の静まり返った夜の闇の中で、ぽつりと呟いた明音の声は、妙に掠れて、消え入りそうに響いた。
気がつけば、明音の冷え切った頬を、熱いものが一筋、一筋と激しく伝っていく。
慌ててセーターの袖や手の甲で何度も拭っても、拭っても、それは泉のように湧き出して止まることを知らなかった。
かつて本当に彼と高校の秋に失恋したときや、篤が別の女性と結婚することを知ったあの絶望の夜、あのときですら、ここまで惨めで、胸が引き裂かれるようには泣かなかったはずなのに。
あのときの失恋は、若さゆえのすれ違いという「運命の悪戯」のせいにできた。けれど、今度のは違う。彼と生涯を共にするはずだった輝かしい未来を、他の誰でもない自分自身の意思で、この手で永遠に葬り去ってしまったのだから。
世界で一番大好きな人を、自分の手で二度と戻らない場所へ突き落してしまった。その究極の傲慢さと痛みが、いまさら刃となって明音の胸をメッタ刺しにしていた。
激しいスコールのような涙の雨となって、明音のガラス玉のような瞳から次から次へと溢れ出し、冷え切った誰もいないフローリングの床へと、ポタポタと、重い音を立てて激しく落ちていった。
――十二月の、誰もいない殺風景なフローリング。
そこに場違いな薄紅色の桜の花びらがひとひら、静かに、けれど確かに舞い落ちたことを、泣きじゃくる明音はまだ知らない。