
雪女接触事例報告「−28℃の恋」第六話
前の話
事例④:低温適応改造体との生身の触れ合い‐2
雪女は首を振り、凛と久遠を見据えた。
「そんなことをしてはいけません。あなたまで、人間でなくなってしまう」
久遠は穏やかな表情で答えた。
「人間のままでは、あなたに触れられなかった。あなたを人殺しにしてしまうからね。
だから、僕はあなたに流れる血潮と同じ温度になれるよう、肉体改造をしてきたんだ。サイボーグみたいなものだね。でも人間だよ?確かめてごらん?」
雪女は知っていた。久遠は冗談は言っても、タチの悪い嘘はつかない男である。
雪女は初めて、自分から男に手を伸ばした。
おそるおそる、その白いゆび先が久遠のゆびに触れた。
霜は走らなかった。
皮膚も癒着せず、剥がれなかった。
雪女は息を呑んだ。
「本当に…」
「だからもう怖がらなくていいんだ。僕はそのためにいる」
雪女は久遠の頬に手を伸ばし、そっとなぞった。
やはり皮膚は貼りつかず、凍傷にもならなかった。

「何もおこらない。ただのほっぺた」
「ほぼ同じ温度だからね」
雪女はおそるおそる、久遠の頬を触れている手をそっと下ろし、胸の辺りに置いた。

何も起こらない。
雪女が久遠の顔を見ると、彼は優しく微笑んでいた。軽く広げられた両手は、雪女がしたいことをしても大丈夫だと言っているように思えた。
雪女はゆっくりと久遠の胸に、その身を寄せていった。
久遠はそっと、雪女を抱き、その背中に腕を回した。
頬、胸、上腕が彼女の体に触れている。
氷結も、皮膚癒着も、吸熱も起こらない。
雪女の身体は震えていた。 それは、もちろん寒さによるものではなかった。 恐怖と、期待と、長い孤独の終わりに対する混乱もあったのかもしれない。
雪女は、久遠の胸に頬を寄せた。
「あったかい……」
その言葉は、人間の意味する熱とは異なる。 久遠の身体は-27.5℃であり、人間が触れ続ければ凍傷を負う。 だが-28℃の雪女にとって、それは初めて触れる、自分を焼かない温度だった。
そしてまた、奪い尽くすべき熱でもなかった。
触れた瞬間に失われる命でもなかった。 そこにあり続ける、ほんの少し、0.5℃だけ彼女よりも熱い、やさしい熱だった。
人間であれば0.5℃を感じることは稀であろう。
だが彼女は雪女。
しかも、この温度は彼女のために寄せられてきた温度なのだ。
彼女は初めて、あたたかいという感覚を知った。

「あの、私、雪白小夜子(ユキシロ・サヨコ)と言います。雪女です。それなのに…」
小夜子は息を詰まらせた。
そして、
「嬉しい…」
小夜子の瞳から液体が流れ落ちた。
涙は透明で、冷たく、凍らなかった。 人間にとっては毒となる不凍体液。 過去に男を殺したものと、同じ涙だった。
久遠はその涙を指で受けた。 人工皮膚の上で、小夜子からこぼれ出た雫はそのまま震えていた。
久遠はぺろっとそれを口に含んだ。
「しょっぱい」
小夜子は慌てた。
「だめです!それは」
久遠は、穏やかに微笑みながら静かに首を振った。
「大丈夫。肝臓も腎臓も君に合わせて作り変えてきたんだ。40分後もどうということはないよ。と、いうか僕の血がそもそも君の血に合わせてきてるからね。もう、君に触れても死なない男がここにいる」
小夜子は言葉を失った。
久遠は彼女の涙を優しく拭った。 その仕草は、毒を避けるための処置ではなかった。 ただの、女の子の涙を拭う所作だった。
なお、この直後、久遠は意味不明な言語遊戯を行っている。
「これで僕らの血潮は!えっちでグリコー!」
「ぷっ!なにそれw」
発言の意図は、エチレングリコールという語に由来する駄洒落であると推定される。
記録者としては、本報告書への記載を躊躇した。…実に躊躇した。
