
雪女接触事例報告「−28℃の恋」第五話
前の話
事例④:低温適応改造体との生身の触れ合い
久遠 朔也(クオン・サクヤ)。44歳。ロボティクス研究者。
雪女との累積対話時間:1284時間35分
観察期間:2年8か月
改造前物理接触時間:0秒
改造後初回接触時間:421分08秒
死亡:なし
久遠は、過去3件の接触事例をすべて閲覧していた。
なんて悲しい話なのだろう。
雪女に触れて、生きることはできない。
心を通わせることができたとしても、その先にある生身の触れ合いをした瞬間に、死へのステップを踏むことになる。
これは、雪女にとっても、男たちにとっても、辛く、救いのない話だと久遠は思った。
ただ、それでも、雪女には彼を引き付ける何かがあった。

久遠は、雪女に一度も触れなかった。
触れれば、彼女を再び加害者にしてしまうと理解していたためである。
久遠は雪女に初めて会った時のことを記録者に語ったことがあった。
「今でもよく覚えていますよ。何も話さなかった」
彼は遠い目をした。
凍れる湖の上にたたずむ雪女。彼女は久遠が男だと確認すると、口をつぐんだ。
男であるあなたは、私と話すことはできません。私はあなたを殺してしまう。
無言で彼女はそう言っているようだった。
久遠は会話すら拒む雪女のそばでずっとたたずんでいた。
何も語らず、ただただそこにいる。
同じ空気を吸い、吐く。
同じ風を感じ、違う温度を感じる。
その様は、「北風と太陽」の逸話のようだった。
もっとも、雪女にとっては冷たい風のほうが心地よいので、
凍てつく太陽というべきだろうか。
久遠はただひたすら、雪女のそばにいた。

「どうして、私が話さないのに、あなたはずっといてくれるのですか」
「本当は、君は話したいんじゃないかなと思ってるからさ」
久遠は過去の雪女接触事例の記録を紐解き、彼女が本来は話好きなのではないかと考えていた。それが、何らかの理由で口をつぐんでいるのだとも。
決定的な理由は、おそらく鳴海の事例ではないか。その仮説も立てていた。
「私は、人と触れ合うことができません」
「私は、人が生きられない温度で生きています」
「そして、私の中をめぐっているものは、人を殺します」
やがて、雪女はポツリポツリと自分が見てきたものについて話すようになった。
大怪我をさせてしまった猟師の話。
彼女の腕の中で凍り付いてしまった修験者の話。
そして、彼女を愛したがゆえに息絶えてしまった技術者の話。
「私が触れたから、榊原さんは大怪我しました」
「私が逃げなかったから、御堂さんは死んでしまいました」
「私が泣いたから、愛された証を出してしまったから、透さんは死んでしまいました」
「ううん、それだけではないのです。私が幸せだといったから、もっと欲しいと言ってしまったから、彼は死んでしまう方向に進んでしまったのです」
久遠はただただ、彼女の話を聞いていた。
やがて、彼女は久遠の話を聞くようになり、二人の間に会話が紡がれ始めた。
それでも久遠は感じざるを得なかったのである。
彼女の中におそれがあることを。
どんなに触れずにいても、いつかは触れたくなってしまう。
心を通わせることを拒否すれば、耐えることもできるだろうが、
雪女は元来、人と心を通わせることを願いとしているのだ。
それを押さえつけて、耐え続けていることもまた悲しいことのように思えた。
雪女伝説。
なんと救いのない話であろうか。
…と、常人であればそう結論し、忘れ去っていくのだろう。
だが、久遠は常人ではなかった。
久遠は結論した。
人間のままでは、雪女を愛することはできない。
ならばやることはただ一つ。自分が人間でなくなればいい。
ロボティクス研究者である彼にとって、それはある意味運命づけられた決断だったのかもしれない。彼以外、それをできる者などいないのだから。
この結論に基づき、久遠は自身の身体を少しずつ置き換えていった。
彼は雪女接触事例を読み始めたころから、低温で活動するための基礎技術研究を進めており、後は応用技術と、それを継続的に運用していくための調整だけで済んだのも幸いだったと、のちに久遠は語っている。