何なんだコイツは。
しかし、当該発言の直後、雪白小夜子が観測史上、初めて明確な笑顔を示したことは特筆すべき事実である。従い、これを重要な情動反応として記録する。
尚、記録者としては全く面白くない駄洒落だったが、小夜子が笑ってしまったのは「しもねた」の言葉遊び活動が奏功した可能性もあることを注記しておく。
小夜子は笑った。
それは微笑ではなかった。
諦めや遠慮を含んだ、雪女特有の静かな表情でもなかった。
声をこぼし、肩を震わせ、目尻に涙を浮かべながら笑う、ただの女の子の笑顔だった。
久遠はその表情を見て、しばらく動かなかった。
記録では、この時点で久遠の体表温度が−27.5℃から−27.4℃へわずかに上昇している。
原因は不明。
人工循環液の温度制御誤差という解釈も可能である。
だが、久遠本人は後に、これを「男として自然な反応ですよ」と説明している。
小夜子は笑いながら、まだ少し怯えたように、久遠の手に触れた。
指先。掌。手首。
彼女は触れる範囲を、おそるおそる、少しずつ広げていく。
凍着は認められなかった。
皮膚剥離も、壊死も、循環異常も認められなかった。
久遠はただ、小夜子に触れられながら、小夜子をまぶしそうに見つめていた。
「本当に、死なないのですね」
小夜子は何度もそう言った。
「死なないさ」
久遠はそのたびに力強く答えた。
それは、自分の全身全霊、全知全能を結集した自分の体への信頼でもあった。
「本当に?」
「本当に」
「私が触っても?」
「大丈夫」
「私が泣いても?」
「大丈夫」
「私が、あなたを好きになっても?」
久遠はそこで少し黙った。
小夜子は、言ってしまったあとで目を伏せた。
自分の言葉に驚いたようだった。
禁じてきたものを、初めて自分の口で外へ出してしまった者の顔だった。
好き。
その言葉を発した途端、言葉にしないでも伝わった途端、相手は身を滅ぼしていく。
文字通り、死の行進を告げる合図になってしまっていたのだ。
久遠は彼女の手を取り、その指先を自分の胸へ導いた。
「大丈夫」
久遠はゆっくりと、自分でも確かめるように、その言葉を紡いだ。
そして、言葉だけでなく、事実でそれを示そうとした。
久遠の胸。そこには心臓がなかった。
少なくとも、人間の意味での心臓は存在しなかった。
胸郭内では、複数の低温循環ポンプが規則的に作動している。
拍動は回転運動から生み出される機械的拍動であり、液温は氷点下であり、人間の胸に耳を当てた時に聞こえるはずの、あの柔らかな、生命の力強さを感じさせるあの音は存在しない。
小夜子は耳を寄せた。
「変な音」
「失礼なっ!無茶苦茶苦労したんだよ。高かったし」
「心臓じゃない」
「そうだね」
「でも、動いてる」
「うん」
小夜子は目を閉じた。
しばらくの間、その機械の音を聞いていた。
それは人間の鼓動ではなかった。
しかし、彼がここにいて、生命活動を継続していることを告げる音ではあった。
小夜子は、久遠の胸に額を押し当てた。
「朔也さん」
「うん」
「私、いま、あなたに触っています」
「うん」
「あなたは、生きています」
「うん」
「私、誰も殺していません」
その言葉の終わりで、小夜子は再び嗚咽した。
涙は久遠の胸元へ落ちた。
透明な雫は人工皮膚の上を滑り、凍ることなく残った。
久遠はそれを拭わず、そのままにした。
小夜子は慌てて顔を上げた。
「拭いてください。汚れます」
「汚れじゃないよ」
「毒…」
「涙」
久遠によってかぶせられた言葉に、小夜子は言葉を失った。
久遠は続けた。
「毒として扱う必要がある場面では、僕はそう扱う。危険物として管理もする。測定もする。記録もする。影響度も把握して、対策を打つ。でも、今ここに落ちたこれは、君が泣いたから出た涙だ。そして、僕はこの涙によって死ぬことはないんだよ」
久遠は、胸元の雫を指で受けた。
「だから、これは涙。オッケー?」
小夜子は、彼の指先を見つめた。
過去に男を殺した液体。
彼女を怪物たらしめてきた毒性体液。
誰かに触れたいと思うたびに、彼女自身を傷め、縛ってきた液体だった。
それを、久遠は当然のように涙と呼んだ。
小夜子と久遠が生身の触れ合いを開始してから72分後、小夜子は久遠の手を握ったまま、初めて自発的に接触範囲を拡大した。
手指から前腕。
前腕から上腕。
上腕から肩。
肩から背中。
小夜子は、腕を久遠の背中に回したまま、そっと久遠を抱きしめた。
小夜子の体温に近い久遠の体は、もはや吸熱対象ではなかった。
ただし、久遠の循環ポンプ出力は一時的に上昇している。
小夜子による吸熱反応そのものが完全に消失したわけではない。
彼女は依然として、触れたものから熱を奪う存在である。
しかし久遠の身体は、体温を奪われることを前提に設計されていた。
そして、奪われたところで、その温度域は久遠にとっても生命活動を行う温度域なのだ。
なのに、計算が合わない。
なぜ久遠のポンプ出力が上昇しているのか。
久遠はのちに語っている。
あったり前じゃないですか。ドキドキするってやつですよ、と。
久遠と抱き合いながら、久遠の体温を感じながら、小夜子は震えていた。
「怖いです」
「うん」
「嬉しいのに、怖いです」
「うん」
「あなたが壊れないか、ずっと怖い」
「壊れたら、直せばいいさ」
「そんな簡単に言わないでください」
「じゃあ、壊れないようにするよ」
小夜子は少しだけ笑った。
「それなら、いいです」
小夜子は久遠の目を見つめた。久遠もまた、同じようにした。
生身の触れ合い開始から110分後、両者は初めて口づけを行った。

記録上の彼らの口唇接触時間は2.4秒であった。
短時間である。
だが、過去事例において口唇接触は重大な損傷を伴っていたため、この2.4秒という時間は極めて重要な意味を持っていた。
凍着なし。
粘膜損傷なし。
毒性体液による異常なし。
口づけの直後、小夜子は久遠の顔を両手で包み、つぶやいた。
「あったかい」
久遠は応答している。
「小夜子も、あったかいよ」
小夜子は上目遣いに久遠の顔を覗き込んだ。
それでも、怖いのだ。
「私、怖いです。幸せなのに、もっと欲しがってる」
「欲しがっていい」
小夜子は顔を上げた。
「そんなことを言ってはいけません」
「言うさ。そのために作り変えたんだから」
久遠は静かに続けた。
「僕は、小夜子に触れるためだけに身体を変えたんじゃない。小夜子が誰かに触れたいと思った時、その願いを罪にしないために変えた。だから、当たり前だよ?」
小夜子は息を詰めた。
記録映像では、この時点で小夜子の顔面部に顕著な紅潮様変化を確認している。
そもそも雪女の血色変化は人間のそれとは異なっているのだが、この反応は人間がするものと酷似していた。視線の揺れ、呼吸周期の乱れ、発声の遅延から、強い羞恥と期待が同時に発生していたものと考えられる。
「私が、女としてあなたを欲しがっても」
「うん」
「あなたは、死なないのですか」
「死なない」
「本当に?」
「本当に。全部想定してる。
僕が思いつく限り、小夜子が怖いと思うことは全部想定してきたよ。
死にたくないし、何より小夜子に悲しい思いを二度とさせたくないからね」
小夜子は、久遠の衣服を指でつかんだ。
その力は弱かった。
だが、離そうとしなかった。
「では、確かめたいです」
その発言をもって、生身の触れ合いは第二段階へ移行した。
つづく
事例④:低温適応改造体との生身の触れ合い‐3