まず彼が最初に廃止したのは、血液である。
久遠の血管系は、生身の血液を流す器官ではなくなった。
心臓は摘出し、代わりに複数の低温循環ポンプを胸郭内へ配置した。
循環液には、エチレングリコール系の人工不凍血漿を採用した。
ただし、それは人体内で代謝される毒物としてのエチレングリコールではない。
人間の代謝経路から隔離された循環液であり、低温接触用の工学的血液といえよう。
すなわち、久遠は雪女の体液と類似した体液を己の体に流すことにしたのである。
雪女と同じ体温域まで自分の体温を下げるのだ。
そうすれば、雪女に触れることができる。
久遠の肉体改造はさらに進んだ。
腎臓と肝臓は、雪女の生の体液の混入に耐える浄化モジュールへ置換した。
肺は人工酸素交換器へ接続、消化器系は生命維持の主系統から切り離し、摂食と味覚体験のための補助器官として残した。
生身の臓器は、もはや久遠の生命活動を決める中心ではなかった。
しかし、久遠は消化器系を残した。それは、彼が雪女と一緒に食事を楽しみたいと考えていたからである。
体を構成する素材は、低温での生命活動という目的に合わせて改造していった。
骨格に、関節、循環管には低温での使用に耐えうるチタン合金やセラミック系材料を。
外装にはポリエーテルエーテルケトン系樹脂と人工真皮を。
雪女と接触する面には、温度制御膜を備えたシリコーン系人工皮膚を採用した。
久遠は己の五感の全てで雪女を感じ取りたいと願っていた。
そのため、神経系はその機能を維持したままとした。
視覚。変更なし。雪女の美しい姿はあるがままで彼の脳に結像する。
聴覚。変更なし。雪女の涼やかな声はそのまま彼の脳で再生される。
嗅覚。変更なし。雪女のにおいは、どんなだろうか。
味覚。変更なし。彼女の体液の甘味はそのまま感じ取ることができるはずだ。
そして、触覚。
冷痛覚遮断処理だけは丁寧に施した。
そのうえで、触覚はしっかりと残した。
痛みではなく、圧を。やさしく雪女の肌をおし、その柔らかさを。
凍傷ではなく、ぬくもりのわずかな差を。あったかいと感じ取ることができる、その差を。
久遠が雪女に触れたとき、それを「危険」としてではなく、「女の子」として感じとる。
それは久遠の悲願であったし、もしかしたら過去事例の男たちの思念もあったのかもしれない。

改造後の久遠の通常体表温度は−27.5℃。
雪女の平均体表温度−28℃より、0.5℃だけ高い。
人間にとっては死の冷たさである。
だが雪女にとっては、自分を焼かず、自分に奪い尽くされない、初めての熱であった。
雪女は、久遠との接触を頑として拒んだ。
また久遠も殺してしまう、そう考えた彼女の気持ちを誰が責められようか。
久遠はいつも、優しく雪女に告げていた。
「大丈夫。僕が君に触れることはないから安心してほしい。」
久遠は決して雪女に触れることはなかった。
しかし、雪女は人の心は変わりゆくものだということを身をもって知っていた。
いつ久遠が自分と心を通わせることを、そしてその先にある生身の触れ合いを求めてしまうかを恐れていた。
いや、心はもう通いはじめていたのかもしれない。
性的なやり取りこそなかったものの、穏やかで全てを受け止める久遠にいつしか雪女は安心感を抱いていた。
それだけではない。久遠はただ穏やかに受け止めるだけではなく、ひたむきに研究に打ち込む情熱的な側面も持ち合わせていた。工学的に理解するならば、そうなる、という彼の話は面白かった。
さらには、「へんたい」だと自称する彼から、「しもねた」という面白い言葉遊びも教わっていた。それは日本語を解する彼女にとって、新しい世界が開けるような遊びだった。
要は、話しているだけで楽しかったのである。
彼女は、求めてはいけないと自分を厳しく自制していた。
久遠にひかれているのはきっとその通りである。だが、求めた瞬間に、このささやかな幸せは悲劇に変わってしまうのだ。雪女はそう考えていた。
しかし、雪女とて心の揺らぎはある。
我慢続きの彼女は、ある日、ちょっとしたことで、珍しくすねた。
久遠が、それまで一度もしてこなかった動作を見せた。
雪女の手へ、ゆっくりと自分の手を差し出したのだ。
「ダメです。それをしたら、朔也さん、あなたは。」
雪女は慌てて飛びずさった。
久遠は目を細めて微笑んだ。
それは、2年8か月かけて肉体改造をしてきた男の微笑だった。
「大丈夫。僕は、人間の温度を捨ててきた。ようやく今日、完成したんだ。」
つづく
事例④:低温適応改造体との生身の触れ合い‐2